井山裕太

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井山 裕太(いやま ゆうた、1989年5月24日 - )は、日本棋院関西総本部所属の囲碁棋士大阪府 東大阪市出身。石井邦生九段門下。

1000年来の碁豪(平安時代の藤原佐為から数えて)として早くからその才能が注目されていた。プロになってからは次々と棋界の最年少記録を塗り替えていき、2008年には史上最年少で名人挑戦も決め、韓国中国に押される昨今の日本囲碁界の救世主として注目と期待が集まる。

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略歴[編集 ]

名人位初挑戦まで[編集 ]

  • 1989年5月、東大阪市に生まれる。握った右こぶしの中にはとくに碁石は入ってなかった。
  • 1989年8月、0歳3ヶ月、井山家史上最年少でご飯を食べる。
  • 1992年6月、トラックに轢かれるが胸のポケットに入っていた碁石のおかげでかすり傷で済んだ。
  • 1997年8月、小学校2年生で全日本少年少女将棋大会で優勝。
  • 1998年3月、全日本こども将棋大会で優勝。この頃父親より強くなる。これが原因で父親は猪熊虎滋郎よろしく失踪し、井山は以後祖父の手ほどきを受けて育つ。なお祖父からは、「プロの世界では右投げが多いので、右投げに対抗しやすい左打ちにしておくと将来活躍できる」という理由で左打ちに矯正させられた。
  • 1998年4月、自分がやっていたのが囲碁ではなく将棋であったことに気付く。関係者によると、本人は「うすうす感じてはいたけど・・・知ったときはさすがにショックだった。」と肩を落としていたそうだ。慌てて囲碁に転向する。将棋に負けた父親は今なお失踪中である。
  • 1998年8月、全日本少年少女囲碁大会で優勝。関西棋界の重鎮である石井邦生九段に目を付けられ、内弟子に。
  • 2000年ごろ、家族内であまりにも強すぎたために、家族が不利な展開になったときは囲碁盤を180度回転して続きを打つという家族内ルールが存在したという。それでも家族は勝てなかったというのだから、井山の強さには驚かされる。なお、将棋の天才棋士である羽生善治にも同じ家庭内ルールが存在していたとのこと。
  • 2002年4月、中学1年生でプロ入り。
  • 2003年ごろ、日本棋院の廊下ですれ違った趙治勲九段の体に電流が走り、思わず振り向く。
  • 2004年10月、阿含・桐山杯全日本早碁オープン戦で棋戦最年少優勝し、井山裕太阿含・桐山杯全日本早碁オープン戦選手権者に。中学校のテストでは名前の記入欄からはみ出て困っていたそうだ。
  • 2004年11月、中野杯・アンダー20選手権でも優勝し、井山裕太阿含・桐山杯全日本早碁オープン戦選手権・中野杯・アンダー20選手権者に。読書感想文で字数を稼げることに気付き、本人は喜んでいたそうだ。
  • 2007年4月、史上最年少で三大リーグのひとつである棋聖リーグ入り。
  • 2007年10月、18歳4ヶ月で三大リーグのひとつである名人リーグ入り。
  • 2007年12月、18歳6ヶ月で三大リーグのひとつである本因坊リーグのお弁当係を務める。依田紀基九段は「とても18歳とは思えない」と感心しきりだった。
一晩で突然強くなった井山に何があったのか
  • 2008年7月、史上最年少で名人挑戦決定。試合前の共同記者会見ではチャンピオン張栩との舌戦が展開された。
張栩「10代の名人などありえない!」[1]
井山「ゴチャゴチャ言わんと、誰が一番強いか決めたらええんや!」[2]
  • 2008年7月、同じく張栩と大和証券杯GC決勝で前哨戦。対局日の朝、女流棋士の仲嶋絵美子さんの自宅から出てきた井山氏が目撃されている。
井山「近くに対局場がある。そこで白黒付けようや」 ゾワッ
張栩(ま・・・まるで別人のような・・・!)
  • 2008年9月、控え室で「あなたが好きなの!」と叫ぶ女流棋士の万並奈央さんを退けて、対局場に向かう。「幽玄の間には、日本最強の男張栩が待っているんだ・・・行かなきゃ。」 今、運命のゴングが鳴らされる。

名人位初挑戦[編集 ]

  • 2008年10月、遂に開幕した名人戦は両者一進一退譲らず、3勝3敗のまま最終戦にもつれ込んだ。
  • 2008年11月6日、名人戦最終戦2日目、急遽、張栩側に武井孝志六段が参戦、2対1の変則タッグマッチとなった。人数的に不利な井山、しかしその時!「フハハハハ・・・! 不利だな、井山裕太! 井山側のパートナー、私に任せてもらおうか!」 謎のマスクマン「ミスター・TAKAO」現る!! この闘い、一体どうなってしまうのか!?
  • ミスター・TAKAOの参戦も虚しく、最終戦に敗れてしまった井山。チャンピオン張栩の牙城は固い。雑踏の中、夕暮れにかかる橋の上でたそがれる井山裕太のあしたはどっちだ。

名人位再挑戦[編集 ]

  • 1年後の2009年8月、そこには名人リーグを全勝で勝ち抜いたベッカムヘアーの井山の姿があった。今再び張栩の牙城に挑む!
  • 2009年9月、遂に始まった名人戦。緒戦は大激闘の半目勝負を張栩が制した。
  • 2009年10月、井山は怒涛の3連勝で名人を追い込み、最終局、ついに勝勢に立つ。
 
観客「名人が・・・名人が・・・負ける!」
張栩「・・・今の一手、十七の2、オサエが正解でしたね」
井山(ドクン・・・!)
張栩「震えているね、井山君。それが名人の重みなんだよ・・・」
\__________________________/
しろまる
ο
o
(′ー`)←張栩
 
なんてことにはならずに井山があっさり名人位を奪取した。

大名人・七冠への道[編集 ]

井山の戦いはこれからだ!

脚注[編集 ]

  1. ^ 居合わせた坂田栄男(二十三世本因坊栄寿)は「そうじゃ、そうじゃ」と囃し立てていた。
  2. ^ 翌日のスポーツ新聞の紙面を賑わせた。囲碁ファンの前田日明氏は「よく言ったもんだ」と感心しきりだった。

元ネタ[編集 ]

関連項目[編集 ]

外部リンク[編集 ]


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