シャルル=ジャン・バチスト・サンソン

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ジャン君7歳の姿

シャルル=ジャン・バチスト・サンソン(Charles Jean Baptiste Sanson、1719年 - 1778年)とは史上最年少の7歳のショタ処刑人である。 当時のフランスでは刑罰は一般公開で行われ大衆娯楽であったため。 金髪で美形の7歳の少年による刑罰はフランス全土のショタコンから絶大な人気を集めたという。

特に半ズボン(キュロット)からスラリと伸びる白いタイツに包まれたは生唾物で、 ジャン君の公開処刑があると何が何でも見ようとするショタコンたちによって見晴らしの良い家の窓には金貨50枚もの値段が付いたという。

当時の刑法では少年に悪戯したオッサンはチンコを肉鋏で引っこ抜いて傷口にや溶けたを注ぎ込むという罰が規定されていた。 7歳のショタ処刑人にこのプレイをやってほしい変態が皆して変態事件を起こしたため、この当時は児童性犯罪が激増したと言われている。 また、軽犯罪は鞭打ちの刑が行われていたため、ジャン君に鞭でぶたれたい変態が故意に軽犯罪を犯すようになり治安が悪化したという。

このことが後に問題になり、刑法が改正されて(削除) 変態ショタコンを喜ばせるような (削除ここまで)残酷な刑罰が廃止される原因になったと言われている。

フランス革命後に児童ポルノ根絶軍団がサンキュロット(反半ズボン)と名乗ったのもジャン君に萌えた変態たちを狩ったことに由来している。 そのため、ショタコンのフランス語訳はジャンコンであり、またジャニーズの語源ともなっている。

当時の様子[編集 ]

当時の様子を知るために「Mémoires des Sanson, sept génération d'éxécuteurs」二巻に収録されているジャン・バチストが書いた日記を翻訳抜粋する。

1726年11月5日

ぼく、ジャンはパパが病気で死んじゃって大好きな家族を守るために処刑人になりました。 まだ7歳だけど僕が一家の主だからママやお婆ちゃんのためにがんばります。

パパの部下はパパの代わりにぼくの事を「ムッシュ・ド・パリ」って呼んでくれるけど、 町の人たちは、ぼくのことを「処刑人サンソン」て呼びます。

ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア 専門家気取りたちが「ムッシュ・ド・パリ 」の項目を執筆しています。
訳者注釈
当時のフランス国王ルイ15世(当時16歳)はジャン君をフランス全土の処刑人の頭領であるムッシュ・ド・パリに叙任した時に「運命は余を5歳でフランス国王にした、そして今、運命は7歳の少年を処刑人の王に任命した」と語ったと伝えられている。


1727年2月17日

今日は僕が始めて処刑人のお仕事をする日です。 ママとお婆ちゃんのために頑張ります。

やさしいトロンソンおじさんが、ぼくが一人前の処刑人になれるようにいろいろと教えてくれます。 本当はぼくが悪い人の首に縄をかけて「こうしゅけい」にしないといけないんだけど、 まだ、ぼくには難しいからプリュドムおじさんが代わりにやってくれます。 ぼくは処刑の合図だけすればあとはおじさんたちが全部やってくれます。 町のみんながぼくのことを見てるから、 ちゃんと処刑台の上に立って立派なところを見せないとママが困るから、 ぼく、がんばります。

ぼくが「えい」と合図をするとプリュドムおじさんが縄をひっぱって 悪いおじさんが「こうしゅけい」になりました。 悪いおじさんは怖い顔をしておしっこをももらしながら動かなくなりました。 怖かったけど立派な処刑人になるために我慢しました。 お仕事が終わるとおじさんたちが後片付けをしてくれます。 ぼくはママと一緒に先におうちに帰りました。

ママとお婆ちゃんがとっても褒めてくれました。 ばんごはんのデザートには、ぼくの大好きな大きなアップルパイをたくさん食べさせてもらいました。 これからも、ぼくがんばります。


1727年5月14日

立派な処刑人になるためには 鞭打ち、焼き鏝刑、切断刑、車裂きの刑 とか難しい字を書くことを全部出来ないとダメだっていわれました 本当にやるのはもっと難しくて大変だけど がんばってとママがいったのでぼくがんばります。 今日はトロンソンおじさんが悪い人の肉を引きちぎる 肉鋏の使い方を教えてくれました。 豚肉をペンチでつかんでひきちぎります。 いっぱい、力を入れないとダメなので大変です。


1727年5月21日

今日は悪い人のおちんちんをこらしめるお仕事をします。 トロンソンおじさんが肉鋏の使い方を教えてくれたのは この、わるいおじさんをこらしめるためでした。 チビデブで頭の禿げた悪いおじさんは 可愛い男の子におちんちんでいたずらしちゃったそうです。 ぼくのお仕事はこの悪いおちんちんが二度と悪いことが出来ないように ペンチでひっこぬくことです。

今日のお仕事はとってもむずかしくて、 何日も前からトロンソンおじさんが なんどもやりかたを教えてくれました。 2人のおじさんたちが悪いおちんちんをひっぱりやすいように 動かないようにおさえてくれます。

なんか、悪いおじさんがぼくを見る目が気持ち悪くて嫌です。 ぼくは悪いおちんちんを肉鋏で挟むと 力いっぱいひっぱりました。 いっしょうけんめい、引っ張ったけどなかなかとれません。 プリュドムおじさんが 「ぼっちゃん、ひねるんです、ねじるんです」 とやさしく教えてくれました。 悪いおじさんはおちんちんを引っ張られて痛そうだけど ちょっとだけ嬉しそうにしているような気がしました。 とっても、気持ち悪いです。

ねじってみたけど、じょうずに出来ないで おちんちんが肉鋏から外れてしまいました。 もう一度、やり直しです。 こんどは、ちゃんとおちんちんがちぎれました。 ちぎれたおちんちんから血と混ざって白い液がでていたけど あれはなんだったんだろう?

ちぎったら、次は血が出ているところに溶けた油を流し込みます。 とっても熱いので、火傷をしないようにちゅういします。 ゆっくりと油をたらすと悪いおじさんが気持ち悪い悲鳴をあげて嫌でした。 なんだか喜んでるような気がしたけど ほんとうは嬉しかったのかな? あとでママに聞いてみたら 悪いおじさんが改心して良いおじさんになろうとしてるからだと教えてくれました。 ぼくのやっていることは正義 だから、 これからも、いっしょうけんめい頑張ります。

処刑台の上のプロポーズ[編集 ]

1737年

ジャン君も18歳になり、すっかりイケメンの大人になりました。 トロンソンおじさんの娘のマドレーヌちゃんと結婚するためにジャン君は頑張ったそうです。

1737年8月12日

ぼくは幼馴染のマドレーヌちゃんと結婚させてほしいと、トロンソンおじさんにお願いに行きました。 そうしたらトロンソンおじさんは「一人前の処刑人になれたら娘をやる」と言いました。 次の処刑をぼく1人で立派に出来たら結婚を許してもらえることになりました。

1737年8月19日

今日がぼくの本当の処刑人デビューの日です。 今まではトロンソンおじさんに処刑人の剣を振るってもらっていたけど、 今日はぼくが自分の力で剣を振るって見事に首を刎ねないと一人前と認めてもらえません。 今日、ぼくが首を刎ねるのは反乱罪で斬首刑になるテザー伯爵という人です。 テザー伯爵は強そうなおじさんではなく、ぼくが剣を振るうと聞いて失敗されると嫌だから代わってくれといいました。 でも、マドレーヌちゃんとの結婚がかかっているので代わる事は出来ません。 処刑台の下ではマドレーヌちゃんがぼくのことを見つめているのです。 ぼくはテザー伯爵にいままで18年間、一流の処刑人になるために修行に励んで来たことを、結婚がかかっている事を、話しました。 テザー伯爵は話しを聞くと、自分の死が2人の幸せになるなら喜んで死のうと言ってくれました。 ぼくは皆の期待に応えるために渾身の力で剣を奮いました。 テザー伯爵はぼくのためにじっと動かずに首を差し出してくれています。

ぼくは一撃で首を刎ねることが出来ました。 なんだか感動して涙がでてしまいました。 ぼくはトロンソンおじさんに言われてやっと自分の使命を思い出しました。 テザー伯爵の首を高く掲げて皆に見せなければならないのです。

ぼくを見つめるマドレーヌと目が合うと、 思わず叫んでいました。 「マドレーヌ、ぼくと結婚してくれ」 斬首刑を見に来ていた観衆はとたんに歓喜の声を上げて僕達を祝福してくれました。

後年[編集 ]

時の流れは残酷である。

かわいい美少年だったジャン君も時が流れるにつれ、ただのオッサンになってしまい、人気は急降下した。

そこで、しかたなく15歳の息子であるシャルル=アンリ・サンソンに処刑人の地位を譲ることになった。 しかし、すでに15歳ではショタコンの守備範囲外になってしまっていたので、人気を取り戻すことは出来なかったという。 そこで、シャルル=アンリ・サンソンエクストリーム・ギロチンを考案してこれを法務省に認めさせ、 自らがスタープレイヤーとなることで人気を取り戻したという。

関連項目[編集 ]

出典[編集 ]

  • Mémoires des Sanson: Tome 2(邦題:サンソン回想録2巻) ISBN 0543952711
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