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【内田雅也の追球】戦後80年「島守」の「野球島」

[ 2025年1月12日 08:00 ]

奥武山公園内に建つ島田叡氏顕彰碑(左)と平和祈念公園に建つ「島守の塔」
Photo By スポニチ

80年前のこの日、1945(昭和20)年1月11日の大阪は氷点下の冷える朝だった。大阪府庁裏にあった部長官舎で島田叡(あきら)は妻子3人と朝食を囲んでいた。

突然、電話のベルが鳴った――と田村洋三『沖縄の島守』(中公文庫)にある。島田43歳、大阪府内政部長だった。電話は知事・池田清からで隣の知事官舎に呼ばれた。関係者への取材を基にした描写が続く。

帰ってきた夫に妻は「朝から何か良い話でしたの?」。真顔に戻った島田は答えた。「沖縄県知事の内命やった」

妻は一瞬、全身の血が逆流する思いに駆られ、せき込んで尋ねた。「それで、どうお答えになったのですか?」「もちろん、引き受けて来たわ」

既に沖縄への米軍上陸は必至とみられていた。当時、知事は官選。即断即決の拝命に池田は驚き「相談した上で返事してもいいんだぞ。断ってもいいんだぞ」と言ったとの証言も同書にある。

妻に言った。「おれが断ったらだれかが行かなならん。おれは行くのは嫌やから、だれかに行けとは言えん」

赴任直後、沖縄本島北部や九州への県民疎開を進め、食料不足から危険を顧みず台湾に渡り米を調達した。玉砕が叫ばれるなか「生きろ」と言い続けた。「島守(しまもり)」と慕われた。

当欄で幾度も書いてきたが、島田は野球人だ。署名には「野球」印や名前の音読み(エイ)から「A」の字を添えた。

神戸二中(現兵庫高)―三高―東京帝大で野球部に所属。俊足強肩好打の花形外野手だった。

沖縄セルラースタジアム那覇がある奥武山公園に建つ「島田叡氏顕彰碑」には「野球人の球魂」として「劣勢でもベストを尽くすスポーツ精神」「常に本塁生還をめざした」とある。「生きろ」の原点は野球にあった。

沖縄で毎年8月、高校野球の新人中央大会優勝校に「島田杯」が贈られる。今はエナジックスポーツ高監督の神谷嘉宗からかつて「沖縄の野球人には優勝旗よりも欲しい物」と聞いたのを思い出す。名誉の証なのだ。

南の島・沖縄は今や「野球島」だ。今年もプロ野球12球団のうち9球団がキャンプで訪れる。

沖縄県民で島田叡の名を知らない者はいない。ところが、その沖縄に長く滞在する選手たちはどうだろう。戦後80年の節目。「島守」を知り、野球ができる幸せをかみしめたい。 =敬称略= (編集委員)

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