このサイトではJavaScript機能をONにしてご利用ください。

このページの本文へ移動

昭和100年―百年前の新聞や日記から―その1

元国際交流基金 吾郷 俊樹

1 昭和の始まり
文豪、永井荷風は、死の前日まで38年間の日記「断腸亭日乗」に1926(大正15)年「十二月十四日 …夜銀座に往くに号外売頻りに街上を走るを見る。聖上崩御の時近きを奉ずるものなるべし。頃日の新聞紙朝夕陛下の病況を報道すること精細を極む。…」と記し、同年(昭和元)12月25日には、「昨夜深夜聖上崩御の公報出でて、銀座通の商舗今朝より休業。…余昨夜より家を出でず、又新聞を観ざるを以て、ここに初めて諒闇の事を知る。…此日改元。」 と記す。
昭和百年ともいわれる今年。昭和がどのように始まったのかを覚えている人はきっと少ない。読売、毎日、朝日出身の編纂委員による「昭和の五十余年間の日々の動きを全国三百余りの新聞から抜粋し、編年形式に編纂」した「新聞集成昭和史の証言」は、「“新聞は歴史の生きた証人”と称され、また、“社会を映す鏡”とも例えられている」という。今回は当時の新聞や荷風の日記などを手がかりに、昭和元年、二年の様子を紐解く。当時の新聞の一つを見てみると、テレビ欄がなく、政治、経済、芸能などが混然としていて、古い言葉が飛び交い、時代の雰囲気、人々の生活感が伝わる。
当時の各紙の報道を見ると、「天皇崩御」「〔12.25 東朝〕「天皇陛下には今二十五日午前一時二十五分葉山御用邸において崩御あらせらる。大正十五年十二月廿五日 宮内大臣一木喜徳郎、内閣総理大臣 若槻禮次郎」の記事。「新帝陛下践祚 人皇第百二十四代」〔12.25時事〕「天皇陛下崩御あらせられたるを以て、皇室典範の御規定に依り、摂政の任に在らせ給ひし皇太子殿下には、直ちに践祚、祖先の神器を承け給へり。」とあり、以下、「宮中賢所後御儀」「剣璽渡御の御儀」「皇后柵立 皇太子殿下皇位 御継承の結果」と続く。更に、「元号を昭和と改めらる」〔12.25時事〕「新天皇陛下には大統を承け万機の政を行わせらるるに望み、先帝の定制に遵い、枢密院の議に附し、愈々『昭和」と改元せられることに御決定相成り詔書を以て公布することとなった」。この日の新聞広告〔東朝〕を見ると、三越呉服店は「御大葬につき今二十五日謹んで休業仕候」、高島屋呉服店、松屋呉服店、松坂屋、白木屋呉服店も休業の広告。
俳優として初めて国民栄誉賞を受賞した長谷川一夫は、当時、石巻で女形として興行中で、映画入りの話が決まり、電報で大阪によび戻され「…当時、仙台から大阪にはまるまる一昼夜かかりましたが、私の頭の中は不安と期待とでその夜行列車の長い時間もわからないほどでした。あくる晩になってようやく大阪に着きますと、…そのまま玉屋町の大師匠の家へ着きますと、師匠の鴈治郎を中に、白井松竹社長…が待っておられました。…映画界入りの話はここではっきりしたわけです。大正十五年十二月二十五日、この日の未明大正天皇崩御の発表がありました。御諒闇で歌舞音曲、舞台は中止され、全国の人々が喪に服したので町中が静かだったわけです。続いて皇太子(現天皇)が践祚の式を挙げられました。私が夜行列車で大阪を目指して走る車中の眠りの中で昭和の幕が開いていたのでした。」と日本経済新聞の「私の履歴書」で語る。
「懿親、元勲・首相に特に優詔を賜る」〔出展不明)は「天皇陛下には二十八日午前十一時戴仁親王殿下次で西園寺公(代理徳川侍従長)次いで若槻首相を御前に召され左記優渥なる勅語を賜つた…閑院宮に賜つた勅語…西園寺公に賜つた勅語…若槻首相に賜つた勅語」の記事。勅語の順番が元老の地位を象徴。
海外の反応。「海外挙って新帝を称賛」「皇帝に対する尊敬は神に対する以上 物資に動かされぬ日本魂と 米紙我国民性を論評」〔12.28 東朝〕は、「ワールド紙は、その論説で次の如く述べている。我々から物質的幸福の進歩という観念を採用したと新しい日本が我々にお世辞を使っておだてて居るのをよく耳にするが今度皇帝陛下の崩御によって真の日本が生きている事を知る、変化は表面上のみに止まるのである東京市中は先帝の喪に服して静かなひつそりした街となりそこには古へよりの宗教伝統が人々の情緒的生活を支配している、我々西洋人の習慣を取り入れても更に変わらない昔ながらの風習が彼等日本人の間に残っている、…皇帝陛下に対する尊敬は神様に対する以上であるそして日本の伝統の強さは官憲が腹切りを禁止したことによっても分る…」、また、「政治の近代化も 国民の忠節を傷つけぬ ロンドン・タイムス紙の社説」〔12.28 東朝〕「タイムス紙は社説において、……様々な思想が日本に輸入され物事が変遷するであらうが吾人は新帝陛下の御治世に日本国民は国際間におけるその誇るべき位置を維持すべく決心しその崇高なる使命を引き続き完了すべく努力しつつ、先帝陛下の御時代におけると同様に国際的平和の維持に努力すべきを疑わない」と報道。
「廃止に決定した宮中大奥のお局制度 生活簡易化の範を垂れ給ふ 新帝の畏い思し召し」〔12.31東朝〕では「新帝陛下には御践祚と共に従来東宮仮御所と呼ばれていた赤坂離宮を御在所と定められ当分の間ここに御住居遊ばされる事となったが、その御生活ぶりは東宮御時代のそれと御同様極めて御簡素なものである、新帝の御代と共に宮中の御手ぶりの上にも種々御改革の事あるやに承るが、その筆頭の表れとして従来大奥に奉仕している、いわゆるお局の女官の制度は廃められ、尚侍、命婦…等を置かれぬこととなった、…」の記事。
年が明けると、「世はしめやかに諒闇の春明く 宮中の御憂ひも深く 仰ぐも畏し両陛下の御慎み」〔1.1 東京〕は「昭かに和やかなる大御代は早くも第二年の元朝を迎へた、七千万の国民は天地諒闇の悲痛の中より輝く昭和の大御代を仰ぐも感慨無量である」と元旦の模様を報じ、「歌御會は お取止 詠進歌のみ 追って奏上」〔1.1 朝日〕は「昨秋発表された新年御題『海上風静』の詠進歌はすでに十二月十五日の締切日までに御歌所に到着せるもの実に三万余首に上つて居るが右は諒闇につき宮中歌御会のお取りやめあらせられ…」の記事。
「問題の舞踏會から 德川義親候隠居 華族辞退の届提出と同時に聲明書を発表して」〔1.30 東朝〕は「昨年十二月十二日夜徳川義親侯は麻生富士見町の邸内において内外人多数男女の舞踏会を催しその写真が某紙に発表されるや折柄先帝御不例の最中とて問題となり某々国粋団あるひは右傾団は盛んに同侯の許に詰め掛けてその不謹慎を難問し、中には脅迫の居に出たものであると伝えられ、…二十八日付をもつて義親候は…左の声明書を発表し、…華族辞退の隠居届を…提出した。」との記事。幕末の越前藩主松平春嶽の五男で尾張徳川家に養子入りした徳川義親氏は後に日本経済新聞の「私の履歴書」で「戦争前、公侯爵は満二十五歳になると、貴族院議員に列せられた。」、「右翼団体…が金をゆするために、主催者を私であると難癖をつけてきた…いろいろな人間が私の責任をうんぬんしてきた。あげくには『議員を辞職しろ』とまで言われるありさまである。私はなりたくてなった議員でないから、さっさと辞表を書き送った。…だが、五年ほどたって、また議員に戻った…」と回顧。
2月、「大正天皇大喪儀終る』〔2.8 讀売〕「嗚呼昭和二年二月七日此の日こそ先帝永久に帰へらぬ御族に出させ給ふとは予てより定めさせ給ひし御事にはあれどいざその日となりてみれば新たに万民の悲痛慟哭極はりなく大奥に手も如何ばかりか御名残を惜しませ給ひし御事にやとと拝察したてまつりて今はただ涙零るるのみ、…国民が深く銘記し奉るべき先帝御大葬儀の御儀は暮靄深く垂れ籠めて、御堂筋一帯の闇路を照らす篝火あかあかと点りし頃に始まり…是より先き葬場殿の御儀は午後十一時参列諸員拝礼の時を以て無事御終了…」。街の様子につき「大喪拝観者殺到して 死者二重軽症三百余」〔2.8 時事〕「御大葬議当日の混雑を慮り警視庁ではあらかじめ…沿道の警戒を厳重にし、万全を期したにも関わらず、当日は寒明けの好日和に一般参観者殺到期せずして馬場先門外、虎の門、溜池、赤坂見附、青山一丁目交差点、慶応病院前の六ケ所に押寄せたので至る処、未曽有の大混雑を来し、熱誠の余り死者二重軽傷者三百数十名を出だすの不祥事を現出した」。
式に参列した日本文化にも造詣の深い詩人、ポール・クローデル・仏大使の「世界にたぐひなき大喪の御儀に列して クローデル大使の印象記」〔2.9 東朝〕は、「白木造のいくつかの鳥居が高く暗につき立っている、その一番奥の鳥居は折しも上る月影が縁取って神々しい、かへりまさぬ帝を送りたてまつる諸々の使が後から後から長い行列を作って鳥居をさして進んでくる、牛四頭に退かれる壮大な霊轜の軋る悲しい響きには笛の哀音が相伴ひ、相次いで、時にとどろく大桐の鼓の力強い音までもいやがうえにさびしさを増すばかり後には笏を手にした三人の祭官に続く大きな松明の明るさ雪をたけるかと思ふばかり。…総てが神々しきまでに整然と行はれる、世界のいづれの国でも百万の人を抱擁する宗教的又は愛国的儀式に当たって、各々がかくばかり完全に自分の役目を成し遂げることはないと私は信ずる、…これにもまして美しく崇高な印象とてはないであらう…」と評す。
写真 (「東京公会堂楼上からみた日比谷界隈。左が日比谷公園運動場…樹林を越してその向こうには帝国劇場、東京会館等の諸建物がある。中央の大建築が帝国ホテル、その右は華族会館、往時の鹿鳴館…」出典:『大東京寫眞帖』,[出版者不明],[1930]. 国立国会図書館デジタルコレクション 大東京寫眞帖 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
写真 (大正3年9月竣工の三越呉服店 出典:建築学会 編『明治大正建築写真聚覧』,建築学会,昭11. 国立国会図書館デジタルコレクション 明治大正建築写真聚覧 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
写真 (「『春夏秋冬』、中村勘三郎、中村扇雀、長谷川一夫、中村歌右衛門」、「東宝歌舞伎が、松竹に対抗し…當代の人氣役者を集めて踊らせたもの」 出典:渥美清太郎 著『歌舞伎舞踊』,東京創元社,1956. 国立国会図書館デジタルコレクション 歌舞伎舞踊 (創元選書) - 国立国会図書館デジタルコレクション)
写真 (大正天皇御大葬の際の「赤坂見附附近ノ奉送者」 出典:警視庁総監官房文書課記録係 編『大正天皇御大喪儀記録』,警視庁,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション 大正天皇御大喪儀記録 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
2 政治
昭和が始まる直前、「大正16年度豫算綱要」〔12・23 時事夕刊〕は「二十一日の予算内示会において貴衆両院の各派代表に対し内示すべき筈であった大正十六年度予算綱要は若槻首相以下閣僚全部葉山滞留の為内示会を開くに至らず速やかに予定を変更して同日午前各派代表に対し大蔵省から綱要を送付するとなったが、政府公表によれば其内容左の如くである。…
歳入出予算総額
歳入 経常部一、四五八、一一八、五五七 臨時部二七一、九四〇、二一一、…前年度剰除金繰入一六六、三三〇、〇八一 計一、七三〇、〇五八、七六八
歳出 経常部一、一七四、九四〇、三〇七 臨時部五五五、一一八、四六一 計一、七三〇、〇五八、七六八」と報道。当時の財政状況について、「大正年間における財政推移の概況」〔12.26中外商業〕は「明治の末年及び大正の初年におけるわが財政は政局の不安定と共に不安の域を脱しなかったのである、…さればこの間予算はしばしば不成立に終り、財政の運用円滑を書くもの多かった、然るに大隈内閣成立後久しからずして欧州の大戦勃発し、此処に財政上重大な影響を受けたのみならず、経済産業その他社会上にほとんど画時代的の変化を与へたのである。左に元年以来三年度までの歳計表を示す(単位千円)
大正元年度 予算五八十二、〇四〇、五八二、〇四〇…同二年度 予算 五九四、四一六、五九四、四一六… 同三年度 予算六七三、一 五、六六八、二三五 …大正三年(一九一四年)に突発した世界戦争は津日に我が国を駆って交戦国に参加せしめ…この大戦は更に軍備拡張熱を煽り、…これが為数次の増税を以てしたるも、なお収支の均衡を保つ能はず公債は比年累増してわが財政は一大危機に瀕したのである。…」と報じる。
「廃朝中の開院式」〔12.27国民〕は「『昭和』政治史の第一頁を彩るべき第五十二回帝国議会は、昭和元年十二月二十六日午前十一時、貴族院本議場において開院式を挙行された。この日天空一碧、微風鳴く雲陰なし、議員門前に垂れたる先帝奉悼の弔旗は悲くとも、新帝の御威徳院の内外にあまねく、さんとして輝く陽光の下、『昭和』新政の第一頁は、左の順序を以て、色濃く而して力強く、染出されたのである、かくて午後十一時降鈴を合図に徳川、粕谷亮議員議長、蜂須賀、小泉両院副議長以下両院議員は貴族院に参集し、若槻首相以下国務大臣又た参列、若槻首相は書記官の棒持する勅語を受取り玉座に向かって最敬礼の後勅命を奉じ第五十二回帝国議会開院式の勅語を棒読した。」と報じる。ちなみに昭和元年12月26日は日曜日。
年は明けて「危機を過分にはらめる 第五十二帝国議会再會 けふ長き休會明けて 政戦の幕いよいよ切らる」〔1.19 時事通〕は「第五十二回帝国議会が再開。雨か雪か、薄靄は低く日比谷一面を包んで寒気と殺気とは交々身に沁むる情景である。恰も、今開かれんとする政戦の実相を反映する如くである。」、「首相の施政方針演説」〔1.19 大朝夕刊〕は「第五十二回帝国議会において若槻総理大臣は左の如き施政方針の演説をなした。
諸君ここに新たなる御代の始めをもつて第五十二回帝国議会の開かれたるに方り諸君と相見えて政府の所見を述ぶることを得るは余のもつとも光栄とする所なり 支那内政には絶対不干渉…素より支那の内政に対しては絶対に不干渉の態度を維持する…老朽補助艦艇代艦の建造…政府は乃ち老朽補助艦艇の代艦を建造し由をもつて現在勢力の失墜を防ぎ国防上遺憾なからしめんとするの計画を立てたり 兵役年限短縮を断行…政府は軍隊内部の施設に改正を加へ両々相待って歩兵科の在管年限短縮を断行する事としもつて多年の懸念を解決せんとす…宗教法制定教界に新生面 …政府はかねて朝野の識者に謀り幸いに宗教法の成案を得たるに付きこれを本議会に提出して協賛を請はんとす…」とそこには関東大震災〔1923年〕の際の震災手形の件は触れられていない。
後に藍沢彌八東証理事長は日本経済新聞の「私の履歴書」で、震災手形について「…震災によって決済ができなくなった手形…を救済するために日銀が特別のスタンプを押したものである。これらの手形に対して日銀が割引を行い、それによって日銀が損失を受けた場合は、政府が一億円を限り補償するということであった。この震災手形がいわば当時の経済のガンであった」と語る。「昭和財政史」によると「金融恐慌は震災手形法案の上程から昭和二年三月渡辺銀行の休業をもってその原因とされている」といい、1月、2月には銀行の休業が起こっており、「3月中旬頃から震災手形所持銀行に対する取り付けがぼつぼつ行われるようになった」という。「昨夜省議で決定した震災手形整理法案 貸付条件 貸付期限十年以内 利率五分以上」〔1・12 東朝〕は「震災手形整理に関する最後の確定案を得るため大蔵省では十一日午後一時半より蔵相官邸に省議を開催し片岡蔵相田次官以下各関係官出席した外日本銀行より市来総裁参加の上種々震災手形整理に関する。一、震災手形損失補償公債法案、II 震災手形整理に関する法律案の二案に関し種々審議の上詳細なる点を決定し同四時半散会した。右散会後片岡蔵相は左の如く発表した。一、震災手形に関する勅令及び法律に基づき政府が日本銀行に対して損失を補償するため一億円の公債を発行する案を決定した…」と報ずる。
ところが、「突如波瀾を巻起した蔵相不用意の一言 問われもせぬ一銀行の業態暴露 震手案審議の余震」〔3.15 時事〕は「十四日午後四時衆議院予算委員会に於て片岡蔵相の為せる答弁より東京渡邊銀行破綻の実情端なくも暴露し而も後刻判明せる所に依れば銀行当事者と大蔵当局間の連絡に齟齬するところあり、片岡蔵相の言明が禍因となつて却って同銀行の破綻を早からしめたかの観あるに至った。」、この言明について「吾輩に責任はない 公式の報告に接して事実を述べたまで 片岡蔵相談」〔3.15 時事〕は「…二時頃大臣室で田次官に会い事情を聞いてみると午後一時二十分頃渡邊銀行の専務…常務…の両名が大蔵省に田次官を訪問したので…面会してみると『いろいろご心配をかけたがもう駄目だから投げ出す』と云ふ挨拶であつたとのことであるその内予算委員会の方から出席を促してきたから直ぐ其の方へ出かけた、すると…銀行救済の方針について質問があつたので其の答弁に関連し既に世間に知れ渡つた事実であらうと思って渡邊銀行破綻云々の話をしたのである。…然るに其後事情を聞いてみると横浜の渡邊系統から融通がついてやつと三時に決済が出来たといふ話それならば何故早く其の旨を吾輩の方へ報告してなかつたのかと思つたが後の祭りである、右様の次第で全く責は銀行側にある我輩としては公式の報告に接し其の事実を述べた迄で何等の責任もない…」との記事。その後の相次ぐ銀行休業の報道については後述のとおり。そんな中、若槻首相は自らの抱懐を出版、新聞広告〔東朝4.3〕によると「若槻礼次郎 國民に訴ふ 四六判一〇〇頁 価十銭 我が国歴代首相で自己の抱懐を直截に國民に問ふたものは若槻君が始めてだ。…」。
「台湾銀行救済のため緊急勅令を発布する 一億円を限度として日銀融資と損失補償」〔4.14 時事〕は、「内外金融市場における各銀行の資金回収が禍因となつて台湾銀行窮境に陥るや政府は予ての声明に基づき同行の安全保障のために考慮を重ね結局日本銀行をして更に台銀に対し新規の融資を為さしむるの外なしとの結論に達し十二日来政府当局と日本銀行理事者との間に数次重要な会議が行はれたが日銀側は既に台銀に対し出来る限りの援助を尽した今日これ以上の融資に付いては万一損失を来した場合国家に於てこれを補償するが途が開かれなければいかに政府の要請と雖もこれに承服することはできないとかなり強硬な態度に出たので…片岡蔵相も終に意を決して日銀側の意向を容れ損失補償の具体案を決し…政府はこの具体案を以て財界の安定を期することを決した次第である。」との報道。
これで事態は収拾するかと思いきや、大日本帝国憲法第56条は「枢密顧問ハ枢密院官制ノ定ムル所ニ依リ天皇ノ諮詢ニ応ヘ重要ノ国務ヲ審議ス」と定めるその枢密院の審議が鬼門。「台銀救済の勅令発布に果然痛烈な質問起る 五時間を費やした枢府委員会 遂に非立憲呼はり 政府当局陳弁大いに力む」〔4.15 読売〕は「台湾銀行救済緊急勅令発布に関する枢密院の第一回精査委員会は十四日午後三時同院事務所に開会。…各委員より痛烈な質問を放つたが其の要点は 一 政府が二億の巨額に達する損失補償の責に任ずる重大なる案を議会の協賛を経ずに勅令案として実施するのは不当ではないか…中には之を公表すれば財界に大動揺を来すが如き突っ込んだ質問もあつた右に対して片岡蔵相始め政府側出席者は極力陳弁に努むる所あり質疑応苦実に五時間にして一先づ質問を終了して同八時十分散会した。」
そして翌日、「政府に撤回を求めて勅令案を否決し去る 枢府委員会頗る強硬 政府代案の提出を肯かず」〔4.16 時事〕は「倉富枢府議長は…閣議中の若槻首相をその宮廷に訪問し委員会の険悪なる情勢を伝へ『他に適当なる案を講究されては何うか』と婉曲に撤回を要求する所であった。若槻首相は…他に代案は絶対に無い故に撤回することはできないというふうに決定した、…是に於て委員会は…政府が撤回せずんば已むを得ずとなし緊急勅令は憲法の正当なる運用に反するという理由を以つて別段内容に立ち入つて審議せず又賛否を票数に問ふ所なく全員一致の形で否決し同五時半散会した」。
この結果、「若槻内閣総辞職 昨夕闕下に辞表捧呈 特に南支方面の実情を奏上 優渥なる御沙汰を賜はる」〔4.18時事〕と「枢密院本会議に於て脆も敗れたる若槻首相以下各国務大臣は十七日午後四時十分永田町首相官邸に引揚げて直ちに緊急臨時閣議を開催し…南京漢口事件の真相及び政府の取り足る臨機の処置及び方針につき委曲上奏することに決定、更に若槻首相及び各国務大臣の辞任理由を協議作成したる上…赤坂離宮に参内、天皇陛下に拝謁仰せつけされ総理大臣以下各代臣の辞表を…棒呈し更に辞職理由をも御説明申し上げたる後南支在留邦人の救済措置について委曲上奏…」との報道。
内閣総辞職を受けて、「新内閣組織の大命 田中義一男に下る 直ちに拝受して御前を退下」〔4.20 東朝〕によると、「後継内閣首班に関する西園寺公の奉答の次第をもたらした河合侍従次長は十九日午前九時十分東京駅着帰京直ちに宮内省差し回しの自動車で同二十五分赤坂離宮東門より参内、これよりさき九時十五分頃相前後して参内した牧野内府一木宮相に簡単なるあいさつをなし御召に応じてあわただしく表御座所に入り聖上陛下御一人の前で拝謁仰せつけられ西園寺公からの奉答の次第を委曲復奏して御前を退下した、続いて牧野内府又はお召しにより同じく表御座所に伺候し西園寺公より奉答の次第につき更に御下問ありこれに奉答し一旦御前を退き一木宮相と協議の上更に相携えて御前に伺候し後継内閣首班につき最後の奉答を申し上げた、これにより宮内省からは直ちに政友会総裁田中義一男の邸にお召しの旨を電話をもって告げられたので田中総裁は同十時五十分服装を改め急ぎ午前十一時二十五分赤坂離宮において陛下に拝謁仰せつけられ大命を拝明して同三七分離宮を退出し赤坂表町なる高橋前総裁邸に立寄り青山の自邸に帰りいよいよ政友内閣組閣に着手した。」という。
当時の政党政治について。内務官僚だった安井誠一郎東京都知事は日本経済新聞の「私の履歴書」で「大正十五年に富山県の警察部長に出た。その時代は、ようやく政党政治がはなやかになりはじめたころで、わたしが赴任するときは憲政会内閣であったが、翌年、政友会内閣に代わった。この時私は飛躍的な抜擢を受けて驚いた。というのは三等県の富山県から一等県の兵庫県の警察部長になったのである。…当時は党人意識の強い時代で、内閣が代わるごとに、知事の半分、警察部長の半分くらいは代わってしまうというころで、実際、富山県も知事は左遷をけって辞表を出すし、内務部長も辞めさせられたのだった。」と語る。
「財界応急策として三週間 支払猶予勅令発布 臨時帝国議会招集に決し 本日緊急枢密院会議開かる」〔4.22 東朝〕は、「政府は財界、金融界安定に関する具体的方策を樹立するに至るまで銀行取付より生ずる経済上の不安を防止するため憲法第八条第一項により…緊急勅令即ち支払猶予令を公布する事に決し枢密院に諮詢の手続をとつたその期間は二十一日間と決定した…」。次いで、「臨時議会に提出すべき日銀補償法原案成る 補償限度は五億円」〔4.26 東朝〕は「政府は財界安定のため臨時議会に日本銀行の非常貸出に伴ふ損失補償法案を提出することに決定した…」。更に、「台湾銀行整理に対する根本方針いよいよ成る 兌換発行権及び海外為替業務を廃止し 国庫が損失負担の場合は再び臨時議会招集」〔4.29 読売〕は「台湾銀行の整理問題に関し既報の通り大蔵省において臨時開会の召集されざる前に政府としての根本方針を決定する必要あり…大体、方針の骨組みの決定を見たので、更に詳細に研究の結果臨時議会後において具体的の方針を決定し国庫損失等の法律事項の発生する場合には第一回の臨時議会を招集し立憲的に処することに決定を見た。」との記事。
結果、「財界安定の二法案 貴衆両院を通過す 休銀救済の修正可決 臨時議會終る」〔5.9 時事〕は「政府が臨時議会に提案した財界安定案〔日銀特別融通法、台湾金融機関の融資法)及び緊急勅令支払延期令承認案は、臨時議会の審議予期の如く進まず、会期延長の外なき形勢なりしも、最終日の八日に至り、政府は修正に同意して衆議院を通過し、案の送付を受けた貴族院は委員会を開くこと一時間、本会議は僅かに二十数分にて、…可決し、…安定策は…日ならず実施を見るに至つた。」。
金融恐慌が落ち着きを見せると、「高橋蔵相突如引退して田中内閣改造行はる 蔵相の後任は三土文相 水野氏文相として入閣」〔6.3 東朝〕は「高橋蔵相は財界安定の根幹も立ったので突如辞表を提出したので田中首相は直ちに後任選考に入り二日午前七時水野錬太郎氏を又同八時三土文相をいづれも首相官邸に招致して、高橋蔵相の辞職に伴ひ、その後任として三土氏を蔵相に、文相には水野氏を挙げたき旨を述べて両氏の内諾を得た、よつて田中首相は同九時半赤坂離宮に参内し聖上陛下に拝謁仰せつけられ右両大臣の内奏をなし御裁可を得併せて北支出兵に関し、その後の支那戦局の模様を伏奏して同十時退下した、…」、「いい潮時と見て……引き上げる達翁 未練気もない禅師の一言」〔6.3 東朝〕は、「大臣のイスを食堂のイスぐらいにしか考えていないらしい蔵相高橋是清翁は二日午前八時四十五分、おそらくは大臣としてはこれが最後であらうところの官邸入りをした。…古いボルドー酒を数杯傾けた後、微くんを帯びた親しみ深いあの童顔を、応接室へあらわした。けふは寛いだ和服である、『突然でまったく驚きました』とたれやらがいふと『はははは』と軽く笑つたが、やがて厳粛な態度で『これが当たり前だ』…」とのこと。「『桐花大授章を授けよ』と聖上御躬ら畏き御沙汰 けさ御所に召されて 御手づから翁の胸に 高橋翁空前の光栄」〔6.2 報知〕は「天皇陛下には畏くも 高橋是清翁が田中内閣の大蔵大臣として混乱せる財界を安定に導いた功労を思召され、二日辞職後珍田侍従長を召され『高橋には桐花大綬章を授けよ』とのあり難き、御諚を賜った…」との記事。
かつて、ミッテランフランス大統領の隠し子が「エリゼ宮記者会見で問題にされ、大統領の答え「Et alors? (それが何か?)でピリオドが打たれた」というが、「内證内證で生まれた 義一首相の御曹子 六十四歳といふにこの元気! 縁起を喜ぶ与党連」〔8.3 東朝〕は、「時は我党天下、総理大臣の栄冠に時めく田中義一大将に又お目出度があったーといふのはモウ六十四歳の義一首相にツイ二三日まえまるまると太った赤ちやんが生まれた、…この坊ちやんのお母さんは義一首相の影の人として田中さんの家庭を知るほどの人なれば、たれでも知つているアノ出口ふみ子さんである、何でも今度が五人目といふから田中さんの元気思ふべしである。…『…我が党の将来も幸先よしだ』とツイ鼻先に近づいた全国府県議員選挙の皮算用に縁起を担いでいる連中もある、…」との報道とは、おおらかな時代。
明治時代に三度首相を務めた桂太郎の愛妾が出版した本につき、「明治側面観としての『お鯉物語』読書出版号」〔8.26 讀賣〕も「…日清、日露の二大戦役の宰相と美人との物語は永く永く後世への語り草となった。…講和条約の不満から国民公憤の余り満都の焼打事件となり、坊主が憎けりゃ袈裟までとでもいふべきか、桂の妾のお鯉を殺せと群集が殺到した大騒ぎ迄しでかした…爾来春雨廿年、当のお鯉事安藤照子が自ら筆を執って其波乱多き半生の経歴をものした『お鯉物語』が出版せられたのであるから単なる物数寄連のみならず当年の血なまぐさき騒擾事件を記憶する誰彼も此書を手にして生きたる絵巻物を繰り広げるの感懐は沸くのである…」と伝える。
1925年に普通選挙制度が導入。第一回の普通選挙を控えて、「普選もまた遂に 無産党の味方ならず 1千萬の新有権者に反かれ 新興勢力の期待も仇に敗報つぐ」〔9.24 讀賣〕は「本年五月施行の最初の普選の前哨戦として最も意義深き今回の各府県会議員選挙選に際し、既成政党は勿論、全国民注視の的となつているのは普選によつて初めて選挙権を獲得した一千万人に余る新有権者の投票の帰趨如何といふ事である。先づ地方政権を吾等無産階級の手に収めんと、大いなる意気込みで各々秘策を巡らし、死力を尽くして…乗り出したものであるが、…投票の結果は各無産党の初めの予想を裏切って或い極て少数の当選者に留まるのではないかと初登場の無産党に取つて今から悲観説が行われて居る…」の記事。
「明年度豫算総額は十七億六千万圓 復活要求承認 二千九百万圓 大蔵省集計結果」〔11.12 中外商業〕は「明年度の予算総額は十七億六千二百万円に上り、本年度予算よりも約四百万圓の増額を示している、然し右の中には御大礼費予算が含まれて居らないから、これを加算すれば十七億七千万円を突破することとなる…」と報じる。
ところで、大日本帝国憲法第33条は「帝国議会ハ貴族院衆議院ノ両院ヲ以テ成立ス、第34条貴族院ハ貴族院令ノ定ムル所ニ依リ皇族華族及勅任セラレタル議員ヲ以テ組織ス」と規定。「新聞集成昭和史の証言」によると、「第二次護憲運動は、普選実現のほかに政党内閣制の樹立が叫ばれ、貴族院改革を全面的に政治要求の中に入れた」というが、「貴族院改革はかうして 先づ自らの権限を縮小せよ 時の政府支援は当然の事 近衛文麿公談」〔11.17 東朝〕と後の首相近衛文麿の談として「自分が貴族院に入ってから十年ばかりになる、その最初から既に私は貴族院の制度をどうするかといふことは始終念頭にあった、…法に触れずに運用の上に事実上の権限縮小をするといふ立場に私は立つて居る。…さうすると結論として貴族院は現在の組織制度の下においては大体その時の政府を支持してゆく、…といふ事になる、大体さういふ心がけで貴族院議員自身が自制してゆけばよろしい…」と報じる。
徳川義親氏も日本経済新聞の「私の履歴書」で「私は自分が貴族院議員でありながらも、なぜ華族が議員になるのか疑問だった。…その当時、私の頭の中にあったものは、貴族院の使命は、衆議院の行き過ぎを是正すべきところにあるということだった。…」と回顧。
写真 (当時の若槻内閣総理大臣と濱口内務大臣 出典:警視庁総監官房文書課記録係 編『大正天皇御大喪儀記録』,警視庁,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション 大正天皇御大喪儀記録 - 国立国会図書館デジタルコレクション なお若槻首相の演説はここから演説:総選挙に臨み国民に愬う(一) - 国立国会図書館デジタルコレクション)
写真 (日本銀行本店 出典:『東京風景』,小川一真出版部,明44.4. 国立国会図書館デジタルコレクション 東京風景 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
写真 (台湾銀行東京支店 出典:台湾銀行 編『台湾銀行二十年誌』,川北幸寿,大正8. 国立国会図書館デジタルコレクション 台湾銀行二十年誌 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
写真 (最後の元老、西園寺公望、左は維新前「推定十七八歳」の姿 出典:安藤徳器 著『西園寺公と湖南先生』,言海書房,1936. 国立国会図書館デジタルコレクション 西園寺公と湖南先生 - 国立国会図書館デジタルコレクション 右は明治39年「第一次西園寺内閣」成立時の姿 出典:安藤徳器 編『陶庵公影譜』,審美書院,昭12. 国立国会図書館デジタルコレクション 陶庵公影譜 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
写真 (高橋是清大蔵大臣 左は「十四歳当時の面影」 出典:『高橋是清自伝』,千倉書房,昭11. 国立国会図書館デジタルコレクション 高橋是清自伝 - 国立国会図書館デジタルコレクション 右は「旭日桐花大綬章を佩ひて」出典:高橋是清 口述『是清翁一代記』下巻,朝日新聞社,昭和5. 国立国会図書館デジタルコレクション 是清翁一代記 下巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
写真 (桂太郎首相の愛妾「安藤照子近影」出典:安藤照 著『お鯉物語』,福永書店,昭和2. 国立国会図書館デジタルコレクション お鯉物語 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
写真 (近衛文麿公、左は昭和3年御大典奉祝の際の「長官近衛文麿公」 出典:共道社 [編]『写真交名大鑑:御大典奉祝記念』,共進社出版部,[昭和4]. 国立国会図書館デジタルコレクション 写真交名大鑑:御大典奉祝記念 - 国立国会図書館デジタルコレクション 右は「日本放送協會総裁近衛文麿公」出典:安藤徳器 編『陶庵公影譜』,審美書院,昭12. 国立国会図書館デジタルコレクション 陶庵公影譜 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
3 軍事・外交等
海軍軍縮交渉の時代であり、海軍軍縮交渉関連や対支外交関連の記事が多く、蒋介石の来日を報ずる記事も目立つ。
(1)海軍軍縮交渉
「會議の成否を決する 佛伊両國の態度 日英米三國のみの協定には日本は絶対に反対」〔2.12 東朝〕は「米国大統領の補助艦潜水艦の建造を制限せんとするの提義は列強それぞれの立場と主張があつて新協定の成立までには尚数多の曲折があるものと見られるが、日、英、仏、伊五カ国の立場は大体左の通りである。日本 現在の状態においてもつともよく平和が維持されているのでこの上進んで軍備制限条約を締結する必要に迫られていないが、補助艦制限の提議が純正なる動機と公正なる比率で行われるならばいつでも喜んで参加する、…若し仏伊を除外して日、英、米三国だけで補助艦制限の協定を行ふといふならば全然反対である。…」の記事。
「壽府軍縮會議の幕 いよいよ切って落さる 先づ米大統領へ感謝の電報」〔6.21 東日〕は「日英米三国軍縮会議は廿日午後三時十分予定の通りジュネーヴ国際聯盟本部サル・ヴイトル(硝子の間)に開かれた、…斎藤全權は三国軍縮会議の名を以つて米国大統領カルヴイン・クーリッヂ氏に対し感謝の電報を送るべきことを提議するや、…右電防は即時クーリッヂ氏に発信された。」「全部の補助艦艇に 五・五・三の比率を適用 米國全權から提案」は「米国首席代表ギブソン氏は今回の補助艦艇制限に対する米国の提案を提出した、其の内容は左の如く英、米、日三国に対し全部の補助艦艇制限に五・五・三の比率を適用せんとするものである。」
「米國の高飛車的提案は我が全權に甚大な衝動 會議散會後直ちに引き返して 英米案の比較研究に着手す」〔6.22 東朝〕は「…イギリス、アメリカ側の主張に対する日本の態度及び意向を総合するに大体予想したところとはいへ、相当大きなショックを与へられ会議散会後我が全権以下各随員は直に事務所に引返して英米案の内容を比較研究すると共に、これが対策を協議して居る、…日本側では英米の主張と日本のそれとの間には、相当な距離があり、これが一一致点を見出すまでは、尚幾多の困難があるものと見て居る、…」。
「水上補助艦八十萬トン 軍縮を裏切る英國の要求 英米同比率を新たに提案す 日米両国は猛烈に反対せん」〔7.2 東朝〕は「英国首席全権ブリツヂマン氏は、二十九日夜…英国は米国に対し優越なる海軍勢力を保有せんとする意志はない各艦種につき英米同等の五対五でゆく意向であるとの意味を示した。…それは軍備縮少の提唱者たる米国は容易に聞きいれそうにない。また日本の立場から見てももし英国が米国と共に八十万トン以上の補助艦を欲することとなれば、日本も当然これに準じて海軍力を増加せねばならぬ、…日本は到底賛成しえないところだから米国の主張を支持…もし英国案が通過すればこの会議は軍備制限会議にあらずして軍備拡張会議となり実に奇怪至極な結果となるからである。」。
「専門事項承認の後 三國全權重要協議に入る 潜水艦を日本は七萬噸 英国は十一〜二萬噸」〔7.9 時事〕は「…更に三国案について重要なる協議を始めたが、…今まで極秘に附せられていた潜水艦に対する英国の要求…の探知する所に拠れば…五―五―三を求めて居ることになる、潜水艦については我主張を譲歩してあるから五―五―三には飽くまで反対す可きである、尚ほ幹部会の内容は不明であるが今日は大体の意見交換に終わると思はれる。」。
「妥協案は撤回せよ 我全權にきつい訓電 これでは面目丸潰れとなる 英國の手に乗った我代表 會議は再びやり直しに」〔7.19 東日〕は「軍縮会議はジユネーヴにおいて日英両全権間に左の妥協案が出来わが齋藤全権は本国政府に請訓してきた…わが海軍首脳部は直ちに会議を開き齋藤全権に回訓したが、此の回訓は確聞するところによればこれまで伝へられて居るが如き生温かきものとは全然異なり我が政府は全く反対の態度に出て、これがため齋藤全権の位置は頗る苦しきものとなついて居る、…日本としては面目の丸潰しである宜しく之を撤回して新たにやり直せといふにあつて…会議は今は日本の妥協案の棄却と米国の反対のためにこんがらかり妥協どころに騒ぎでなくてむしろ軍縮会議やり直しとも云ふべき困難なる立場に立至つた、…」。
「軍縮会議愈々決裂へ 英国の最後提案に 米國、絶対反対を表明 物別れになった全權会議」〔7.30 東日夕刊〕は「…英国全権ブリツヂマン氏は英国の最後案として新提案を示したが、…これに対し米国全権は直ちに絶対的不同意を唱へた。…かくして三国全権は各自本国政府に請訓することとなつた…」と伝える。
軍縮交渉が行われた海軍について。「錦旗の下に史的意義深き 昭和第一次の大観艦式 わが海軍の威力を示して 海に現出せる空前の盛儀」〔10.31 東日〕は「層雲断続、どんよりと打ちくもつた大空のもと、風露肌へに快い横浜港外の青うなばら、聖上御親臨観艦式をとり行せらる、海を圧して打ちならぶふねのかずは一百七十隻、なほその上に八十台の飛行機飛び、参加人員実に三万余、我国海軍の精衛を集め実に空前の盛事である…」との記事。荷風の「断腸亭日乗」も「十月三十日 曇りて時々雨ふる、観艦式とやらにて市中賑やかなり。」と町の雰囲気を伝える。
写真 (「ジュネバ国際聯盟本部」 出典:石丸藤太 著『ジェネバ軍縮会議へ』,春秋社,昭和6. 国立国会図書館デジタルコレクション ジェネバ軍縮会議へ - 国立国会図書館デジタルコレクション)
写真 (昭和3年の「大観艦式と御召艦榛名」 出典:共道社 [編]『写真交名大鑑:御大典奉祝記念』,共進社出版部,[昭和4]. 国立国会図書館デジタルコレクション 写真交名大鑑:御大典奉祝記念 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
(2)対支外交
まずは南京。「南京のわが領事館 革命軍に襲撃さる 三時間に亘って惨虐の限をつくし武器食糧を掠奪して去る」〔3.6東日〕は「廿四日午前七時丗分南京日本領事館は多数の南軍から一斉射撃を受け掠奪其の他あらゆる暴虐をほしいままにされた…惨虐を尽くし正午頃に至り漸く南軍党の代表者がその場に来たりこれを制止したので南軍は退散した。…」との記事。関連して、「いよいよ列国一致 共同体度を表明 事件拡大傾向に鑑み 四國公使會議で決定」〔3.31 時事〕は「排外的色彩の著しい南京事件の波紋は、俄然拡大の傾向を帯び漢口、蘇州の形勢も険悪となり蒋介石氏の鎮圧命令は部下軍隊に徹底を望み難きの実情に対し居留民の保護を念とする列国大使の憂慮は深甚なものあり被害関係国公使館には、応急策と善後措置につき協議が継続され、…結局は右被害関係国政府間に於て事件の解決は勿論同一事件の防止方に付一致共同して適切なる態度を表明することに決した模様である。…」とある中、「蒋介石、全然実力を失い 上海恐怖状態に陥る 邦人、政府の決意要望」〔4.2 国民〕は「当地の形成は益々険悪、恐怖次第に募り来れるの観あり、暗殺団横行し、反共産派殊に右傾派国民党員は皆所在を晦ましている、…左右両派の板挟みとなった蒋介石は行動の自由を失ひ、会見を約した公使重要人物等を入口で追返した事幾度なるを知らず、尚、彼の地位を一層絶望ならしめたのは上海の財政権を漢口より派遣された宋子文の任命せる財政委員に奪はれた事で…」の報道もあり、「この応急に応ぜずんば やむなく『適当の措置』国民政府と蒋氏に突き付けた共同抗義の全文(本日付外務省公表)」〔4.12 東朝〕は「南京事件に関し四月十一日在漢口日英米仏伊五国総領事は…左の共同通牒を提出し同時に在上海五国総領事は右通伝を国民党総司令蒋介石将軍に通告した。五国共同通牒 …一、虐殺傷害侮辱並びに損害に付責に任ずべき軍隊の指揮官およびこれに関与せられる者に対する厳重なる処罰を加ふること 二、国民軍総司令より文書をもつて謝罪をなし同文書中に外国人の生命財産に対する一切の暴行扇動を行はざる旨の明約を含ましむること。三、人的障害及び物的損害に対し完全なる賠償をなすこと。…」との報道。
そんな中、「山東出兵いよいよ断行 満州から二千名を派遣 けさ首相参謀総長参内御裁可を仰ぎ 直ちに声明書発表さる」〔5.29東日夕刊〕は「政府においては済南方面の形勢が廿七日以来とみに悪化せるに鑑み、いよいよ既定方針に基づき出兵を断行する事に決定し廿八日田中首相は午前九時廿分鈴木参謀総長は同九時丗分前後して赤坂離宮に参内し姫路第十師団菅下の部隊二千名を大連より海路青島に急派すべく上奏御裁可を仰ぎ直ちに武藤関東軍司令官に対し電命を発した。」、「出兵声明書 在留邦人保護の他に意図なし 戦乱静まらば直ちに撤兵」〔5.29 東日〕」は「外務省においては正午左の如き声明書を発表した。…陸軍力に依る保護は固より…やむを得ざるの緊急措置に外ならずして支那国及びその人民に対し何等非友好的意図を有せざるのみならず、南北両軍何れに軍隊に対してもその作戦に干渉し軍事行動を妨害するものに非ず、帝国政府は斯くの如く自衛上已むを得ざる措置として派兵を行ふと雖も初めより長く駐屯せしむるの意図なく同地方の邦人にして戦乱の患を受くるの虞なきに至らば直に派遣軍全部を徹退すべきこと…」、「転ばぬ先の杖 田中首相の出兵談」〔5.29 東日〕は、「田中首相は…左の如く語った。『今回の山東出兵は大体声明書の通りで済南地方に何か事が起こった場合に満州に兵を置いたのでは急場に間に合わないので…要するに今回の青島出兵は転ばぬ先の杖といふ次第だからこの点を了解してくれ給へ。』」
「対支政策の確立を期し 東方会議開かる 會議の重要問題」〔6.27 讀賣〕は「暫く延期された外務省の東方会議は、田中首相の病気恢復、帰京と共にいよいよ廿七日午前十一時から約一週間の予定をもつて霞が関外相官邸に開かれる事となつた、同会議は政友会新内閣の対支政策確立のため特に田中兼摂外相の発議により、芳沢駐支公使並びに奉天、上海、漢口駐在三領事の帰朝を求め、之に児玉関東長官、武藤関東軍司令官及び陸海軍両省首脳部を加へて会議を開き政治経済上の各方面に亘つて意見を交換し、我が国対支政策の大方針を決定戦とするものである…もちろん是等日支間の諸問題を通じて一貫するものは、日支両国の提携親善政策にあることはいふ迄もない。」。
「戦乱の故國を後に 宣統廃帝日本へ さく奇の運命に苛まれた末 東京を永住の地と熱望され」〔6.20 国民〕は「かつて清朝の栄えた頃、支那四百余州に君臨した宣統帝が一朝の革命に忽ち帝位を追はれ、…最近又も廃帝に対する圧迫は漸くはげしく、帝はここに今まで絶えずこころざしていた日本永住の決意を固められ、その旨をもらされていたが、わが国でもよるべなき不遇の廃帝を迎へて、永住の地たらしむる事に努力する人々が多く、…廃帝年来の御希望通り、来朝は今秋頃であらうと云はれている。…」。宣統帝とは、後の満州国皇帝溥儀。
そんな中、蒋介石の来日の報道。「傷心の革命児 蒋介石氏 きのふ長崎へ『日支間の誤解を一掃したい』と語り」〔9.30 讀賣〕は「行方はいづく雲仙か有馬か恋を尋ねての道行きか或いは又さきに渡米した夫人の後を追ふての外遊か諸説紛々行先のきまらぬ謎の蒋介石氏を乗せた日支連絡船上海丸は…秋晴れの長崎に入港出馬岸型に着いた。…尚一つの重要な目的は今日まで支那と日本との間にいろいろ誤解があるらしいので私は此の機会を利用して此の誤解を解くに努むると同時に我が中華民国との連絡を取り此の問題のため十分努力する考えでありますから皆様のご尽力をもお願い致します…」。蒋介石関係の記事は続き、「孫文未亡人の結婚 支那南方の大立者陳友仁氏と 外遊中結ばれた縁」〔9.31 国民〕 は「支那南方政府前外交部長陳友仁氏が今回孫逸仙未亡人宋慶齢と結婚し両名は新婚旅行かたがた革命計画遂行の為め近々支那に帰る予定であると云ふ」、「革命の姉御と 呼ばれた女 陳氏とは似合の夫婦 やがて驚天動地の大飛躍か」は「孫氏未亡人宋慶齢女史は、今南方の花形役者蒋介石と結婚のうはさ高い支那第一の美人宋美麗の姉さんで妹に劣らぬ美人として知られている、…銃火の洗礼を受けて田舎娘に変装し危機を脱出したりして夫君孫子と共に死生の巷に活躍し国民革命軍の人々から革命の姐御と云はれていた女丈夫。孫氏死後夫君の志を継いで革命軍の為に東奔西走していたが国民党の不甲斐なさに愛想をつかし絶縁状を叩きづけて南方政府の前外交部長陳友仁氏と共に故国を逃れて入露したものである。…切れ者陳氏、革命の姐御宋女史が秘策を胸に故国へ帰った暁、そこには再び驚天動地の大飛躍が開始されることと見られている。」
そして、蒋介石の結婚話など蒋介石に関する記事が続く。「美しい宋美齢嬢 いよいよ蒋介石氏と結婚」〔10.16 東日〕は「戦乱の支那にこれはまたなまめかしい話として評判になついていた蒋介石氏と宋美麗嬢との結婚はいよいよ正式に発表された…式は宋氏の家がクリスチヤンなのでキリスト教の式によつて上海で挙げられる、蒋氏は母堂に託し嬢にエンゲージリングと美しい腕時計を贈った、宋家では結婚調度品の支度に忙しい。」との記事。
写真 (「田中義一閣下」(左) 出典:『近世名士写真』其1,近世名士写真頒布会,昭10. 国立国会図書館デジタルコレクション 近世名士写真 其1 - 国立国会図書館デジタルコレクション 「大禮奉祝大夜會」の際の田中首相(右) 出典:共道社[編]『写真交名大鑑:御大典奉祝記念』,共進社出版部,[昭和4]. 国立国会図書館デジタルコレクション 写真交名大鑑:御大典奉祝記念 - 国立国会図書館デジタルコレクション)なお田中首相の演説はここから演説:国民に告ぐ(A) - 国立国会図書館デジタルコレクション)
写真 (「孫文」(左)出典:島田増平 著『最も覚え易き東洋史』,文弘堂,昭和4. 国立国会図書館デジタルコレクション 最も覚え易き東洋史 - 国立国会図書館デジタルコレクション 「蒋介石氏」(右)出典:村松梢風 著『新支那訪問記』,騒人社書局,昭和4. 国立国会図書館デジタルコレクション 新支那訪問記 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
(3)その他
その間の諸外国の動向について。
「印度が飽くまで綿糸関税を引上ば 我は対抗策として 銑鐡の関税引き上げ」〔9.17 中外商業〕は「十五日開会さるべきインド上院は、二日間延引され本十七日開会の筈で、当日は去る七日下院通過を見たる綿糸関税引き上げ案を上程、インド議会としての最後の採決をなす筈である。…これは要するに我関係当局がかくの如き手段に出でんとするは今回のインド綿糸関税引き上げ案が、表面列国対等の待遇をなす如く見せかけ、実質においては差別的関税であり、かつ我が対印綿糸輸出の被る実際的損害莫大なりとの理由により出たものであると。」の記事。当時、三井物産の綿花部門が独立した東洋綿花のボンベイ支店長だった塚田公太倉敷紡績会長は、日本経済新聞の「私の履歴書」で「当時の日本は綿花のすべてを輸入に頼り、そして製品のうち二〇番手、三〇番手などの綿糸布を輸出していた。…ところが、日本で作った製品をインドへ輸出すると七割五分の税金がかかる。そこで考えたのは、直接インドで紡績会社を経営したらどうかということであった。…児玉専務の決裁でいよいよインドで紡績をやることになった。使う原綿は地元のインド産だし、日本へ持ってくるのと違って船員もいらない。おまけに七割五分の税金もかからないときているから当然もうかるはずなのに、操業後幾年たっても利益がでない。…そこで児玉さんが、一つ現地に行ってみてこようということになった。…昭和二年の七月半ばに出発してインドに行き、その年の十月に児玉さんを迎えた。…ボンベイの紡績事情調査を振りだしに、約二か月にわたってインド全土一万マイルの旅行をした。」と語る。
ところ変わって、イタリア。「黒シャツ宰相式『独身税』の創設 滞納者は體刑に処す イタリー道楽男の大恐慌」〔10.28 国民〕は「道楽男の独身者に対して『独身税』といふのが今度イタリーの黒シャツ宰相ムソリーニ氏によつて実施される事となつた。…法律案の趣旨内容は左の如くである。一、二十五歳より六十五歳までの男子にして独身者には地位の上下身分の如何を問はず一律に左の如き本税付加税を徴収する事…尚ほ此の法律案には除外側として、しろさんかく一度結婚したる独身しろさんかく宗教上婚姻を許されざる者…最後に右本税付加税共、之を滞納するときは断然厳重なる体刑に処することになついている…」。当時外交官だった鹿島守之助鹿島建設会長・参議院議員は「昭和二年二月二十四日、私は鹿島精一長女卯女と海軍大将栃内會次郎および家内の叔父外務次官出淵勝次の両夫妻を仲人として、帝国ホテルで結婚式を挙げた。結婚すると出淵さんが、いっぺん夫婦で外国へ行った方がよかろうということでローマが選ばれた。家内は九歳から日本画を、十八歳から岡田三郎助画伯に洋画を習っていたし、相当の才分があったのでフランスかイタリアで勉強したいと思っていた。それでローマがよいと認められたのである。私たちは新婚旅行かたがたインド洋経由ローマへ赴任した。…大使館では一手にイタリアの政情調査と報告を引き受け、忠実に毎日、イタリアの新聞、雑誌、書物を読んで、大使…や本省に報告した。ムッソリーニ政治の特色は、何と言っても『総合開発』にあった。昔からローマの政治家たちは法律に通じ、そのためローマ法が発達しているが、他面いずれの皇帝も道路とか水道とか大浴場等の建設事業を熱心にやった。ムッソリーニも土木、建築を人心収らん策として政治の用具に使った。…これからは自然との戦いだというわけで、小麦戦(小麦を自給自足する意味)を開始し、南部の荒野に対しては国土開発の宣戦を布告した。特にイタリア南部の百姓を集めてきて、ベネチア宮殿前の広場で総合開発の必要性を訓示した後、一人一人の代表にすきとくわを渡して、肩をポンとたたいて、お前たちは開拓の戦士である、しっかりやれと激励したうえ、ローマの町を練り歩かせる。彼は、このんでこういう人情味や劇的シーンを演出した。ムッソリーニは戦争で敗れて悲惨な最期をとげたが、総合開発だけは高く評価されている。それからローマの新都市建設もムッソリーニの功績とされている。私は昭和三十二年、国務大臣、北海道開発庁長官となった際、いわゆる『鹿島構想』の中にこのイタリアの総合開発の考案を多分に取り入れた。」と日本経済新聞の「私の履歴書」で語る。
紳士・淑女の国、英国。「奉仕の女官の断髪に英帝ことの他御憤り 毛を伸ばさねば免職にと」〔11.6 東朝〕は「バツキンガム宮殿に奉仕する女官にもモダン風俗がいつしか侵入して、髪の毛を借気もなく切り捨てて当世風になつた婦人が四五人現れた、これをみそなはせられたジヨージ陛下は伝統古き英国の皇室に奉仕する婦人中にも軽てうな近代風にかぶれる者の出づる事を慨せられ断然禁止を命ぜられ、再び切つたその毛を伸ばすか、然らざれば免職すべしといひ渡された。流石のモーダン女官もこれに恐れ入り、勅なればいとも畏しと金髪の房々と延び来る日を待ちわびて居る。」と報ずる。当時、早稲田大学法学部助教授で紳士の国、英国、倫敦に留学していた大浜信泉早稲田大学総長は、日本経済新聞の「私の履歴書」で「…法律一般の研究のためにインズ・オブ・コートに入学した。…どのようにしてバリスターが養成されるかをのぞいてみるためといった方が適切であろう。イギリスの弁護士には、バリスターとソリシターの二階級がある。…バリスターは、英国紳士のなかでも、紳士中の紳士として最も尊敬されている階層である。…ここでは講義をさほど重視していないのである。そのかわり、各イン主催の公式の晩餐会への出席は絶対の条件とされている。晩さん会は毎学期一週間ずつ開催されるが、一年四週間、三年を通じて合計十二週間のディーナーを食べつくさないと、終末試験を受ける資格が認められないのである。…とにかく英国では大学教育についてもそうであるが、知名の先輩と食事を共にすることを紳士としてつの訓練のうえに特に重視しているのである。」と語る。
次回は、当時の経済・産業から。
写真 (東綿が買収した「東洋ポッター・ミルの工場(下)と正門(上)」 出典:大阪朝日新聞経済部 編『国際経済画報』第1輯,朝日新聞社,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション 国際経済画報 第1輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
(主な参考文献)
「断腸亭日乗(二)大正十五‐昭和三年〔全9冊〕」、永井荷風、校注中島国彦、多田蔵人、株式会社岩波書店、2024年
「新聞集成 昭和史の証言1」、編集委員入江徳郎、古谷剛正、山崎英佑、故高木健夫、本邦書籍株式会社、1983年
「朝日新聞〈復刻版〉大正編174 大正15(昭和元)年12月」〜「昭和2年12月」、高野義男、日本図書センター、2008年
明治大正建築写真聚覧 - 国立国会図書館デジタルコレクション
三越のあゆみ | 百貨店事業のあゆみ | 事業内容 | 株式会社三越伊勢丹ホールディングス
歌舞伎舞踊 (創元選書) - 国立国会図書館デジタルコレクション
官報 1926年12月26日 - 国立国会図書館デジタルコレクション
「私の履歴書 文化人12」、日本経済新聞社編、1984年
「私の履歴書 文化人16』、日本経済新聞社編、1984年
大正天皇御大喪儀記録 - 国立国会図書館デジタルコレクション
第52回帝国議会 貴族院 本会議 第1号 昭和元年12月26日 | テキスト表示 | 帝国議会会議録検索システム
「昭和財政史第10巻 金融」、大蔵省昭和財政史編集室 編、東洋経済新報社、1955年
東京風景 - 国立国会図書館デジタルコレクション
『私の履歴書 第10集』、日本経済新聞社編、1964年
台湾銀行二十年誌 - 国立国会図書館デジタルコレクション
西園寺公望|近代日本人の肖像 | 国立国会図書館
西園寺公と湖南先生 - 国立国会図書館デジタルコレクション
「私の履歴書 第5集」、日本経済新聞社編、1964年
高橋是清自伝 - 国立国会図書館デジタルコレクション
是清翁一代記 下巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション
【講演】「フランスにはなぜ恋愛スキャンダルがないのか 2016版」 (日仏メディア交流協会)
お鯉物語 - 国立国会図書館デジタルコレクション
ジェネバ軍縮会議へ - 国立国会図書館デジタルコレクション
写真交名大鑑:御大典奉祝記念 - 国立国会図書館デジタルコレクション
近世名士写真 其1 - 国立国会図書館デジタルコレクション
写真交名大鑑 : 御大典奉祝記念 - 国立国会図書館デジタルコレクション
陶庵公影譜 - 国立国会図書館デジタルコレクション
最も覚え易き東洋史 - 国立国会図書館デジタルコレクション
新支那訪問記 - 国立国会図書館デジタルコレクション
「私の履歴書 第22集」、日本経済新聞社編、1964年
国際経済画報 第1輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /