第2回:目的を絞って、小さく軽く、そして素早く─ その全てが難しかった
松浦 晋也
宇宙開発事業団(NASDA)と宇宙科学研究所(ISAS)が共同で検討していた、大型月探査機「SELENE(セレーネ)」── 構想検討当初、SELENEには、月面着陸の技術試験機能も含まれていた。1年間に渡って月周回軌道から月の観測を行った後に、探査機の推進モジュールを分離。分離した推進モジュールを使って逆噴射による月面着陸を実施し、着陸の技術実証を行うというものである。
しかし2000年、推進モジュール分離による月着陸試験は、SLENEからはずされた。「ミッション遂行にあたって危険性が大きい」という判断だった。
― SELENEの次のSELENE-B ―
この時点で、1958年以来の蓄積で、人類は他天体探査における定番のロードマップをほぼ確立していた。
最初は「とにかく行ってみる」だ。相手の天体への人工物体の衝突であったり、横を通り過ぎるフライバイである。
次に来るのが「相手の星を周回する」周回探査だ。上空からじっくりと時間をかけて表面を観測する。小惑星の場合は、周りを回るほど星の重力が強くないので、相手の星に近づくランデブーということになる。
その次が着陸。実際に天体の表面に降りて、詳細な観測を行う。ここまでくると、表面のサンプルを使って現地で簡単な化学試験を行い、その性質を調べることも可能になる。
そしてサンプルリターン。表面に降りてサンプルを採取し、地球に持ち帰る。アメリカのアポロ計画と、旧ソ連のルナ計画は、月からのサンプルリターンを実施した。
日本は、21世紀初めの時点で、月周回機「はごろも」による月周回と、「ひてん」の月面落下による人工物体の月面到達をクリアしていた。SELENEは、それに続く月周回軌道からの本格的探査という位置づけになる。推進モジュール分離による月着陸試験は、さらに次の段階である月面着陸の練習も一緒にやってしまおうという考えだったのだ。
それは決して間違ってはいなかった。ただし「やる余裕があるなら」だ。"本番"である周回軌道からの観測に悪影響を与える可能性があるなら、外さざるを得ない。
が、順番として「SELENEの次は月面着陸」であることは明らかだ。そこで、月面着陸はSELENEの次の探査機「SELENEーB」の検討が2001年4月から始まった。
SELENE-Bは、「SELENEの次の月探査機」という位置づけだったので、その規模はSELENE並みだった。つまり大きかった。打上げにはH-IIAロケットを使用することが前提。つまりH-IIAの直径4mの衛星フェアリング内に収まるサイズということになる。検討段階で打ち上げ時重量は1.5トン。これはH-IIAの打上げ能力の約半分で、他の衛星・探査機との相乗り打ち上げが前提となっていた。後に実現したSLIM(打上げ時重量700kg)の2倍以上である。観測機器としては、日本初の月面ローバーを搭載する。降りる場所は月の表側、月の赤道に近い場所。アポロ計画でも着陸地点となった、月面でも比較的降りやすい場所だ。月面では昼が14日、夜が14日続く。このため昼は探査機表面の温度は100°C以上になるし、夜は逆にマイナス170°Cまで下がる。通常の電子機器はこの温度差に耐えられずに壊れてしまう。だから、SELENE-Bは、着陸地点の"朝"に着陸し、昼の間だけ運用して、夜になったらもう壊れても構わない、という設計を採用した。これは、これまでの月の無人着陸機としては標準的な運用である。
ここで、後のSLIMにつながる重要な要求が加わった。
「着陸の精度は、目標点から半径100m程度以内」かつ「障害物を回避して着陸すること」というものである。
― SELENE-B敗退からの復活 ―
「SELENE-B」の構想は2002年11月に、次の科学衛星・探査機候補としての提案がまとまった。
宇宙は広く、科学者がやりたいことはいっぱいあるが、予算も人も時間も限られている。アメリカでも欧州でも、科学衛星・探査機は、十分な検討を経たいくつもの案を科学者たち自身が審査し、本当に予算内で実現できるのかという実現可能性や、実現した場合に得られる科学的成果は大きいか小さいかなどを慎重に比較し、何段階もの審査を実施して次の実行する計画を選定する。
ところが、実現に向けての最初の関門となる、2003年11月から12月にかけてのISAS・宇宙工学委員会での審査でSELENE-Bは落選してしまった。この時に審査を通過したのは、ソーラー電力セイル計画だった。太陽光を受ける巨大な「帆」であるソーラーセイルを宇宙で展開し、かつその大面積の帆に太陽電池を広げて、電力を得てイオンエンジンを駆動する。ソーラーセイルとイオンエンジンの両方で推力を得て木星まで行こうという壮大な計画である。
ちなみにソーラー電力セイルも、その次の関門となる2006年のISAS全体での審査で、宇宙理学委員会から提案された電波天文衛星ASTRO-Gに負けて落選してしまった。
そのASTRO-Gも、開発に入ったものの、どうしても宇宙空間で展開する大型のパラボラアンテナの鏡面精度を出すことができず、2011年に計画が中止になってしまった。科学衛星計画をゼロから立ち上げ、何度も審査を通過し、開発し、実際に打ち上げて成果を上げるという作業は実に容易なことではないのである。
審査を通ることができなかった衛星・探査機構想は、そのまま消滅するか、あるいはもう一度検討し直して、次の機会に賭けるかという2つにひとつとなる。
SELENE-B関係者は、当然のことながら「なぜ落選してしまったのか」と議論した。「大きさが中途半端なんだ」という意見が主力だった。SELENE-Bは、打ち上げ時重量1.5トン。対して、SELENEは打上げ時重量2.9トンである。
「小さすぎたんだ。月の総合的探査を行うSELENE並にもっと大きくして、できることを増やし、科学観測もがっちり実施できるようにすれば、新しい構想としてまた提案できるようになる」── SELENE-Bは、2000年代後半になってから「SELENE-2」構想という形で復活し、再度検討を行った。大型化したSELENE-Bと同様に月面ローバーを搭載して、今度は月の中緯度地域に着陸するというものだった。
SELENE-2は、2015年まで粘って検討を続けたが、こちらもSELENE-Bと同様に月面着陸機として実現することはできなかった。
最終的にSELENE-Bは紆余曲折の末、日本は「H3」ロケットによる打上げと月面ローバーを、インドが着陸機を提供する国際協力月探査ミッション「LUPEX」(2026年度打上げ予定)として実現することになる。
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月極域探査機(LUPEX)着陸機(右)とローバ(左) (クレジット:JAXA)
初代SELENEから分離した着陸試験機だったはずが、日本は着陸を担当しない月探査として月に向かうことになったのだ。
― 世界初の目標を、小さく、素早く ―
ところで、SELENE-B落選の原因を議論するなかで、ISAS澤井秀次郎教授や福田盛介教授らは、全く別の発想で、捲土重来を期そうと考えた。
「目的を、月面への着陸技術の技術試験のみに絞り込む。そうすれば探査機は、もっともっと小さく軽くすることができる。小さくて軽くて目的を絞り込んだ計画なら、もっと機動的に素早く実現することができるはずだ」、と。
そのように考えた背景には、SELENE-Bの技術目標「着陸の精度は、目標点から半径100m程度以内」かつ「障害物を回避して着陸すること」があった。
実はこれは、それまでの旧ソ連とアメリカの月着陸機が実現できていない、新しい技術課題だった。世界に先駆けた新しい技術課題なら、そこに絞り込んで試験機を開発、打ち上げて実際に運用し、月に着陸させる意義は大きい。
1966年のルナ9号以来、月に着陸した探査機はほとんどが「降りやすい場所」に着陸していた。具体的には平坦でクレーターのような障害物の少ないところ ── 海だ。月面の地形は大別して急峻な山地と、平坦な「海」と呼ばれる場所に分かれる。海は何十億年も昔に、月の内側から吹き出したマグマが冷えて形成された平原だ。クレーターも少ないので、探査機の着陸に向いている。傾斜も小さいので着陸後に探査機がひっくり返る危険性も小さい。
このやり方ならば、「絶対にここ!」とピンポイントで着陸する必要はない。着陸の精度は数kmから10kmもあれば十分だ。目標点をたとえ10kmはずしたとしても、そもそも月面まで到達した探査機の数は少ないのだから無問題。どこに降りてもそこは科学的探査に値する未知の場所だ。安全に着陸さえできれば、降りた場所でできる科学的観測はいくらでもある。
が、科学探査で月という星の全体像を把握しようとするならば、「海」の地域ばかりを探査しているというわけにはいかない。急峻な斜面の山地にも降りての地質の調査を行うべきだ。
それだけではなく、クレーターの内部の探査も重要である。クレーターは月面に隕石や小惑星のような微小天体が落下して形成される。衝突時には月の表面を深くえぐり、内部の物質が表面に出てきて飛散する。つまりクレーターを調べることで、月の内部がどんな物質でできているかが分かる。
水面に水滴を落とすと、衝突した水面からしずくが盛り上がって飛び散る。クレーター形成時も同じ事が起きて、クレーター中央部に盛り上がりを作る。これを中央丘(ちゅうおうきゅう)という。中央丘は、月の内部の物質が盛り上がって露出しているので、是非とも実際に行って調べたい場所である。「丘」というからにはそこは当然傾斜地だし、クレーター形成時に吹き出した岩石が、着陸の障害物となって、ごろごろしている。
ピンポイントでここ!という高精度の着陸は、月の科学探査に大きな革新をもたらす可能性があるのだ。
― 月面に着陸するということは ―
ところで、月面への着陸は、具体的にどのような作業であろうか。
探査機の脚が月面に設置した時に、探査機の月面に対する速度がどの方向に対してもゼロになるように、探査機の速度を調節するということである。
出発点は月の周回軌道だ。月面から高度100kmの月周回軌道を飛ぶ物体は、月面に対して約1.5km/秒で移動している。
つまり、月面に着陸するということは、上空で1.5km/秒で月面と並行に移動している物体を、降りてくる過程で減速し、月面に到達した時点では、月面に対する速度がゼロになっているようにする、ということなのである。
では、具体的にどのように降りていけばいいのだろうか。こういうときは、徹底的に模式化し、問題を単純化して考えていくと、おおよその見当をつけることができる。月を完全な一様な球体であるということにするし、出発点もとりあえず月の上空、高度100kmの円軌道ということにする。
円軌道だから、一番月面に近い近月点も一番遠い遠月点も、共に高度100kmだ。100km降りて月面に到達するということは、この軌道の近月点を100km下げるということである。つまり高度100kmの軌道から、遠月点高度100km、近月点高度0kmの軌道に乗り移ればいい。そのためには着陸地点のちょうど月の反対側のところで減速すればいい。専門的に言えば円軌道から近月点高度の低い楕円軌道へのホーマン遷移だ。
しかしそのままだと、近月点、つまり月面に到達した時に横方向の速度が残っている。探査機は月面に接触して派手に転がって壊れてしまうだろう。
それならば、月面接触の直前に逆方向に噴射して横方向の速度をゼロにすればいい。
基本的な考え方はこれでいい。
ただしあくまで基本だ。この方法で現実の月に着陸できるかといえば、できない。
もう少し、現実的に考えてみよう。
現実の月は、山脈のようなでこぼこがある。完全な球体でもないし、地下の地質の密度の差から発生する、部分的に重力が強かったり弱かったりする重力異常もある。重力異常があると、軌道の高度はきれいな楕円軌道にならず高度が上がったり下がったりする。
たとえ重力異常があっても途中で山脈にぶつからないように探査機を降下させていくには、かなりの余裕を持って、高度数キロとかというような高さで十分に横方向の速度を落としてから、逆噴射でゆっくりと月面に降りていく必要がある。
その時に、重要なのが、探査機の縦方向の位置と速度(高度と降りていく速度)と、横方向の速度の2つだ。この2つを常に計測しつつ、噴射の方向と強さを調節して、探査機は月面に降りていくことになる。
つまり、月着陸機には、月面に対する縦方向の距離と速度、そして横方向の速度を計測する2種類のセンサーが必要ということになる。
縦方向の速度を計測するのは、割と簡単だ。探査機から電波とか光を発射して月面での反射を捉えればいい。発射から反射が戻ってくるまでの時間を測定すれば、月面までの距離が分かる。距離の変化を測定していけば、降りていく速度も分かる。最近なら、ライダー(レーザー・レーダー)という便利な計測機器もある。レーザー光線を発射して、反射をとらえ、対象物までの距離を測定する機器だ。
横方向の速度は、ドップラー・レーダーという計測機器を使う。四方に電波を発射し、地表からの反射波を受信するという装置だ。反射して帰ってきた電波は、探査機の横方向の速度に応じてドップラー変位で周波数が変化している。そこから自機が、下の月面に対してどの方向にどれだけの速度で移動しているかを検出する。
この縦と横の速度の情報を使って、最終的に着地の瞬間に、両方の速度をゼロにする、というのが月着陸の基本だ。とはいえ、どんなことにも誤差はつきものなので、月の場合は上空数mのところでエンジンを切って、そこからは自由落下ですとんと着地するという方法を使う。最後の"すとん"の衝撃は、着陸脚に仕込んだ緩衝装置で吸収する。
縦と横の速度が重要 ──は月に限らず、どんな天体に降りていく場合も同じだ。月であっても、火星であっても、あるいは「はやぶさ」「はやぶさ2」のように微小重力の小惑星に降りる場合も同じである。
例えば、はやぶさ/はやぶさ2の場合は、小惑星からの縦方向の距離をライダーで計測し、横方向の位置を、ターゲットマーカーを使って計測するという方法を使った。事前に着地点付近に光を反射するターゲットマーカーを落としておいて、着地時には、ライトで照らしつつ着地点に接近していく。するとカメラの画像にはターゲットマーカーが輝点として写るので、それを基準にして表面に対する自機の横方向の位置と速度を検出するという仕組みだ。
もうひとつ、ここで月特有の条件も考えなくてはいけない。
月着陸機は逆噴射のための大量の推進剤を必要とする。
ロケットを噴射で空中に浮かすことを考えよう。ロケットの重量と同じだけの力で噴射すれば、ロケットは浮く。浮くが、その状態でどんどん推進剤を噴射し、消費していく。噴射した推進剤の分だけ本体は軽くなっていくので必要な推力は時間とともに小さくなっていく。が、「そこにただ浮いているだけ」で、他になにもしないのに、どんどん推進剤を使ってしまうことが分かる。このことを専門用語で「重力損失」という。
逆噴射で月の重力に対抗しつつ、垂直に降りていく月着陸機は、この「噴射で浮いているロケット」と同じ状態だ。つまりどんどん噴射で推進剤を使わないと、安全に降りていくことができない。
地球や金星や火星、土星の衛星タイタンのように大気がある星ならば、大気の抵抗を使って落下速度を落として表面に降りていくことができる。また、小惑星ならば重力がずっと小さいので大気がなくとも必要な推進剤の量は非常に少なくなる。
しかし、月や水星のように大気を持たない、その一方で比較的大きくて重力の強い星に降りていくには、重力損失が発生することを前提にして、ロケット噴射で減速しつつ降りていくしかない。
だから、月着陸機は大量の推進剤を積まなくてはならない。もしも降りていく途中で、推進剤を使い切ってしまったら、その時点で着陸は失敗、探査機は月面に墜落することになる。
同時にこのことは、月着陸がやり直しのできない一回限りの勝負であるということも意味する。降りていく途中でなにかトラブルが発生しても、噴射を使って月周回軌道に戻るということは難しい。たとえ戻れたとしても、今度は推進剤が不足するので、月着陸ができなくなる。
「あきらめたらそこで試合終了ですよ」とは、世界的に有名になった某バスケットボールマンガ※(注記) に出てくるセリフだが、これはそのまんま月面着陸に当てはまる。
ひとたび月面への降下を開始したら、後はどんなトラブルが発生しようが、なんとかかんとか工夫を凝らして安全に着陸するしかない。「もうダメだ、打つ手がない」となった瞬間、月面着陸は失敗と確定するのである。
推進剤の性能 ──具体的には自動車なら燃費に相当する比推力という指標── が良くなれば、持って行く推進剤は少なくなる。しかし今度は、「月まで持って行っても途中で蒸発したりしてなくならない」という条件が付く。
現状でもっとも比推力が大きくなる推進剤は、液体酸素と液体水素の組み合わせだ。H-IIAやH3ロケットが使用している推進剤の組み合わせだ。
しかし、液体水素はマイナス250°Cという極低温で、しかもとても蒸発しやすいので、液体のままで月まで持って行くのが至難の業だ。
現状では液体酸素・液体水素よりも性能は劣るが、常温で液体なので扱いやすい、ヒドラジン(水素と窒素の化合物)と四酸化二窒素(文字通り酸素と窒素の化合物)という組み合わせを使うことになる。この組み合わせでは、月に着陸する探査機は、打上げ時重量の約2/3以上が、推進剤となる。
ヒドラジン・四酸化二窒素は、人工衛星の軌道変更や姿勢制御に使われる、宇宙用推進剤としては大変ポピュラーな組み合わせだ。ロケットでも、ロシアのプロトンロケットや中国の長征2/3/4ロケットなどが、推進剤として使っている。他方で、ヒドラジンも四酸化二窒素も人体に対する毒性があるので、打上げ前の探査機への充填などの作業は、十分に注意して専門の作業者の手によって、専門の施設で行う必要がある。
※(注記) 「SLAM DUNK」(井上雄彦)
― 機能は増える、でも機体は小さく ―
澤井教授や福田教授が着目した、SELENE-Bの「ピンポイント着陸」という新機能に話を戻そう。
ここまで説明してきたような、月着陸機の"定石"に、いったいどんな新しい技術を付け加えれば、ピンポイント着陸が可能になるのだろうか。
「狙った場所にピンポイント着陸」を目指すなら、その着陸点を探査機自身が検出できなくてはいけない。その上で、その着陸点に降下する過程で探査機自身が近づいていく必要がある。
つまり、これまでの着陸では、縦方向の高度と速度、横方向の速度を検出していたものが、加えて横方向の位置も検出できる必要がある。
しかも、新たに検出対象となる「横方向の位置」は「絶対的な位置」である必要がある。
「絶対的」という言葉にすると難しく感じるが、つまりは「月の地図で、"ここ"と指し示す位置」である必要がある。
ピンポイント着陸とは、月の地図の上の一点を指し示して「ここに着陸する」と宣言し、その着陸点に近づいていく技術を開発するということだ。そのためには、探査機が月面に降下する過程で「自分は、月の地図と照らしあせてこの位置にいる」ということが検出できなくてはいけないわけだ。
しかも、目標点が平坦な月の海ではなくて、傾斜のある山岳地やクレーターの中央丘といった場所にも着陸できる必要がある。そんな場所は、着陸の障害となる大きな岩石も数が多い。もちろん、地図には載らないような小さなクレーターもある。
だから、着地直前に目標点周辺を探査機自身が観察して、「あっ、着地の障害物になりそうな岩やクレーターがあるな。じゃあ、目標点をちょっとずらして、横の安全そうな場所に降りよう」というような判断もできるようにする必要がある。また、傾斜地にも安全に着地するために、これまでの探査機以上に、着地した時にひっくり返らない設計が必須だ。
以上を整理すると、新たに解決すべき課題は次の三つということになる。
1) 探査機を着陸目標点の真上にどのようにしてピンポイントで誘導するか。
2) 着陸地点周辺の大きな岩やくぼんだクレーターなどの障害をどのようにして避けるか。
3) 着地した場所が傾斜地であった場合にどのようにして、ひっくり返るのを回避するか。
しかも、澤井教授や福田教授らは、これを小型の実験機で実現しようと考えていた。小さな実験機なら、小回りを効かせて短期間で開発でき、すばやく実現することができるからだ。
しかし、小さな機体には、大きな機体に存在する余裕がない。早い話、搭載する電子機器は機体が大きくても小さくても、同じ機能を実現しようと思ったら同じ重量になる。つまり機体全体の重量に対する電子機器の重量の割合は、機体が小さいほど大きくなる。機体が小さければ小さいほど、重量的な余裕は小さくなり、より厳しい軽量化を行わなくてはならなくなる。
しかも、新たにピンポイント着陸の技術実証を行うとなると、探査機に搭載しなくてはならない機能は増える。機能が増えるということは搭載電子機器が増えるということだ。大型の探査機なら重量増を吸収することも比較的容易だ。が、小さな探査機では重量増加をうまく他の場所の軽量化で相殺するのは大変に難しい。
しかも、月探査機は、打上げ時重量の2/3以上が、推進剤が占める。それだけの推進剤がないと、月面に着陸することができない。打ち上げられる重量は、打上げに使うロケットの能力で決まる。本体の重量が1kg増えれば推進剤を1kg減らさなくてはならない。推進剤の量にはある程度余裕を見て積むが、推進剤が経れば着陸時の余裕が減る。場合によっては、「この重量配分では着陸不可能です」となってしまう可能性すらある。
小さければなんでも楽に物事が進むというわけではないのだ。
それでも、検討する価値はある、と、澤井・福田両教授は考えた。なにより小さな機体は予算が少なくて済む。予算が少なくて済めば、それだけ実現の可能性が大きくなる。
科学衛星・探査機の実現に当たっては、2種類の障壁が存在する。「それは、本当に現実の機械として成立するのか」という自然が課してくる障壁、そして「それって本当に意味があるの、役に立つの、お金を出す価値はあるの」という人間社会が課してくる障壁だ。
前者は絶対的だ。地球の重力、月の重力、地球と月との距離、月の環境、万有引力の法則、化学反応から発生するエネルギー、熱力学の法則 ── いくら人間が「ちょっとまかりませんかね」と言っても、自然の法則は絶対まけてくれない。すべての条件を満たさないと、月にピンポイント着陸ができる機体を開発することはできない。
後者は自然のように絶対ではない。が、絶対ではないということは、人間社会の事情でうまくいっていたものがひっくり返ることもあり得るということだ。「こっちの大事な大型計画が優先だから、おまえのところの小さな計画は、ちょっと後回しにさせてくれ」ということもありえる。「ちょっと」がちょっとではなくなることだってあるだろう。
人間社会は人間社会で面倒くさいのだ。
いずれにせよ、澤井・福田両教授らはSELENE-Bから、ピンポイント着陸という新規技術の実証だけを切り出した新しい小型月着陸実証機の検討を開始した。その名は「SLIM (Smart Lander for Investigating Moon)」。もちろんslim(ほっそり、すんなり)という単語にもひっかけた名称だ。
その精神は「目的を絞って、小さく軽く、そして素早く」。
が、その行く手は、予想以上のThe Long and Winding Roadだったのである。
※(注記)本記事の一部は、筆者・松浦氏による取材や見解に基づき構成されています。
◇著者:松浦 晋也
◇プロフィール:ノンフィクション・ライター
1962年、東京都生まれ。慶應義塾大学理工学部卒、同大学院メディア・政策研究科修了後、日経BP社の記者として宇宙開発等の取材経験を経て独立。宇宙開発、コンピューター・通信、交通論などの分野で取材・執筆活動を行っている。