サイエンスを社会と結びつける
化学(chemistry)は、物質の性質や構造、反応を解明し、新たな物質をつくる学問分野だ。起源は、卑金属を貴金属に変えようという錬金術(alchemy)にある。
物質を操る化学者が、いまの時代に取り組むべきことは何か—。次世代太陽電池の素材を開発し、レアアース(希土類)からの脱却を目指す「元素戦略」という国家プロジェクトを、最初に提唱した中村栄一教授(理学系研究科化学専攻)に話を聞いた。
分子の形を解き明かす
肉眼では見えないものをこの目で見たい—。その情熱が、自然科学を発展させる原動力になったことは間違いない。16世紀末に発明された光学顕微鏡は、生物学にさまざまな発見をもたらし、20世紀前半に生まれた電子顕微鏡は、より微細な世界を見ることを可能にする。ついには、オングストローム(0.1ナノメートル)サイズの金属原子の姿を捉えることにも成功した。
だが、電子顕微鏡にはひとつ弱点があった。有機物質に電子線を当てると、そのエネルギーで分子が壊れてしまうことだ。有機分子のありのまま姿を見ることは、化学者の長年の夢であった。
カーボンナノチューブの中で形を変える有機分子とその分子模型(第3回 化学技術における「美」のパネル展(2008年)出展画像)
中村栄一教授は、世界で初めてその夢を現実に変えた。2007年、電子顕微鏡の研究者、産業技術総合研究所の末永和知博士とともに、単一の有機分子の構造の変化をリアルタイムで捉えることに成功した。真空中に置いた有機分子一分子を観察する手法を開発したのだ。
「驚いたのは、観察した有機分子が、まるで分子模型のような形をしていたことです。分子模型は、先人たちの長年にわたる実験や、量子化学計算の結果を総合的に勘案し、原子核の位置を模式的に示したに過ぎません。今回、分子構造の変化や化学反応の実像が、分子模型の動きに近いことをこの目で実際に確かめることができました.これまで1世紀の科学の歴史の流れを、身をもって体験したのです」と、中村教授は目を輝かせて語る。
次世代の太陽電池をつくる
研究用に作製した太陽電池(三菱化学提供)
中村教授は、分子の構造と反応性の解明に力を注ぐ一方、三菱化学と共同で、次世代太陽電池と注目される「有機薄膜太陽電池」の研究開発にも取り組む。
有機薄膜太陽電池は、大きく2種類の有機半導体で構成される。ひとつは光が当たると電子を放出する「p型有機半導体」(電子供与体)、もうひとつは電子を受け取り電極に伝える「n型有機半導体」(電子受容体)だ。このうち後者の電子受容体に、中村教授が開発した有機フラーレンが使われている。フラーレンとは、60個の炭素原子からなるサッカーボール状の分子のこと、それにナノ炭素化合物を結合させたものが有機フラーレンだ。
「私たちの研究室では、20年間で1000種にも及ぶ有機フラーレンを開発してきました。それが、有機薄膜太陽電池の実用化に向けての大きな資産となっています」と中村教授は力を込める。
基礎研究と応用研究のあいだ
2つの研究は、前者は基礎研究、後者は応用研究と、両極にあるように見える。だが、中村教授は両者の関係を次のように説明する。
「分子の形を見るのも、太陽電池の素材をつくるのも、同じ目的で一本につながっています。私たちの研究は有機合成化学、新しい有機物をつくり出すことが目的です。それには、分子の構造や反応機構を理解しておく必要があります。有機分子の実像を見るのはそのためです。解明した理論にもとづいて分子を設計し、分子の集合体の機能を予測して、合成した分子を太陽電池に組み込んでいるのです」
教授はさらに、基礎研究と応用研究の関係について言葉を重ねる。
「長いスパンで見れば、基礎研究は応用研究につながります。1000種のフラーレンをつくっているときに個別の応用をイメージしていたわけではないですし、分子の構造解明は、いずれ何らかの応用に発展していくはずです。基礎研究と応用研究の境界は、時代とともに変わるものなのです」