1950年代の鋳造指導書が発見されたのでここに公開します.
本指導書は,横須賀海軍工廠で鋳物工場長を務めた谷山榮介が鋳造工場を指導した時に記したものです.
文書発見日2016.9
指導書はこのリンク先あるいは上のボタンからたどることができます.B5の便箋に手書きされていたので,そのままスキャナで画像にしました.文書は,タイトルのみディジタル化してあります.内容順に並べたものと,日付順に並べたものがあります.
また,「夏の湯は何故沸かないか」については電子文書化しました.
以下に,この文書の背景について所有者の解説を載せます.
尚,本指導書は昭和初期の情報であり,現状とは異なっていることがあります.本文書により提供された情報については,法的責任を負わず,また,情報の完全性、正確性など情報の品質に関わる,いかなる保証もいたしません.したがって,本文書の情報を利用して行った加工の結果生じた損害についても,文書記述者と所有者,公開元である産業技術総合研究所は一切の法的責任を負いません.
文中の敬称は省略させていただきます.
*)出典:岡根利光;鋳造工学編集後記,Vol.88,No.2(2016),pp.138.指導書は1948(昭和23年)から5年間,3社に指導を行ったもので,谷山先生が手書きし,3部のカーボンコピーを作った.講義をした場所は,中目黒の小林工場である. 原稿本体はすでになく,今回,カーボンコピー1部が発見された.70年を経過しているため,色の薄いもの,変色しているものなど,読みにくい文書も多い.
「先般あるデータをまとめるために,引用されている図面の出典を辿っていき,原典の確認をしました. もしかしたらさらに古い出典があったのかもしれませんが,方案の解説図など,1950年代に出版された本からの引用が孫引きされているものが比較的多くありました.歴史を語るには甚だ勉強不足なのですが,戦争が終わり,それまで蓄積された技術が整理公開された時期なのでしょうか.次々と新技術・改良技術が現れる昨今ですが,このような本の散逸を防ぐなど,オリジナルの精神を辿って確認できるようにしておくことも大事だと思います.(後略)」
メンバー
指導を受けた工場は,後藤合金,森島工場,小林工場(のち小林鋳造,コバチュウ)の3社である.
後藤合金と森島工場は共に大田区蒲田に工場があり,海軍の指定工場という関係である.また,森島工場と小林工場は親戚関係である.
当時,森島工場在籍で谷山講義を受けたのは小林弥之助(小林4兄弟の長男,のちに小林鋳造社長)である.後年,日本綜合鋳物センター(現,素形材センター)で発行 した「鋳物の品質管理」で銅合金鋳鋳物の主査をした.弥之助は筆者の伯父で,今回発見したのは彼の保管していた指導書である.
また小林工場所属で,講義を受けたのは小林節次(小林4兄弟の次男)である.日本鋳造工学会銅合金部会の委員として活躍した.
後藤合金所属で,講義を受けたのは後藤正夫(創業社長 後藤潤五の長男)である.
コンテンツ
指導書は,木炭被覆による溶湯の酸化防止を始め,800ページほどあり, 古い表現の文字,また一部専門用語を英語で使用しているが,
専門家の皆様は判読可能と思う.
以下にその一部を紹介する.
1. 押湯の付け方
2. 脱酸と熔剤(Deoxidizer and Flex)
3. マンガン青銅製高速推進機の侵蝕について
4. 夏の湯は何故沸かないか
エピソード
筆者の知る谷山先生は自宅が逗子であること.*走水海岸(はしりみず);横須賀海軍工廠のほど近く
小林工場の沿革
・1871(明治4年)に芝赤羽(現在の東京タワー近隣)*1)に工作機械の国産化を目的に工部省が赤羽工作分局*2)(のち海軍造兵廠)を開設した.
芝赤羽在住で,人力車夫であった椎橋善太郎(筆者の祖母の兄)が,そこで機械部品用の銅合金鋳物製造法を習得.
独立して港区芝白金三光町に,鋳造工場を創業した.
*1)赤羽町は1967(昭和42年),住居表示変更により三田一丁目になった.・その後,親戚筋で鋳造工場の開設が始まり,港区を中心に7軒となった.
*2)赤羽工作分局は,1883(明治19年) 海軍省へ移管. 参考文献:中江秀雄著;大砲からみた幕末・明治,法政大学出版局,(2016),pp.136-138.
古い資料が無く,父より幼少の頃から聞かされていた事柄をまとめてみた.
(株)森島工場の沿革
・父,関口(旧姓森島)辰五郎が大正初期において,港区芝白金三光町に森島工場(個人)を創業.
・その後,銀行員であった兄の森島友三郎を社長に招き入れ,(株)森島工場を設立し,大田区羽田萩中町に工場を移した.
その頃から海軍工廠から銅合金及び軽合金の鋳造品を受注するようになり,海軍の技術監督下の皇国第42工場という指定工場になった.
海軍配下時代は,同じく大田区蒲田に工場がある後藤合金と共に軍の仕事をこなしていた.
また監督官という言葉は聞いたが,谷山先生のお名前は出ていなかった.
・その後,(株)森島工場は茨城県の土浦市に軽合金工場を新設.
最大2000人の従業員により中島飛行機戦闘機用のエンジン部品(キャブレターシリンダー等)を生産した,
・終戦と同時に羽田工場は米進駐軍に接収され,生産拠点を土浦工場に移した.
・戦後,谷山先生に社の技術担当者が師事し,その中の一人が小林弥之助である.
今回,指導書を発見したのはその甥の小林俊朗で,氏の努力によりこの文書が世に出ることとなったと思っている.
指導書公開にあたり,産業技術研究所の岡根利光,後藤合金社長鈴木元光,及び会社の方々,また小林俊朗,皆々様のご尽力に心より感謝申し上げたい.