あらすじ

「道行名残の橋づくし」の冒頭、2人は天神橋(てんじんばし)に立っています。2人は天神橋から西を振り返り、通り過ぎてきたいくつもの橋を思い起こします・・・あらすじを読む

「道行名残の橋づくし」は、近松の名作『心中天の網島(しんじゅうてんのあみじま)』に登場する一場面です。
死を決意した男女2人が、心中場所まで歩く道のりが描かれています。

舞台は、江戸時代の大坂。
曽根崎新地(そねざきしんち)、天神橋(てんじんばし)、網島(あみじま)... 作品に登場するのは、現在の大阪でもなじみ深い地名ばかりです。

この作品は、実際の心中事件を元に書かれたと言われています。
実在する恋人たちの生きた舞台が、ここ大坂の町だったのです。

それでは、古地図を広げて、作品の舞台を訪ねてみましょう。
主人公は、遊女小春(ゆうじょこはる)と紙屋治兵衛(かみやじへえ)。2人の足跡へ思いをはせれば、300年の時を越えて、近松が描いた作品世界が身近に感じられることでしょう。

「道行名残の橋づくし」概要

「道行名残の橋づくし」には、全部で12の橋の名前が登場します。

大坂は、「八百八橋(はっぴゃくやばし)」と言われるほど橋の多い町でした。
近松は、心中に向かう2人の道のりを表現するために、道すじに架かる橋を順番に登場させたのです。

「橋」は、あの世とこの世を結ぶものの象徴とも言えます。近松は橋の名前を示すことで道のりを表現しながら、死に向かう2人の心情を、豊かに書き上げているのです。

場所名よみがな・タイトル一覧

場所 〈中級編〉 舞台を訪ねる 〈上級編〉 原文にふれる

梅田橋うめだばし

菅原道真の伝説と橋

緑橋みどりばし

桜橋さくらばし

曽根崎橋そねざきばし

蜆川しじみがわ

埋め立てられた蜆川

曽根崎新地そねざきしんち

曽根崎新地の今と昔

堂島新地どうじましんち

蜆橋しじみばし

大江橋おおえばし

重要文化財 大江橋

難波小橋なにわこばし

舟入橋ふないりばし

鍋島藩屋敷内の舟入橋

難波橋なにわばし

堀川の橋ほりかわのはし

天神橋てんじんばし

天神さんのおひざもと
天神橋

治兵衛の家じへえのいえ

天満橋てんまばし

天満橋の今と昔 橋の名から
連想する死

京橋きょうばし

大坂城のすぐ北 京橋

御成橋おなりばし

網島あみじま

2人の歩いた距離

大長寺だいちょうじ

移転した大長寺と山門

道行名残の橋づくし(原文)

走り書き、謡(うたい)の本は近衛流(このえりゅう)。野郎帽子(やろうぼうし)は若紫。悪所(あくしょ)狂いの身の果ては、かく成り行くと定まりし、釈迦の教えもあることか、見たし憂き身の因果経。
明日は世上の言種(ことぐさ)に、紙屋治兵衛が心中と、あだ名散り行く桜木に、根ほり葉ほりを絵草子の、版摺る紙のその中に、あるとも知らぬ死神に、誘われ行くも商売に、うとき報いと観念も、とすれば心ひかされて、歩み悩むぞ道理なる。
頃は十月、十五夜の月にも見えぬ身の上は、心の闇のしるしかや。今置く霜は明日消ゆる、はかなきたとえのそれよりも、先へ消え行く閨(ねや)の内、愛し可愛(かわい)と締めて寝し、移り香も何と流れの蜆川、西に見て朝夕渡るこの橋の、天神橋はその昔、菅丞相(かんしょうじょう)と申せし時、筑紫(つくし)へ流され給いしに、君を慕いて大宰府へ、たった一飛び梅田橋
跡追い松の緑橋、別れを嘆き悲しみて、跡に焦がるる桜橋。今に話を聞き渡る、一首の歌の御威徳(おんいとく)。かかる尊き荒神(あらがみ)の、氏子(うじこ)と生まれし身をもちて、そなたも殺し我も死ぬ、元はと問えば分別の、あのいたいけな貝殻に、一杯もなき蜆橋。短き物は我々が、この世の住まい秋の日よ。
十九と二十八年の、今日の今宵を限りにて、二人の命の捨て所。爺(じい)と婆(ばば)との末までも、まめで添わんと契りしに、丸三年も馴染まいで、この災難に大江橋
あれ見や難波小橋から、舟入橋の浜伝い。これまで来れば来る程は、冥途の道が近付くと、嘆けば女も縋(すが)り寄り、もうこの道が冥途かと、見交わす顔も見えぬ程、落つる涙に堀川の、橋も水にやひたるらん。
北へ歩めば我が宿を、一目に見るも見返らず、子供のゆくえ女房の、哀れも胸に押し包み、南へ渡る橋柱。数も限らぬ家々を、いかに名付けて八軒屋。誰と伏見の下り舟、着かぬ内にと道急ぐ、この世を捨てて行く身には、聞くも恐ろし天満橋
淀と大和の二川を、一つ流れの大川や。水と魚とは連れて行く、我も小春と二人連れ。一つ刃の三瀬川、手向けの水に請けたやな。何か嘆かんこの世でこそは添わずとも、未来は言うに及ばず、今度の今度の、ずっと今度のその先の世までも夫婦ぞや。
一つ蓮(はちす)の頼みには、一夏(いちげ)に一部夏書(げがき)せし、大慈大悲(だいじだいひ)の普門品(ふもんぼん)。妙法蓮華京橋を、越ゆれば至る彼の岸の、玉の台(うてな)にのりをえて、仏の姿に身をなり橋
衆生済度(しゅじょうさいど)がままならば、流れの人のこの後は、絶えて心中せぬように、守りたいぞと及びなき、願いも世上の世迷言(よまいごと)、思いやられて哀れなり。
野田の入江の水煙、山の端(は)白くほのぼのと、あれ寺々の鐘の声こうこう、こうしていつまでか、とても長らえ果てぬ身を、最期急がんこなたへと、手に百八の玉の緒を、涙の玉に繰り混ぜて、南無網島の大長寺。藪(やぶ)の外面(そとも)のいさら川、流れみなぎる樋(ひ)の上を、最期所と着きにける。

舞台を訪ねる「曽根崎新地の今と昔」

蜆川(しじみがわ)の北に広がる曽根崎新地。
小春が遊女をしていた頃、ここは遊郭(ゆうかく)が建ち並ぶ新興の歓楽街でした。

300年を経た現在、曽根崎新地の辺りは「北新地(きたしんち)」とよばれています。小春と治兵衛が生きた時代に始まり、今もなお大阪の有名な繁華街のひとつとして知られる地域です。

舞台を訪ねる「埋め立てられた蜆川」

江戸時代には、商業地として発展する堂島新地(どうじましんち)と、歓楽街の曽根崎新地(そねざきしんち)を、蜆川が二分していました。心中の日、小春は蜆川の南にあった大和屋をこっそり抜け出します。そして外で待ち受けていた治兵衛と落ち合い、川沿いを東へ歩んだのです。

現在、蜆川は埋め立てられ、その姿を見ることはできません。2人の足跡は、四つ橋筋(よつばしすじ)沿いに立つ「元櫻橋南詰の碑」、そして御堂筋(みどうすじ)沿いのビル側面に埋められた「蜆川跡の碑」と「しじみはしの碑」に残っています。

蜆川は、明治45年(1912年)と大正13年(1924年)、2回に分けて埋め立てられたようです。「元櫻橋南詰の碑」の側面には、「明治四十二年七月三十一日 北区大火にて焼失す」と記されています。「北の大火」と呼ばれるこの火災は、北区を焼き尽くすほど大きな被害を生んだといいます。その復興の過程で、蜆川は姿を消したのでしょうか。

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舞台を訪ねる「重要文化財 大江橋」

大江橋は現在でも交通の要所です。大阪の目抜き通りである御堂筋(みどうすじ)に位置し、橋を横切るように高速道路(阪神高速1号環状線)が走っています。

昭和10年(1935年)に現在の姿に建て替えられてから、外観がほぼ変わらないまま70年以上が経過しています。このことから平成20年(2008年)には、国の重要文化財に指定されました。

しかし昭和10年(1935年)といえば、作品の中で小春と治兵衛が大江橋を通ってから、およそ200年も後のこと。2人の生きた時代がどれほど昔であったかを考えると、重要文化財・大江橋も新しく見えてくるものですね。

舞台を訪ねる「鍋島藩屋敷内の舟入橋」

2人の歩いた大川沿いに、鍋島藩の蔵屋敷が建っていました。舟入橋は、屋敷の用水路に架かる橋だったといわれています。地図に「舟入橋」の名はありませんが、「鍋島」の文字は見て取ることができますので、この辺りにあったのでしょう。

現在に目を向けてみると、屋敷のあった場所には、大阪高等裁判所が建っています。用水路はなく、橋が架かっていた正確な場所も分かりません。

しかし裁判所正門の向かい側、大川のほとりには「船入橋の顕彰碑」が残っており、近松が「名残の橋」として書き残していることが記されています。

舞台を訪ねる「天神さんのおひざもと 天神橋」

天神橋は、大阪を代表する橋のひとつです。橋のすぐ北には、「天神さん」の名で親しまれる大阪天満宮(おおさかてんまんぐう)があります。天神橋の名も、その参詣道に架かるところから付けられたということです。

江戸時代の天神橋は、当時としては最大級の橋で、幕府が直轄管理する公儀橋(こうぎばし)のひとつでした。大坂の市街地を流れる大川には、同じく公儀橋である難波橋(なにわばし)・天満橋(てんまばし)があります。場所がら、町人の生活に密接に関わるこの3本の橋は人々に親しまれ、「浪華(なにわ)の三大橋(さんだいきょう)」と称されました。

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舞台を訪ねる「天満橋の今と昔」

天満橋は、「浪華(なにわ)の三大橋(さんだいきょう)」のひとつです。

現在、橋の上からは、ビルが建ち並ぶ様子しか見えません。しかし江戸時代に描かれた天満橋の絵を見ると、大坂城(おおさかじょう)が描き込まれています。高層ビルのない時代、橋の上からはお城が間近に見えたのでしょうか。

江戸時代には、天満橋の南にさまざまな役所があり、橋の北には役所の倉庫などが並んでいたといいます。この橋は役人たちが仕事で多く通る橋だったのでしょう。
現在も橋の南には、大阪府庁など公の施設が多く建ち並んでいます。

舞台を訪ねる「大坂城のすぐ北 京橋」

江戸時代の京橋は、大坂城のすぐ北に位置する重要な橋でした。そのため、幕府が直轄管理する公儀橋(こうぎばし)のひとつだったのです。

京橋は現在も同じ場所に架かっており、今でも、大阪城の北西に位置する入口には「京橋口」の名が残っています。

天神橋(てんじんばし)や天満橋(てんまばし)と比べると、さほど大きな橋ではありません。橋の幅も長さもこぢんまりとしていて、橋の下をのぞいてみると、川もすぐ目の前を流れています。
作品の中で、小春と治兵衛はお経を心に浮かべながら橋を渡り、渡った先はもう浄土だと言っています。近松は、手を伸ばせば届くような向こう岸までの距離感を、死への距離と重ねて表現したのでしょうか。

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舞台を訪ねる「移転した大長寺と山門」

小春と治兵衛が心中した大長寺は、その後移転してしまい、跡地には藤田美術館(ふじたびじゅつかん)が建てられています。
美術館前に広がる大阪市立藤田邸跡公園(ふじたていあとこうえん)の入口には、江戸時代からの姿を留めると言われる「旧大長寺山門(きゅうだいちょうじさんもん)」があります。小春と治兵衛がくぐったのは、この山門だったのでしょうか。

現在の大長寺は、300mほど北に移転しています。小春と治兵衛の比翼塚(ひよくづか・心中で亡くなった男女を祀る塚)があるほか、2人の遺書と言われるものも寺宝として残されています。

舞台を訪ねる「2人の歩いた距離」

小春と治兵衛は、どのくらいの時間をかけて網島(あみじま)の大長寺にたどり着いたのでしょうか。
地図上でみてみると、2人が歩いた距離は6km程度と推察されます。大人の足ならば、1時間半ほどあれば到着してしまう距離です。
それでは、作品の中ではどうだったのでしょう。「道行名残の橋づくし」の前後の場面から時間のヒントを探してみます。すると、2人が出発したのは午前2時から4時頃で、大長寺に到着する頃には空が白みかけ、心中前に悲嘆に暮れていると午前6時を知らせる鐘が鳴っています。
ここからかかった時間を想像すると、2時間から3時間ほどでしょうか。この世に名残を惜しみながら、人目を避けて忍ぶように網島を目指す2人の姿が想像できます。

小春と治兵衛の「名残の橋」は、今も形を変えながら、大阪に息づいています。
2人の足跡を探しながらゆっくり街を歩いてみると、近松の描いた「道行名残の橋づくし」の世界が、より身近に感じられることでしょう。

「菅原道真の伝説と橋」

江戸時代の浄瑠璃(じょうるり)は、人々にとって非常に身近な存在でした。言葉遊びや連想が盛り込まれ、詞を憶えて口ずさむこともあったといいます。
例えば、近松は作品の中で、蜆川(しじみがわ)に架かる梅田橋(うめだばし)・緑橋(みどりばし)・桜橋(さくらばし)を、菅原道真の伝説になぞらえて紹介しています。

くろまる梅田橋...
君を慕いて大宰府へたった一飛び梅田橋
くろまる緑橋 ...
跡追い松の緑橋
くろまる桜橋 ...
別れを嘆き悲しみて跡に焦がるる桜橋

菅原道真の伝説とは、道真が大宰府(だざいふ)へ流される際、主人を想うあまりに大宰府まで飛んでいったという「飛梅」の伝説、同じく道真を慕って空を飛んだ「追松」の伝説、そして悲しみのあまり葉を落として枯れてしまったという桜の伝説です。
ただ名前から伝説を連想させるという「言葉遊び」に終わらない点が、近松の筆の豊かさといえます。道真との別れを悲しむ木々を登場させることで、死にゆく2人がこの世に名残を惜しむ心情を、切々と表現しているのです。

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「橋の名前から連想する死 」

ひとつの言葉にふたつ以上の意味を持たせることを「掛け言葉(かけことば)」といい、江戸時代には浄瑠璃(じょうるり)の中で、言葉遊びのひとつとして楽しまれていました。
例えば、作品の中で「天満橋(てんまばし)」「京橋(きょうばし)」「御成橋(おなりばし)」は以下のように紹介されています。

くろまる天満橋...
この世を捨てて行く身には聞くもおそろし天満(天魔)橋
くろまる京橋 ...
大慈大悲の普門品妙法蓮華経(京)橋
くろまる御成橋...
仏の姿に身をなり(御成)橋

近松は「掛け言葉」を用いて、3本の橋それぞれの名前に、天の魔物(天満橋)や、お経(京橋)、仏の姿になる(御成橋)...など、巧みにふたつの意味を持たせて文章を作りました。
注目すべきは、近松が3本の橋の名前に、死のイメージを付け加えている点です。これらの橋は、2人の心中場所である大長寺(だいちょうじ)のすぐ近くにあるのです。近松は、死の世界を連想させる言葉を選ぶことで、2人の心が現世を離れ、徐々にあの世に向かっていく様子を描き出しました。
単なる「掛け言葉」の面白みだけではなく、物語の展開をうまく取り入れたところに、近松の作家としての力量を感じることができます。

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