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大和川・吉野川歴史年表

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大和川・吉野川歴史年表


-治水・利水・環境-

時代 日本史 大和川 吉野川(紀の川)
治水 利水・環境 治水 利水・環境
300万年前

くろまる古奈良湖の出現。




200万年前

くろまる二上山麓の地すべりで、旧大和川がせき止められ、現亀の瀬付近より大阪平野へ流れ出る。

亀の瀬付近
(亀の瀬付近)

100〜150
万年前


くろまる古瀬田川を通って古奈良湖に流れ込んでいた古琵琶湖の水が、地殻変動によって淀川へと流れを変える。



2〜1万年前

くろまる二上山の山麓で、人々が生活を始める。



縄文時代
(1万年前〜)

239年
邪馬台国の女王卑弥呼が魏に使いを送る。




くろまる宮の平(川上)や宮滝(吉野)などで、縄文期の遺跡が発見されており、吉野川河岸近くで人々の生活が始まったことがうかがえる。

弥生時代
(B.C.8世紀〜
3世紀)


くろまる唐古遺跡の弥生土器に、舟をあやつる人物が描かれる。
また、ハマグリやアワビなどの外洋性の貝殻も発掘され、大和川を通じて大阪湾まで漁に出ていたことがうかがえる。


宮滝遺跡
(宮滝遺跡)
古墳時代
(3世紀〜)





飛鳥時代
(6〜8世紀)

593年
聖徳太子が推古天皇の摂政となる。

645年
大化の
改新
652年
班田
収授法

672年
壬申の乱

694年
藤原京
遷都

くろまる亀の瀬に集まるように流れていた大和川で、条里制に沿った河道に付け替える工事が始まる。

608年
遣隋使小野妹子を送ってきた裴世清ら一行は、難波津から舟で大和川をさかのぼり、初瀬川から海柘榴市に上陸し、飛鳥小墾田宮へと至った。

くろまる藤原京から初瀬川、佐保川を経由して平城京造営を行う様子を詠んだ万葉集に「わが行く川の川隈の八十隈おちず」とあり、川が数多く曲がりくねっていたことがうかがえる。

くろまる同じく万葉集に「四の船、船の舳並べ」とあり、この頃の大和川の水量の多さがうかがえる。


くろまる記紀の神武記には「吉野川に梁をうって魚を取る人あり。誰かと問えば、阿陀の鵜飼の祖と答えた。」という記述があり、現五條市阿田付近の吉野川で、梁漁や鵜飼の漁法が行われていたことがうかがえる。

くろまる持統天皇が計34回、「吉野宮」(宮滝付近)への行幸を行う。

奈良時代

くろまる藤原京・平城の造営、東大寺の建立、人口増加に伴う開発など山地が荒廃し、自然河道の埋没が激しくなる。
718年
養老律令によって、治水に関する法令がでる。

くろまる平城京朱雀大路の出口(羅城門付近)を佐保川につなげ、人や物資の流れに大和川の水運を利用する。



平安時代

794年
平安遷都

くろまる飛鳥川、葛城川が付け替えられる。

くろまる初瀬川が付け替えられる。(1186年以前)




鎌倉時代

1192年
源頼朝が
鎌倉幕府を開く





室町時代

1341年
足利尊氏が室町幕府を開く

くろまる富雄川が付け替えられる。(15世紀頃)


1459年
東大寺法花堂要録に「吉野川大水風で死者350人」と記録あり。


安土・
桃山時代
1590年
豊臣秀吉の
天下統一

くろまる郡山城築城により、秋篠川(大橋川)を奈良口のところで東に曲げ、佐保川に合流させる。廃川は城の外堀となる。

1600年
片桐且元が角倉与一の協力を得て、亀の瀬岩盤を開削し、上流に魚梁船(やなぶね)、下流に柏原船や剣先船が行き来するようになる。



江戸時代

1603年
徳川家康が江戸幕府を開く

1867年
大政奉還

くろまる片桐氏の築城により、竜田川の付け替えを行い、ほぼ真っ直ぐ大和川に注ぐ現在の形となる。

1703年
幕府は、洪水対策のため大和川水路修治の令を発し、1704年現柏原市付近で付け替え工事が始まる。8ヶ月足らずで完成し、新大和川は現堺市付近で大阪湾に注ぐ。

くろまる奈良盆地のため池の半数は、この頃築造される。

1707年
7月の洪水で上市村が右岸と左岸に二分される。

1631年
紀州藩から運搬用の川上舟が橋本以東(大和国)にに上がることを禁じられる。
1689年
『宇智郡五條村船之覚』によると、五條・橋本を往還する川上舟が19艘あったが、やはり帰り荷は積めなかった。
(大正初期頃まで続く。)
1691年
この年に発刊された『吉野山独案内』に、吉野川の妹背山付近で鵜飼が行われている挿絵が紹介されている。
くろまる上流部は川幅が狭いため、慶長年間までは管流しといって1本ずつ流す方法がとられていた。その後、木材流送路の改修が進み、宝暦年間(1751〜1764)には、再奥の入之波からの筏の流通が可能になった。

明治 1868年
明治維新


1894年
日清戦争

1904年
日露戦争

1872年
橋本から五條への上りの川船遡行は一切禁止される。
1892年
大阪鉄道の開通で、奈良・大阪間の物資交流は鉄道主体となり、魚梁船は衰退する。

くろまる水稲作付けの増大により、奈良盆地では再びため池が多く築造される。

1896年
8月、暴風雨による大洪水で五條町の百軒堤が決壊し被害を出す。










(吉野川の筏流し)
大正




昭和

1945年
第2次
世界大戦
終わる











1977年
天理ダムの本体工事完成
1982年
台風10号と低気圧による豪雨で、王寺町葛下川など氾濫する。
王寺町の浸水
(王寺町の浸水)
1987年
初瀬ダムの本体工事完成

1956年
試験通水で吉野川の水が初めて奈良盆地に流れる。
下渕頭首工
(下渕頭首工)
1987年
吉野川分水が完成し、農業用水や水道水が奈良盆地に引き込まれる。

1959年
伊勢湾台風で吉野川流域大きな被害を受ける
東吉野村小川
(東吉野村小川)
1982年
台風10号と低気圧による豪雨で、西吉野村やなせ地区の大規模地滑りで丹生川がせき止められる。

くろまる昭和初年頃までには、本流を下る筏は年間5000筋あったといわれるが、戦後、木材の輸送はトラックや鉄道に代わり、やがて筏流しは消える。
1960年頃
牧の渡し、黒駒の渡しがこの頃まで五條市で運営されていた。
1962年
津風呂ダムが竣工する。

1973年
大迫ダムが竣工する。

1987年
吉野川分水が完成する。

平成

1995年
白川ダムの本体工事完成
2006年
岩井川ダムの本体工事完成


2003年
大滝ダムの本体工事完成



【参考図書】

くろまる『大和吉野川の自然学』 御所久右衛門・編著
くろまる『定本紀ノ川・吉野川』 中野榮治・監修
くろまる『紀の川-水の歴史街道-』 紀の川水の歴史街道編纂委員会

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