2023年6月9日金曜日
【別冊シーサイドももち】〈040〉映える写真が撮りたい!~百道とカメラとモデルの雑史~
埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。
この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。
本についてはコチラ。
この連載では「別冊 シーサイドももち」と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。
過去の記事はコチラ。
第2回 (「ダンスフロアでボンダンス」)
第3回 (「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)
第4回(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)
第5回(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)
第6回(「最も危険な〝遊具〟」)
第7回(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)
第8回 (「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)
第9回(「グルメワールド よかトピア」)
第10回(「元寇防塁と幻の護国神社」)
第11回(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)
第12回(「百道地蔵に込められた祈り」)
第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)
第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)
第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)
第16回(「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)
第17回(「百道にできた「村」(村の生活編)」)
第18回(「天神に引っ越したよかトピア 天神中央公園の「飛翔」」)
第19回(「西新と愛宕の競馬場の話。」)
第20回(「よかトピア爆破事件 「警視庁捜査第8班(ゴリラ)」現る」)
第21回(「博多湾もよかトピア オーシャンライナーでようこそ」)
第22回(「福岡市のリゾート開発はじまりの地?」)
第23回 (「ヤップカヌーの大冒険 よかトピアへ向けて太平洋5000キロの旅」)
第24回 (「戦後の水事情と海水浴場の浅からぬ関係」)
第25回 (「よかトピアへセーリング! オークランド~福岡・ヤマハカップヨットレース1989」)
第26回 (「本づくりの裏側 ~『シーサイドももち』大解剖~」)
第27回 (「開局!よかトピアFM(その3)今日のゲスト 3~4月」)
第28回 (「まだまだあった! 幻の百道開発史」)
第29回 (「開局!よかトピアFM(その4)今日のゲスト 5~6月」)
〈040〉映える写真が撮りたい!~百道とカメラとモデルの雑史~
いま、SNSなどで「シーサイドももち」と検索すると、さまざまな「撮影会」の様子がヒットします。
撮影対象は、夕陽や夜景など海辺のステキな風景はもちろんですが、それよりも多いのはモデルさんやコスプレイヤーさん、インスタグラマーさんたち。ももちの砂浜やマリゾン、タワー周辺などを背景にした写真がたくさんアップされています。
今回は、そうした百道と写真とその周辺にまつわるこぼれ話をお届けします。
* * * * * * * *
アマチュアカメラマンと百道
海辺が格好の撮影場所であるのは今も昔も変わりません。
現在は埋立地として人工海浜となっているももちの海辺ですが、かつては現在の「よかトピア通り」あたりに海岸線があり、一帯は夏になると「百道海水浴場」として、市内外の人々が集まる場所でした。
百道海水浴場は大正7(1918)年から昭和49(1974)年まであった海水浴場ですが、夏になるとさまざまなイベントが開催されており、そのうちの一つに「写真撮影会」がありました。
写真(カメラ)自体は明治時代から日本にもありましたが、より一般の人が趣味として楽しみ始めたのは1920~30年代。大正~昭和一桁の頃でした。この時、2020年に惜しまれつつ廃刊となったカメラ雑誌『アサヒカメラ』が創刊されています(1926〈大正15〉年4月)。
現在のようにデジカメやスマホで手軽に写真が撮れる時代ではありません。もちろんフィルムカメラですし、カメラ本体もフィルムも大変高価なものでした。
どうせ撮るなら「良い場所」で「良い被写体」を撮りたいと思うのが人情。
そこで、百道海水浴場を舞台にしたアマチュアカメラマンのための「撮影会」が開かれるようになりました。
詳細な記録がないので正確なところは分かりませんが、新聞記事に現れる百道の最初の撮影会は、昭和2(1927)年。主催は「写真同好倶楽部」という団体で、百道海水浴場を運営していた福岡日日新聞社(現在の西日本新聞社の前身の一つ)が後援となっています。
これは撮影会というよりもアマチュアカメラマンのための講習会で、5日間にわたって行われました。内容は大学の工学部の教授などを数名招いての講義、そして百道での実地撮影、現像や焼き付け、引き伸ばし技術などを学びました。
さらに百道海水浴場裏手の松原内には「完全なる暗室」を設け、撮影して即現像できるようにしたという、大がかりなものでした。講習後には作品の展覧会も行われたそうなので、当時の愛好家にとっては大変貴重な機会となったことでしょう(昭和2年7月31日『福岡日日新聞』朝刊3面「写真技術講習会」より)。
福岡日日新聞社ではほかにも昭和9(1934)年から「新興商業写真懸賞」というコンクールを実施していて、カメラの世界では「新興写真」という凝った構図や二度焼きなどの加工技術を駆使した芸術写真も注目されていました。
このような芸術性を重視した写真を撮るのが、当時のアマチュアカメラマンの中では最先端とされていたんですね。これらの写真はどちらかというと対象(状況)よりも技術がメインだったようです。
モデルたちと百道
戦後の海水浴場では撮影対象としての「モデル」という職業の人たち、そしてそのモデルを生んだ「ミス・コンテスト」が登場します。
いわゆる「美人コンテスト」と呼ばれる審査会の最初は、明治24(1891)年に浅草「凌雲閣」(通称、浅草十二階)で開催されたといわれていて、これは「芸妓百人の写真を審査する」というものだったといいます。
当初、美人コンテストは昭和になるまで主に芸妓さんやカフェーの女給さんを対象としており、しかも写真による審査だったそうです。この時は、ブロマイドのように参加者の写真を写真館で撮影するというものでした。
昭和になると「ミス東京」や「ミス大阪」といった都市の名前を冠したコンテストも増えていき、参加者にも一般の女性が現れ、審査も写真だけでなく実際に参加者を集めて行われるようになりました。
昭和25年に読売新聞社主催で行われた「ミス日本」では、全国12の都市から集められた「ミス」たちから1位を選ぶというもので、この時優勝したのが女優の山本富士子さんであることは有名な話です。
福岡市からも「ミス福岡」が選ばれたようですが、宣伝がうまくいかず40人ほどしか集まらなかったそうです。それだけ「ミスコンテスト」の認知度(人気度)はまだ低かったということかもしれません。
そして昭和28(1953)年、画期が訪れます。
アメリカ、カリフォルニア州のロングビーチ市という海辺のリゾート地で開催されたミス・ユニバース世界大会で、ファッションモデルの伊東絹子さんが第3位に入賞する快挙を果たしました。
伊東絹子さんは160㎝以上と当時の日本人からすると長身で、顔が小さくて背が高い「八頭身」という言葉は当時の流行となったほどでした。
東京ではある映画館の前に彼女の前身の型をくり抜いた立て看板「美人測定器」なるものが登場。八頭身の穴がくぐれるか試すもので、「これをくぐれれば、あなたも八頭身美人!」ということで、映画の招待券がプレゼントされました。
伊東絹子さんの快挙は敗戦後の日本人にとって「日本人でも世界で通用するんだ!」という勇気を与えるものだったのでしょう。
これを機に「ファッションモデル」という職業が一般にも認知されるようになりました。
「モデル」は新しい女性の職業として地方都市にも広まりました。昭和29年7月の新聞には福岡にもモデル事務所ができたという記事が見られ、そこには彼女たちの日々の訓練の様子が書かれていました(事務所の詳細については不明…)。
「(略)海岸に出かけても八頭身維持のためには『アン、ドウ、トロァ』と美容体操ののち、あれこれポーズの研究に骨身をけずる。お膚(はだ)が荒れては大変とうっかり水にも入れない窮屈さだが、苦あれば楽あり、やがてさっそうとフロアに立ち、ご婦人方の熱い視線とタメ息を満身に浴びながら〝おしゃれ地獄〟に追いこみ、涼しげにほおえんでいられようというもの。(略)」
(昭和29年7月17日『西日本新聞』朝刊8面)
さらに記事では「運のよい人なら出くわして目の保養ができる。百道海岸にひろった今年の夏の新風景」と結んでいます(今だとやや問題になりそうな表現ですが)。
ですが彼女らはそんな男性からの好奇の目のためにがんばるのではなく、「ご婦人方の熱い視線とタメ息を満身に」浴びる日を夢見て特訓していたようです。これはいまとあまり変わらない感覚なのかもしれませんね。
その後、「ミスコン」や「モデル」が一般に浸透してきた昭和30年代には、百道でも「海の女王コンテスト」と名付けたミスコンテストが開催されるようになります。この頃には参加者も増えていき、海の女王は百道の夏の風物詩となったのでした。
* * * * * * * *
いかがだったでしょうか。
百道の浜辺(現在は人口海浜ですが)は今も昔もカメラマンにとってもモデルにとっても、その環境は「映える」ことができる舞台装置として使われていたようです。
【参考文献】
・井上章一『美人コンテスト百年史 芸妓の時代から美少女まで』(新潮社、1992年)
・福岡市史編集委員会編『新修 福岡市史 特別編 活字メディアの時代―近代福岡の印刷と出版』(福岡市、2017年)
・昭和2年7月31日『福岡日日新聞』朝刊3面「写真技術講習会」
・昭和29年7月17日『西日本新聞』朝刊8面「楽でない八頭身維持 曲線美が生命のファッション・モデル」
#シーサイドももち #百道海水浴場 #カメラマン #写真撮影 #モデル #映える写真が撮りたい!
[Written by かみね/illustration by ピー・アンド・エル]
※2023年6月9日に公開した記事ですが、一部加筆しました(2023年6月13日)。
2023年6月7日水曜日
Explore the Charms of Ancient Earthenware Vessels
- How our ancestors made, used and carried them
March 28th (Tue.) ~ June 11th (Sun.), 2023
Feature Exhibition Room 4
Earthenware pieces are the most recovered artifacts through excavation and the focus of archeological research.
These relics and remains act as a standard to estimate the age of archaeological sites. In exhibitions, earthenware vessels tend to be overshadowed by other eye-catching exhibits such as rare metalware or beautiful accessories. Visitors may think “earthenware is plain and inconspicuous.” We may also hear a voice telling us “What's the fun in looking at earthenware?”
However, if you observe pottery closely, it gives an insight into how ancient people made, used and carried them, and excites us. We really would love to share this point of view with YOU!
This exhibition introduces eye-opening new perspectives on earthenware, so you can enjoy it in a new light. You may even learn and interpret a little about how archeologists observe artifacts.
2023年6月2日金曜日
【別冊シーサイドももち】〈039〉「地球をころがせ」を踊ってみた ―「よかトピア」オリジナル音頭―
埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。
この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。
本についてはコチラ。
この連載では「別冊 シーサイドももち」と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。
過去の記事はコチラ。
第2回 (「ダンスフロアでボンダンス」)
第3回 (「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)
第4回(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)
第5回(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)
第6回(「最も危険な〝遊具〟」)
第7回(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)
第8回 (「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)
第9回(「グルメワールド よかトピア」)
第10回(「元寇防塁と幻の護国神社」)
第11回(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)
第12回(「百道地蔵に込められた祈り」)
第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)
第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)
第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)
第16回(「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)
第17回(「百道にできた「村」(村の生活編)」)
第18回(「天神に引っ越したよかトピア 天神中央公園の「飛翔」」)
第19回(「西新と愛宕の競馬場の話。」)
第20回(「よかトピア爆破事件 「警視庁捜査第8班(ゴリラ)」現る」)
第21回(「博多湾もよかトピア オーシャンライナーでようこそ」)
第22回(「福岡市のリゾート開発はじまりの地?」)
第23回 (「ヤップカヌーの大冒険 よかトピアへ向けて太平洋5000キロの旅」)
第24回 (「戦後の水事情と海水浴場の浅からぬ関係」)
第25回 (「よかトピアへセーリング! オークランド~福岡・ヤマハカップヨットレース1989」)
第26回 (「本づくりの裏側 ~『シーサイドももち』大解剖~」)
第27回 (「開局!よかトピアFM(その3)今日のゲスト 3~4月」)
第28回 (「まだまだあった! 幻の百道開発史」)
第29回 (「開局!よかトピアFM(その4)今日のゲスト 5~6月」)
〈039〉「地球をころがせ」を踊ってみた ―「よかトピア」オリジナル音頭―
福岡市ではじめて盆踊り大会が開かれたという百道。昭和の音頭ブームにのって、かつての百道海水浴場はさながらダンスフロアのようなにぎわいでした(→〈002〉「ダンスフロアでボンダンス」 )。
埋め立て地のシーサイドももちは、この百道海水浴場の楽しかった思い出を詰め込んでつくられています(そのあたりの事情は『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』をご覧ください)。
シーサイドももちでの最初のイベントが「アジア太平洋博覧会(よかトピア)」(1989年3月17日~9月3日)だったのですが、このよかトピアでもオリジナルの音頭がつくられていたようなのです。
音頭のタイトルは『地球をころがせ』。ちょっと気になったので、今回調べてみました。
1986年10月6日、よかトピアの開催に向けて博覧会オリジナルの音頭をつくろうと、その歌詞が一般募集されました。公募の主催は、博覧会をおこなう財団法人アジア太平洋博覧会協会。後援はCBSソニーでした。
募集資格は「博覧会の趣旨にふさわしい、親しみのある歌詞」で未発表のものであれば、「どなたでも、ふるってご応募ください」(1人3点まで応募可)というシンプルなもの。B4の400字詰め原稿用紙に楷書で書くように指示されているのみですので(手書きというのが懐かしいですね)、特に字数制限もなかったようです。
公募にあたっては、入選作1点には30万円、佳作2点には5万円ずつの賞金を、さらには応募者全員に博覧会の記念品を贈るとのこと(ただし入選作の著作権は主催者に帰属)。締め切りは同年12月15日(当日消印有効)でした。
結果、494人(604点)の応募がありました。これらの応募作品について、12月22日・1月14日の2次にわたって審査がおこなわれています。審査員には豪華なメンバーが名を連ねていました。
(審査員)
・伊藤邦輔さん(コマ・スタジアム社長)
・遠藤実さん(作曲家)
・土屋信郎さん(CBSソニープロデューサー)
・夏樹静子さん(作家)
・原田種夫さん(福岡文化連盟理事長)
この公募で見事入選した作品が、鹿児島県から応募された方の『地球をころがせ』でした。
その歌詞は、メロディーの譜面と一緒に『アジア太平洋博覧会―福岡'89 公式記録』(P108)で見ることができます。3番まである歌詞は、よかトピアのテーマ「であい」を、心地よい七五調で歌ったもの。博覧会で出逢った人々が、夢や明日に向かって声をかけあい、地球をころがしていこうという内容が、みんなで踊る音頭にはぴったりです(ただし、この歌詞は入選作品に作詞家のいではくさんが補作詞をほどこしたもの)。
さっそく審査員でもあった遠藤実さんがこれに曲をつけ、3月10日に祭小春さんが歌をレコーディング。さらには4月7日に花柳糸之さんが振り付けをおこなうという、みなさんの急ピッチなお仕事ぶりで、お披露目に向けて着々と準備が進められていきました。
作曲を担当した遠藤実さんは、生涯に5000曲以上をつくられ、ヒット曲を連発した日本歌謡界を代表する作曲家。
島倉千代子さんの『からたち日記』(日本コロムビア、1958年)、舟木一夫さんの『高校三年生』(日本コロムビア、1963年)、山本リンダさんの『こまっちゃうナ』(ミノルフォンレコード、1966年)、森昌子さんの『せんせい』(ミノルフォンレコード、1972年)、渡哲也さんの『くちなしの花』(ポリドール、1973年)、千昌夫さんの『北国の春』(徳間音楽工業、1977年)など、遠藤さんが作曲してヒットした歌は数えきれないほどで、今でも歌い継がれています。
※「ミノルフォンレコード」は1965年に遠藤さんがつくったレコード会社。現在は徳間ジャパンコミュニケーションズに受け継がれています。
『地球をころがせ』を歌った祭小春さんは、福岡市出身の歌手です。
1984年に『命綱』(CBSソニー、作詞・作曲は遠藤実さん。B面は『博多の灯り』)でデビューされ、多くの曲をリリースされてきました。そのなかには『博多舟』(1989年)、『博多しぐれ』(1991年)、『博多の夜』(1994年。B面は『博多おんな気質』)といった福岡ゆかりの歌も含まれています。
1989年によかトピアが開会すると、祭小春さんはたびたび会場を訪れてイベントに出演され、よかトピアの顔のお一人になりました(4月1日「(公開放送番組)RKBよかトピアウィーク」、6月18日「(市制施行100周年記念プログラム)これが博多だ」、7月31日「(NHK公開録画番組)日本のうた ふるさとのうた」など)。
『地球をころがせ』をお披露目した場所は、福岡サンパレスの大ホール。約2300席の大きな会場です。ここで4月19日に開かれた博覧会の2年前イベント「博覧会のつどい」のステージで、満員の観客に向けて発表されました。
その後、よかトピアの会場だけではなく、どんたくや市内各地のお祭りなどでも踊られて、当時は市民によく親しまれた曲だったそうです。
福岡市博物館には、よかトピアのためにつくられた曲のカセットテープ(非売品)が残っていて、これに『地球をころがせ』も収録されていました。
博物館の貴重な収蔵品なので、聴くわけにはいかず残念…。
ちなみにこのカセット、ハイポジでした。
(A面)
『海からのであい』(作詞・歌:武田鉄矢さん、作曲:山本康世さん)
『地球をころがせ』
(B面)
『よかトピア ハイヤ』(作詞:伊藤邦輔さん、作曲:遠藤実さん、歌:祭小春さん)
『よかトピア ホリデー』(作詞:伊藤邦輔さん、作曲:高橋城さん)
カセットのラベルを見ると、カラオケも入っているようです。祭小春さんはB面収録の『よかトピア ハイヤ』も歌っておられました。
ちなみに、A面の『海からのであい』は武田鉄矢さんが自ら作詞して歌った博覧会のテーマソングです。B面の『よかトピア ハイヤ』は九州でなじみのある民謡「ハイヤ節」のリズムを取り入れたもの、もう1つの『よかトピア ホリデー』はサンバ調のダンス曲でした。
※ そのほか、『地球をころがせ』『よかトピア ハイヤ』だけを収めた祭小春さんのシングルカセットもCBSソニーから販売されており(4月22日発売、CBSソニー、10KH2168、1000円)、これも福岡市博物館に収蔵されています。
あわせて今回、この4曲のメロディー譜と歌詞カードも見つけました。
歌詞カードの表紙。
裏表紙には福岡のお菓子メーカー「如水庵」さんの広告が載っています。
こうした曲には制作者それぞれの著作権がありますので、
譜面や歌詞を勝手にブログに載せることはできません…。
いつか機会がありましたら、そのときにぜひ。
このメロディー譜と歌詞カードには、『地球をころがせ』の振り付けをイラストで説明した「振付のしおり」も一緒に入っていました。
(振り付けは花柳糸之さん)
当時『地球をころがせ』を踊った方は、このイラストを見ただけでも、振り付けを懐かしく思い出されるかもしれませんね。
ちょっとこの「振付のしおり」で順番に振り付けを見てみましょう。
(繰り返し踊り始めてからは)右足から3歩進み、4歩目で一足になる。
左足踏み込み、右足前へ。チョンとつきながら、両手を阿波踊りの要領で内側にまいてから、右ななめに上にパッと切り出す(図4)。
同様に反対方向へ(図5)。
図4と図5を繰り返す。
右足より踏み込み、左足を後ろにチョンとつきながら、両手で顔の横をなでおろしてから、右手前、左手後方に手先をあげる。波の間を泳ぐように(図6)。
同様に反対方向へ(図7)。
図6・図7を繰り返す。
右手を胸に抱き、右足を1歩前へ(図8)。
左手を胸に抱き、左足を1歩前へ(図9)。
早い間で、右足より2歩進みながら、両手を膝の上で、手の甲・ひらを返す(図10・図11)。
3歩目に一足となり、両手を前に(図12)。
右足踏み込み、左足前へ。チョンとつきながら、右手を上方より内側へまきおろし、下へおさえる(図13・図14)。
同様に反対方向へ(図15・図16)。
図13~図16を繰り返す。
これで1セット。あとは図2~図16を繰り返して踊るようです。
イラストをざっと繋げて、踊ってみた動画にしてみましょう。
こんな感じ。
なるほど、何となく振りの形は分かりましたが、なにせ「振付のしおり」に載っているイラストと説明文だけを頼りにしたものですので、これで合っているのか、とても怪しいです…(曲の小節数とも合わない気がしています…)。
当時踊ったという方、今も踊っているという方、もしいらっしゃいましたら、ぜひ振り付けを教えてください。
【参考文献】
・『アジア太平洋博ニュース 夢かわら版'89保存版』((株)西日本新聞社・秀巧社印刷(株)・(株)プランニング秀巧社企画編集、(財)アジア太平洋博覧会協会発行、1989年)
・『アジア太平洋博覧会―福岡'89 公式記録』((株)西日本新聞社編集製作、(財)アジア太平洋博覧会協会発行、1990年)
・草場隆『よかトピアから始まったFUKUOKA』(海鳥社、2010年)
・遠藤実記念館公式サイト https://www.minoru-endo.com/
・祭小春プロフィール(所属事務所「ノーリーズン」公式サイト) https://www.noreason.jp/tag/matsurikoharu/
#シーサイドももち #アジア太平洋博覧会 #よかトピア #音頭 #地球をころがせ #遠藤実 #祭小春
[Written by はらださとし/illustration by ピー・アンド・エル]
2023年5月26日金曜日
【別冊シーサイドももち】〈038〉西新町209の謎を解け!~建物からたどるまちの歴史~
埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。
この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。
本についてはコチラ。
この連載では「別冊 シーサイドももち」と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。
過去の記事はコチラ。
第2回 (「ダンスフロアでボンダンス」)
第3回 (「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)
第4回(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)
第5回(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)
第6回(「最も危険な〝遊具〟」)
第7回(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)
第8回 (「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)
第9回(「グルメワールド よかトピア」)
第10回(「元寇防塁と幻の護国神社」)
第11回(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)
第12回(「百道地蔵に込められた祈り」)
第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)
第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)
第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)
第16回(「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)
第17回(「百道にできた「村」(村の生活編)」)
第18回(「天神に引っ越したよかトピア 天神中央公園の「飛翔」」)
第19回(「西新と愛宕の競馬場の話。」)
第20回(「よかトピア爆破事件 「警視庁捜査第8班(ゴリラ)」現る」)
第21回(「博多湾もよかトピア オーシャンライナーでようこそ」)
第22回(「福岡市のリゾート開発はじまりの地?」)
第23回 (「ヤップカヌーの大冒険 よかトピアへ向けて太平洋5000キロの旅」)
第24回 (「戦後の水事情と海水浴場の浅からぬ関係」)
第25回 (「よかトピアへセーリング! オークランド~福岡・ヤマハカップヨットレース1989」)
第26回 (「本づくりの裏側 ~『シーサイドももち』大解剖~」)
第27回 (「開局!よかトピアFM(その3)今日のゲスト 3~4月」)
第28回 (「まだまだあった! 幻の百道開発史」)
第29回 (「開局!よかトピアFM(その4)今日のゲスト 5~6月」)
〈038〉西新町209の謎を解け!~建物からたどるまちの歴史~
前々回のブログで紹介した「百道女子学院」。
それは調須磨(しらべ・すま)という、当時26歳の女性によって西新町につくられた、福岡における女子高等教育の礎となったかもしれないという「幻」の学校でした(〈036〉(「幻の「百道女子学院」と須磨さんの夢」))。
いつ見てもその精悍なまなざしにホレボレします。
さて、その百道女子学院。大正15(1926)年にできた当時の場所を、もう一度おさらいしておきましょう。
西隣は中学修猷館(現 修猷館高等学校)、東隣は移転前の西新尋常小学校、そして北側は西南学院といった各種の学校に囲まれた、今でいうとまさに文教地区のど真ん中(西新小は昭和2年に現在地へ完全移転)。
ちなみに西南学院のさらに北にある不自然なだ円形は競馬場です(詳しくはコチラ→〈019〉西新と愛宕の競馬場の話。)。
現在の地図で言いますと、この辺り。脇山口交差点と西新交差点のちょうど中間辺りですね。
西新のど真ん中ですね。
『調須磨遺稿集』に収録された須磨さんの書簡によれば、学院は「赤煉瓦の建物」だったといいます。
そして同じく『調須磨遺稿集』には、昭和3(1928)年の第2回卒業式の際の記念写真が残されています。
人々の後ろにはたしかにレンガの建物が写っており、これが須磨さんのいう「赤煉瓦の建物」、つまり校舎のようです。確認できるのはほんの一部ですが、その大きさや造りから、かなり立派な建物だということが容易に想像できます。
ところでこの建物を見ていると、一つの疑問が湧いてきます。
こんな立派な建物、いくら各所から支援を受けていたとはいえ、本当に須磨ちゃんたちが建てたのだろうか??
いくら彼女にカリスマ性と才覚があったとはいえ、それはあまりにも現実的ではないように思われます。
そこで、このレンガの建物は一体何なのか、今回はその謎を追ってみることにしました。
【ご注意】ここから長い旅が始まりますが、がんばって行きましょう!٩( ''ω'' )و
* * * * * * *
本当はこうした場所の変遷を調べるには地図から見ていくのが一番分かりやすいのですが、百道女子学院ができる以前(大正15年より前)の地図を確認しようにも、大正12(1923)年に福岡市になったばかりの西新町では、当時の詳細な住宅地図はほとんど見つかりません。
そこで、逆にもっと新しい時代はどうかと調べてみると、この場所は昭和46(1971)年まで西日本鉄道の営業所としてレンガの建物が建っていたことが分かりました(その後も数年間は建物が存在)。
西鉄! レンガの建物!
まず最初のヒントが出てきました。
『西日本鉄道百年史』によれば、この場所を指す「西新町209-2」には、昭和11(1936)年に同社の前身の一つである「福博電車」が本社を置いていたとのこと。
仮にこの時に福博電車が本社としてビルを新築したのであれば、われらが探す百道女子学院があったビルとはまた別の建物ということになります。
まずはここから検証が必要です。
というか、記念写真に写っているビルにやっぱり似てる…。
そこでさっそく西鉄さんに尋ねてみたところ、「福博電車が建てたものではなく、それ以前は〝福岡炭鉱〟という会社の本社建物だったようですよ」との回答が。
福岡炭鉱!!
次のヒントをゲットです。
福岡炭鉱とはもともと「福岡鉱業」という会社で、調べてみると大正3(1914)年に創業した炭鉱会社でした(本社の名義はなんと東京)。
この頃、西新町には「西新町炭坑」や「祖原炭坑」、また姪浜町には「姪浜炭坑」などの炭坑が稼働しており、福岡鉱業はこれらを取り仕切っていた会社だったようです。
創業を報じた新聞記事では同社を次のように紹介しています。
「高津亀太郎、大倉久米馬諸氏を発起に係る福岡鉱業株式会社は(略)採掘鉱区六、試掘鉱区六を買収し(略)目下稼働中の西新町炭坑をも包含し(略)近々西新町炭坑を中心として事業の一大拡張を試みる予定なるが同炭坑の鉱区は東は今川橋、西は姪浜付近に亘り従来の西新町、姪浜炭層以外発見の福岡炭層を開掘せんとするもの(略)」
(大正3年3月13日『福岡日日新聞』朝刊5面より)
これを手がかりに、さらにここから新聞記事を丹念に追っていったところ、ついに重要証拠を発見。
なんとこの福岡鉱業が大正7(1918)年に「西新町に新築の事務所落成」したという記事にたどり着いたのです!
来たーーーーー!!!!!
まずは当たりです。
記事は、大正7(1918)年10月末に開かれた新築祝賀会の様子を次のように伝えています。
「福岡鉱業株式会社にては福岡市外西新町に新築の事務所落成し敷設中の運炭軌道今般竣工せしを以て此を兼ね祝賀会を新築事務所にて開催したり(略)井手福岡市長来賓総代祝辞を述べ川端早良郡長の発声にて万歳を三唱し立食の饗応ありて閉式(略)代賓は三井福岡鉱務署長、君嶋九大教授、高崎鉱政課長、松本三井支店長、川津九鉄重役、古川同技師長、井手市長、川端早良、井手糸島両郡長福岡市内各銀行支店長町村長等五百名に達し盛会なりき」
(大正7年11月1日『福岡日日新聞』朝刊5面)
お、ここで川端早良郡長が登場しましたよ。
こちらは前回もご紹介しましたが、須磨ちゃんの伯父さんに当たり、百道女子学院の経営など須磨ちゃんをいろいろとサポートしていた人物です。
さて、これでレンガビルの建設年が判明しました。
あとはここから百道女子学院が創立するまで約8年の間に、須磨ちゃんたちの学校をこの新築ピカピカのモダンなレンガビルに入居できるよう斡旋した人物がいるはず…。
現時点では一番怪しいのは川端郡長です。町の偉い人ですし、発言力もありそう。でも決め手には欠けます。
何度見てもモダンで立派な建物ですね。
…さて皆さん。
前回からこれまでに紹介してきたいくつかの新聞記事の中に、実は重大なヒントがすでに登場していたことにお気付きでしょうか…?
それは百道女子学院の開校式の様子を報じた大正15(1926)年の記事でした。再掲します。
福岡市西新町に新設した百道女子学院では、十日午前十時から同校にて同院開校式並に新入生入学式を挙行したが、同学院理事川端久五郎氏の開会の辞に次ぎ勅語奉読設立者調道太郎氏の挨拶学院長調須磨子女史の告辞あり。川端理事から帝大女高師等出身の同校職員十数名を紹介し、顧問西川虎次郎中将、白坂修猷館長、高崎烏城氏、西新小学校長其他の祝辞演説あり。閉会後来賓父兄に茶菓の饗があつて来賓は右の外西新町有志其他十数名に達し盛会であつた。尚ほ今回は学年中途の募集にも拘らず新入学生廿数名福岡県を最多とし熊本宮崎等に及んで居る。
(大正15年9月11日『福岡日日新聞』朝刊7面より、句読点の一部は筆者)
ここに「高崎烏城」という人物が登場します。
西川虎次郎や白坂修猷館長、西新小学校長など地元関係者に混じるこの人物、一体何者???
高崎烏城(たかさき・うじょう)は、大正~昭和初期の俳人で、本名を高崎勝文といいます。
明治17(1884)年生まれ、岡山中学校出身で東大法学科に入り、卒業後には鉱務署の官吏(役人)となりました。全国を転々としたのち大正4(1915)年に福岡に落ち着き、大正7(1918)年には役所を辞めて福岡鉱業株式会社の取締役となった人物です。
あ! 福岡鉱業!!
そうです、あのレンガの建物を最初に建てた福岡鉱業の取締役なのでした。
そしてお気付きでしょうか、レンガビル新築祝賀会を報じた大正7年の新聞記事にしれっと登場している「高崎鉱政課長」とは、この高崎勝文のことだったのです。
彼は大正7年12月27日付で役所を退職しているので、恐らくこの祝賀会に参加した10月末の時点ではもう福岡鉱業に転職することが決まっていたのではないかと思います。勝文、なかなかやり手のようです。
さらにこの高崎氏、東大→役人→炭鉱会社の役員とキャリアを積む中で俳句に目覚め、さらには40歳を過ぎて大正14(1925)年に九州帝国大学文科に入学したという、異色の経歴を持っています。
大正14年…九州帝国大学…。
そう、なんと高崎氏は福岡鉱業の役員でもありながら、須磨ちゃんと九大の同期生でもあったのです!
やったーーーーーー!!!!!
これでようやく点と点が繋がりました。
ここから先は明確な資料が見つからなかったので筆者の推理になりますが、九大に入学した烏城は同期の須磨ちゃんの熱い情熱と高い理想を知り、あるいは相談され、自分が関わる会社のビルの一部が使えるよう、手助けをしたのではないでしょうか?
昭和7(1932)年に出版された高崎氏のエッセイ集とでもいうべき著作『身辺細事記』には、九大入学当時に出会った須磨ちゃんについて触れている(と思われる…名前がないので推測ですが)部分があります。新入生と教授陣との茶話会で順番に自己紹介をしている時の一幕です。
「(略)新に入学を許されて、光栄と希望に満ちた女学生の一人が、次に立ち上つた、そして女子大学生の抱負と、希望とを述べて着席した。その人は数年間地方の中等学校の教諭をして居たので、論旨、態度共に堂々たるものであつた。(略)」
希望に満ちあふれた須磨ちゃんとそれを見守る烏城の姿が目に浮かぶようです。
烏城は当時の福岡の俳句界の中心的人物だった吉岡禅寺洞や清原拐童らの指導を受けており、大正14(1925)年頃に結成された九大俳句会では指導にも当たるほどだったといいます。
一方の須磨ちゃんは短歌も嗜みましたので、その辺りの文学的才能からも、もしかしたらお互い通じるところもあったのかもしれません(もはや妄想です)。
もう少し続きます…。
さて一方で肝心のレンガビルや福岡鉱業を取り巻く環境は刻一刻と変化していました。
…と、この辺りの経緯はちょっとややこしいため、ここからは箇条書きで失礼します。
福岡鉱業は資金難に陥り、同じレンガビルに入っていた九州海運株式会社(石炭等の物資輸送会社)などと一緒に帝国炭業株式会社に合併され、帝国炭業福岡鉱業所が西新町のレンガビルに置かれる。この時、高崎勝文は帝国炭業の常務取締役として残留して福岡鉱業所長となり、周辺の炭坑の責任者となる。
大正13(1924)年
福岡鉱業が持っていた姪浜町の炭坑について突然休業を宣言。
帝国炭業福岡鉱業所は所有していた採掘権を高崎個人に譲渡し、福岡周辺の炭坑経営から撤退。
9月、高崎は譲渡された採掘権を持って「福岡炭鉱株式会社」を設立。
高崎の持つ採掘権を福岡炭鉱株式会社に譲渡。
福岡炭鉱株式会社は所有している鉱区を姪浜鉱業に売却(実質的な企業活動停止?)。
※姪浜鉱業は翌年「早良鉱業株式会社」と改称。
2月、前年6月に設立した「矢岳炭鉱株式会社」に高崎など福岡炭鉱の一部役員が合流、本社を西新町のレンガビルに置く(3月5日登記)。
ここまでの数年の間でレンガビルの所有者(入居者)が頻繁に変わっているのが分かります。
ここでちょっと思い出してみましょう。
百道女子学院は大正15(1926)年に西新のモダンなレンガビルの中に創立しましたが、それからわずか3年後の昭和4(1929)年10月1日には西新町の中心部から離れた祖原に移転を余儀なくされています。
なぜこのような年度の中途半端な時期に移転することになったのか? その理由は、これまで見てきた須磨ちゃんの書簡からは分からないままでした。
いずれにしてもこの辺りで何かより大きな変化が起きたのではないか??
そこで、昭和4(1929)年時点での所有者であろう矢岳炭鉱の方を追ってみると、なんとこの年の10月20日、本社がレンガビルのある「西新町209-2」から少し離れた「西新町239」に移転していたのです!
これでようやく最後の謎が解けました。
詳しい事情は分かりませんが、当初からレンガビルに関わっていた高崎勝文の会社は紆余曲折を経ながらも(そして会社自体が変わりながらも)西新町のレンガビルを本社として使い続けてきました。
しかしついにこの昭和4(1929)年10月の時点で、レンガビルを手放したようなのです。
直後ではありませんが、昭和7(1932)年には「野上鉱業合資会社」という直方の炭鉱会社名義で西新町の2階建てレンガビルの売却広告が出されています。
すると当然、その縁故で入居していた(であろう)須磨ちゃんの百道女子学院も、このまま居続けることができるはずはありません。
そして翌5(1930)年、須磨ちゃんは志半ばで他界。
百道女子学院とレンガビルを繋いでいた糸はすっかり消えてしまったというわけでした。
* * * * * * *
…ハイ皆さん、ここまでお疲れさまでした!
2回にわたってお送りした百道女子学院の謎も、これでかなりの部分が解明できました。
とはいえ、須磨ちゃんと烏城の関係や百道女学院が入居していた当時の状況、あるいは他にも入居するテナントがあったのか(文具商や衣類商が入っていた記録もあるようです)、また本体である福岡鉱業(福岡炭鉱)の経営状況など、まだまだ謎は残されています。
これらについては、今後の課題として引き続き調べていきたいと思います。
ところで、このレンガビルがあった「西新町209」という場所、現在は紙与西新ビルとなってテナントにはドン.キホーテ西新店が入っているわけですが(正確には西新町209-2で、敷地の一部)、西鉄が去ってから紙与西新ビルになるまでの変遷も一応調べておきました。
最後にこの「西新町209」に限定した変遷を年表にまとめてみましたので、いつか誰かの何かのお役に立てれば幸いです。
余談ですが筆者は学生時代、平成8(1996)年に紙与西新ビルが建った時にテナントとして入っていた「福岡金文堂西新本店」のオープニングスタッフとして、数年間この場所で働いていたことがあります(ちなみに「本店」とあるが別に本店ではないです)。
まあ当時は「近所だから」という理由以外に応募した動機はなかったのですが、二十歳前後の一番濃い時期を過ごした思い出の場所でもあり、こうして振り返ってみると憧れの須磨ちゃんや川端氏、また意外とやり手だった烏城とのご縁を感じて、なんだか嬉しい限りです。
* * * * * * *
・福岡鉱業株式会社が事務所として西新町209にレンガビルを落成。
・7月、百道女子学院が創立。西新町レンガビルの一部を校舎として利用。
・9月、高崎勝文が福岡炭鉱株式会社を創業。西新町レンガビルを本社とする。
・前年に福岡炭鉱をやめた高崎が矢岳炭鉱株式会社の取締役となり、2月には西新町レンガビルを本社とする。
・3月、「野上鉱業合資会社」名義で西新町レンガビルの売却広告が出される。
・3月、福博電車(昭和9年設立)が本社として西新町レンガビルの使用を開始。
・9月、鉄道5社合併(九州電気軌道が九州鐵道・博多湾鉄道汽船・福博電車・筑前参宮鉄道を吸収合併)した九州電気軌道が本社を西新町レンガビルに置き、商号を「西日本鉄道(株)」へ変更。
・1月、西鉄の本社が西新町レンガビルから大名町に移転。跡地は西電車営業所として使用。
・西電車営業所が西新町レンガビルから今川橋(福岡貸切自動車営業所跡地)に移転。
・西新町レンガビル取り壊し。
・4月、西新町209はRKB毎日放送主催の「RKBモダン住宅展」の西新会場として住宅展示場になり、東側隣接地は西鉄所有の駐車場となる。
・駐車場敷地内に「うどん一番」がオープン。
・3月末、RKBモダン住宅展、西新会場を終了。跡地はその後しばらく「うどん一番」と駐車場として利用される。
・3月、紙与西新ビル竣工(紙与不動産株式会社所有、西日本不動産開発株式会社運営)。1階はテナントとして「福岡金文堂西新本店」「フレッシュネスバーガー西新店」が入り、2階から5階は駐車場という、西新としては巨大ビルが誕生。
・1階テナント「福岡金文堂西新本店」閉店。
・12月、1階テナント「ドン.キホーテ西新店」がオープン。現在に至る。
【参考文献】
・調須磨『調須磨遺稿集』(百道女子学院、1931年)
・高崎烏城『身辺細事記』(天の川発行所、1932年)
・福岡市文学館企画展『季節の歯車をまわせ 吉岡禅寺洞と「天の川」』(福岡市文学館、2007年)
・『本邦鉱業ノ趨勢』(大正3年版~大正8年版、商工省鉱山局)
・『帝国銀行会社要録』(大正3年版~大正10年版、昭和2年、4年、5年版、帝国興信所)
・『日本工業要鑑』大正9 〔下〕年度用(工業之日本社、1913ー1926年)
・『海事年鑑』昭和3・4年(海事彙報社、1928年)
・福岡県早良郡役所編『早良郡誌』(名著出版、1973年)
・『RKB30~40年ー多メディア時代への挑戦ー』(RKB毎日放送株式会社、1991年)
・西日本鉄道株式会社100年史編纂委員会編『西日本鉄道百年史』(西日本鉄道株式会社、2008年)
1918年12月27日
1929年5月16日
「福岡市地番入実査図」(春吉土地建物合名会社、昭和2年)
「日炭・山田炭鉱の記憶」
http://nittan1971.web.fc2.com/nittan5/Yamada-tankou.htm(2023年5月24日閲覧)
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[Written by かみね/illustration by ピー・アンド・エル]