「ダム計画について、振り返って見ると、山形工事で実施した予備調査時代に選定された狭窄部のダム軸線は地質的には閃緑岩からなるが、特に左岸側は断層破砕帯や貫入岩に沿って熱水変質作用を受け、相当量の地質調査を実施しても信頼出来る基礎岩盤確認するに至らなかった。そこで土木研究所とも慎重に協議した結果、当初計画の重力式コンクリートダムを中心コア型ロックフィルダムに変更すると同時に軸線を約100m上流に移動し現計画の通り確定した。」(初代所長 相原圭介)主なる補償関係は、水没等土地取得面積327.26ha、家屋移転105世帯、月山沢小中学校等の公共補償、漁業補償、発電所補償である。
「ダム築造後、年数が経つにつれて、この地質の弱点と対策工の使命というものが忘れられがちであります。そこでこの地質対策工の設計、施工内容を詳細に、明確に、しかも将来長期にわたって管理部門が引き継いでいくためには、この工事誌(図面集を含む)は唯一無二のものと考えられます。」(第2代所長 川村幸司)
「道路の建設上の問題は、地滑り、のり面崩壊の問題であり、工事の進捗とともに対応に追われた。ダムサイトの左岸の横手トンネルの工事の際に変化が生じたのもこの頃である。.........112号の付替道路の下流の始点付近で、2回に亘ってのり面崩壊が生じ、ダム上流部落の交通を遮断することになり、迷惑をかけた。上流の人達との厳しいやりとりの中で御理解を頂いたものの、復旧の間に一時期、完成した上段仮排水路を一般交通に供したこと等は今でも苦い思い出である。」(第3代所長 城島誠之)
「国道112号付替工事にも思い出は深い。横手トンネルまで一部供用され、続いて小砂関トンネル、月山沢トンネルの貫通を待って、月山沢大橋の架設工事そして連続桁コンクリート床版打設工程へと入った。長さ315m、風が強く沢の深い30m近い高所作業のためか、順調に来ていた工事も56年冬にさしかかり、俄然、難工事に変わった。冷害が東北を襲った年でもあり、例年に比べ早い降雪は作業中の型枠、鉄筋の工事工程の遅れとなり更に一週間連続豪雪となって襲いかかり型枠と鉄筋内に食いこんだ雪を除去しなければコンクリート打設は不可能であり、そのまま工事を中断すれば雪の重みで型枠は谷底に落下するだろう。翌年7月の国道開通は大目標である。このため、直ちに、雪に慣れた地元業者の協力を要請し、数百人に及ぶ人海戦術による除雪作業を展開し、降雪のあい間を見て、一気にコンクリート打設を敢行し、工期は遅れたもののかくして56年7月国道112号は愛称〃月山花笠ライン〃として無事開通にこぎつけることができた。開通パレードに参加し、あの悪夢の様な11月の豪雪中の難工事を思いつつ、庄内、村山地方を結ぶ大動脈の完成に心から祝福した。」(第4代所長 荒井治)
「〃アイデア町長〃として知られる西川町の横山町長さんが噴水の話を事務所に持ってこられたのは私の二代前の所長のときのようです。安易にダム費では作れない。しかし、ダム事業に理解を示され、これまでなにかにつけて応援して下さった町長はじめ西川町の人達が、真に噴水を望むのであれば...............。まさに、晴天の霹靂でしたが、県単費による寒河江ダム環境整備事業補助金が決まり、これに一部町費も加えることで地元負担金が具体化したのです。」(第7代所長 斉藤晴雄)
「水没住民のための釜房ダム視察に随行したときのことです。たまたま仙台七夕の期間でもあり、一番丁通りを見物させたことです。日中あつい暑中を、見物人の人込みの中を迷子?にならないようにお互い手をつないぎあってもらい、また私達は前後に立ち、寒河江ダムの小旗を目印に、幼稚園の先生よろしく、水没住民(オバチャン)達をフーフー汗をかきながら引率した思い出が、今でも目に見えるようです。」(高橋貞男)ダムの施工技術は次のダム建設に応用されることが多い。補償交渉もまた他ダムへの影響が強く反映される。