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2014年06月13日

アジアの平和を考える市民講座

アジアの平和を考える市民講座「日本人の歴史認識を問うー朝鮮半島に対する植民地支配をめぐる問題を中心にー」(講師山田良介:福岡大学東アジア地域共生研究所研究員)に参加しました。
1 敗戦直後における認識
東京裁判の問題点:戦争責任を少数の軍人のみに押し付けるとともに、近隣諸国に対する植民地支配を事実上不問とした。
日本による統治の理念は、欧米と同様の帝国主義的支配ではなかった
日本による統治は朝鮮の経済成長に貢献した。
→後の日本社会における植民地統治像の主要なタイプの一つとして現在まで継承される。
「日本国民は他の極東の国々の国民よりもすぐれている」86%(1945.12在北京の日本人に対する調査)
2 日韓国交正常化問題をめぐって
サンフランシスコ講和会議(1951.9)
冷戦下におけるアメリカ主導による「寛容」な処遇(日本に対する賠償請求権の放棄)
韓国は同会議への参加を望んだが「韓国とは戦争状態になかった」などの理由から日本とアメリカが反対したため招請されなかった。
日韓会談(1951-65)
日本は朝鮮半島のインフラ整備に尽力したという内容に続けて「当時日本が(朝鮮に)行かなかったら中国か、ロシアが入っていたかもしれない」(日本側主席代表久保田貫一郎の発言)
日韓基本条約および「請求権及び経済協力協定」などの調印(1965.6)
主な問題点
?@植民地支配の問題については言及されず
?A賠償ではなく経済援助の名目での日本側からの生産物・役務の提供
→日本政府が個人補償を拒否する法的根拠となる。
3 1980年代・90年代の状況(歴史認識をめぐる近隣地域からの異議申立てと「和解」の模索)
韓国・中国との教科書検定問題(1982年)
中曽根康弘は戦後の首相として初めて靖国神社を公式参拝し、アジア諸国から批判を浴びる(1985.8)
従軍慰安婦問題(1992.1日本軍関与の史料が発見)
1993.8日本政府は旧日本軍の関与と強制性を認め、元慰安婦に謝罪する内容の「河野談話」発表
1995.7「女性のためのアジア平和国民基金」発足(2007.3解散)
1993.8細川護煕首相の所信表明演説「過去の我が国の侵略行為や植民地支配などの多くの人びとに耐え難い苦しみと悲しみをもたらしたことに、改めて深い反省とおわびの気持ちを申し述べる」
1993.11細川主張と金泳三大統領会談。植民地支配に関して「加害者として心から反省し、深く陳謝したい。」
(注記)首相として初めて過去の日本による「侵略」に言及。
1995.6与党三党(自・社・さ)による国会決議(衆議院)「世界の近代史上における数々の植民地支配や侵略的行為に思いをいたし、我が国が過去に行ったこうした行為や他国民とくにアジアの諸国民に与えた苦痛を認識し、深い反省の念を表明する。」
1995.8村山富市首相談話「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。」(その一方で、村山首相は同年10月の国会答弁において1910年の韓国併合条約は法的に有効という従来の政府見解を踏襲し、韓国世論の批判を浴びた)
5 むすび
1990年代後半からの歴史修正主義の登場(例:新しい歴史教科書を作る会)
2010年8月10日菅直人首相談話「ちょうど百年前の八月、日韓併合条約が締結され、以後三十六年に及ぶ植民地支配が始まりました。三・一独立運動などの激しい抵抗にも示されたとおり、政治的・軍事的背景の下、当時の韓国の人々は、その意に反して行われた植民地支配によって、国と文化を奪われ、民族の誇りを深く傷つけられました。」(植民地支配の強制性を実質的に認める)
15年前と比べて、日本の世論においては過去の補償について消極的な違憲が大幅に増加
←その時その時の雰囲気によって変わる意識?自らの生活から遠く感じる問題?
→植民地支配(および戦争)責任問題に対する内省の契機が乏しかった?
「台湾・朝鮮という植民地の喪失が、敗戦の結果、いわば自動的に実現したことである。そのことは・・・植民地主義的な思考様式の精算という深刻な問題が深く自覚されることなしに、戦後の『民主化』が開始されたことを意味していた」(吉田裕「日本人の戦争観」)
戦後世代が中心となった時代の現在:自らの「経験」ではなく「イメージ」として語られる歴史問題+強まるナショナリズム
posted by 後藤富和 at 19:56| 平和

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