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県議会の沿革
掲載日:2015年3月3日更新
廃藩置県と県の議事機関
明治4年の廃藩置県で、従来の岡山藩は岡山県に、備中一円及び備後の東部6郡は深津県(明治5年小田県に改称)に、美作一円は北条県にそれぞれ編成されました。同時に府県官制、県治条例が制定されて、従来の旧藩色は取り除かれていきましたが、これは中央集権による地方行政機構整備の一環としてのものでした。この後、明治8年に小田県が、9年に北条県が岡山県に合併しました。
小田県においては明治5年8月議事条例を公布し、諸総代の制度を設け、北条県でも殖産水利等について戸長会等が開催されていましたが、いずれも官選の代表による討議を通じて、県政の円滑化を図ろうとするものでした。
明治7年1月、北条県においては県が民事議事略則を設け、小田県では同年8月区会県会を開きましたが、これは、岡山県地方の最初の公選民会でした。
県会の発足
明治11年7月、大政官布告をもって府県会規則が制定され、これに基づき同12年3月、定員49名で初の岡山県議会が組織されました。当時の県会は、地方税の徴収及び支出予算の審議を行うためのものでした。ちなみに、当時の県の予算額は36万8,324円20銭でした。また、選挙権者は地租5円以上を納める者で、同12年当時の有権者は7万1,897名でした。現在の議会は、委員会で下審査し、本会議ですべて最終審議議決しますが、明治13年には常置委員(県会の補助機関)が置かれ、それが明治32年から参事会制度となり、昭和22年の地方自治法制定まで続いていました。ちなみに、参事会は副議決機関で、毎月1回開かれ、県会の委任を受けた事項や軽易な事件を県会に代わって審議議決していました。参事会は知事が議長となり、県高等官2名(大正15年から廃止)、議員6名(大正3年から7名、大正15年から10名)で構成していました。
県会から県議会へ
敗戦後の昭和21年9月、府県制の改正により、選挙権も従来の性別、納税額による制限がなくなり、満20歳以上の成人が有権者となりました。名称も「県会」から「県議会」と改称されることになりました。また、知事の従属的地位にあった議会が、県の意思決定機関としての立場へと機能が強化されました。さらに、従来年1回であった定例会(通常会)を6回以上開催することに改められ、昭和22年5月の地方自治法施行を経て、昭和31年からは、年4回となりました。議場の変遷
議場は、当初岡山師範学校講堂(旧岡山藩校、岡山市蕃山町)が充てられ、以後明治42年までの間は蓮昌寺、国清寺、鶴鳴館なども使用されました。明治42年からは石関町に新設された議事堂が使用されていましたが、昭和20年6月の戦火で焼失したために、以後昭和32年3月まで岡山市上伊福の旧海軍被服廠跡が使用されました。昭和32年3月、岡山市内山下に新庁舎ができてからは、現在の議事堂が使用され、今日に至っています。議員定数の変遷
議員定数は明治12年49名で発足しましたが、以後37名、38名、明治42年から昭和6年まで39名、昭和6年から40名、昭和21年4月44名、昭和21年11月53名、昭和26年4月55名、昭和50年4月56名、昭和54年4月57名、昭和62年4月58名、平成11年4月56名、平成27年4月選挙から55名となっています。なお、昭和14年9月の選挙以後は臨戦体制下のため、昭和22年4月まで選挙は行われませんでした。