岡崎嘉平太記念館

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岡崎嘉平太

明治30年(1897)岡山県吉備郡大和村(現加賀郡吉備中央町)で生まれた岡崎氏は、小学校1年の時自宅が焼失、総社町(現総社市)に転居する。間もなく父親は渡米し、アメリカで客死したので母に育てられ、岡山県立岡山中学校入学後は寄宿舎に入り故郷を離れた。
第一高等学校、東京帝国大学を卒業後、日本銀行に入りドイツにも駐在した。昭和13年(1938)から上海に駐在し、華興商業銀行の理事、大使館参事官等を務めた。

多くの会社を再建・設立

昭和21年(1946)戦後処理を済ませて帰国後、独自の経営哲学と人生観をもって、厳しい労使紛争のなかでの企業再建や、全日空の前身となる会社の設立に携わり、日本の航空事業の発展などに尽くし実業家として活躍した。

貯蓄増強運動

また、当時の日本銀行総裁に請われて取り組んだ貯蓄増強運動では、会長として全国700ヶ所以上で講演をし、貯蓄や無駄を省くことの大切さを説いてまわるなど幅広く活動した。

日中国交正常化に尽力

周恩来総理と歓談
昭和46年(1971)3月
周恩来総理と歓談
北京・人民大会堂にて

さらに、特筆すべきことは、学生時代に中国からの留学生と交友を深めたことから中国に関心を寄せ、日中の国交断絶時代に貿易の発展を通じて国交の早期回復を願い、日中覚書貿易の牽引車となってその実現に導いたことである。周恩来総理と厚い友情の絆を結び、戦後100回にものぼる訪中を行うなど日中の交流の促進に尽力した。
常に信頼と愛情に支えられた誠実な岡崎氏の人柄は人々の信頼の的であり、賀陽町名誉町民、総社市名誉市民、岡山県名誉県民、勲一等瑞宝章などの称号が贈られている。

岡崎嘉平太略歴

明治 30年(1897) 4月16日 吉備郡大和(やまと)村(現岡山県加賀郡吉備中央町)大字北に父鶴太郎、母のぶの長男として生まれた。
37年(1904) 7歳 大和尋常高等小学校入学
38年(1905) 8歳 吉備郡総社町(現総社市)に転居
申義尋常小学校へ転校
43年(1910) 13歳 総社尋常高等小学校高等科入学
44年(1911) 14歳 岡山県立岡山中学校入学
大正 5年(1916) 19歳 第一高等学校(独法科)入学
8年(1919) 22歳 東京帝国大学法学部政治学科入学 大正11年卒業
11年(1922) 25歳 日本銀行入行本店勤務
12年(1923) 26歳 日本銀行小樽支店勤務
15年(1926) 29歳 日本銀行本店勤務
昭和 3年(1928) 31歳 時子夫人と結婚
4年(1929) 32歳 ドイツ駐在
8年(1933) 36歳 帰国
日本銀行本店勤務
13年(1938) 41歳 陸軍省事務嘱託 上海駐在
14年(1939) 42歳 日本銀行退職 華興商業銀行設立、理事
17年(1942) 45歳 大東亜省参事官
18年(1943) 46歳 在中華民国大使館参事官
21年(1946) 49歳 上海から帰国
22年(1947) 50歳 公職追放 25年解除
24年(1949) 52歳 〜32年60歳 池貝鉄工(株)取締役社長
26年(1951) 54歳 〜27年55歳 丸善石油(株)取締役社長
27年(1952) 55歳 〜42年70歳 日本ヘリコプター輸送(株)設立、取締役副社長
36年 代表取締役社長(昭和32年全日本空輸(株)に社名変更)
28年(1953) 56歳 〜40年68歳 (株)日本放電加工研究所設立、代表取締役社長
(昭和35年ジャパックス(株)に社名変更)
32年(1957) 60歳 〜46年74歳 貯蓄増強中央委員会会長
37年(1962) 65歳 日中貿易交渉のため高碕達之助氏(団長)らと訪中、日中貿易に関する覚書及びLT貿易取決め調印に立ち合う(38年度分)
(LTは中国側代表廖承志氏と日本側代表高碕達之助氏の頭文字)
38年(1963) 66歳 LT貿易交渉の団長として訪中、取決め署名(39年度分)、周恩来総理と会見 以後LT貿易交渉の団長として昭和47年75歳まで毎年訪中し、次年度分を取決め署名
(昭和43年LT貿易の名称が日中覚書(MT)貿易に変更)
47年(1972) 75歳 日中国交正常化、賀陽町(現吉備中央町)名誉町民
48年(1973) 76歳 覚書貿易終幕
53年(1978) 81歳 勲一等瑞宝章
60年(1985) 88歳 総社市名誉市民
岡山県名誉県民
平成 元年(1989) 92歳 戦後100回目の訪中(上海、曲阜、済南、北京)
9月22日没

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