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更新日:2024年3月7日
大和村には集落ごとに独自の文化が花開き、脈々と受け継がれています。その一部をご紹介します。
大和浜の棒踊りは、六尺棒、三尺棒、鎌、なぎなたを前後左右に激しくぶつけ合う勇壮な踊りです。明治35年頃、大和浜の古老井原甚四郎翁によって創始て以来、毎年行われる十五夜豊年祭で10代から50代の男性により披露されています。
創始者の井原翁は、文久2年(1862年)3月6日大和浜の士族の家で生まれました。肩幅の広い古武士を偲ばせる風格で、若い頃から正義感が強く謹厳で礼儀正しい人であったといわれています。28才の時、志を立て鹿児島にのぼり、兄の経営する鹿児島市荒田の病院で医学の研究のかたわら薬丸流の剣法、相撲、柔術、郷土芸能(棒踊り・剣舞・相撲甚句等)等幅広く研究し、その技と力を磨きました。中でも勇壮な棒踊りには強く興味をひかれ、そのグループのリーダーとして活躍しました。翁は明治31年37才の時、両親の面倒を見るため帰島しましたが、島を離れていた10年の間で村の青年たちの志気が退廃し、風紀が乱れていることにひどく心を痛め、自ら習得した踊りや相撲甚句等を夜を徹して青年に教えたことが棒踊りの始まりといわれています。
なぎなた踊りは、大和浜の十五夜豊年祭で女性たちによって披露される剣舞です。その昔、丹波の国(兵庫県)で本当にあった仇討ち物語を絢爛豪華に再現したもので、「オツヤ」という一人の娘が父の仇を求めて武者修行に出て、ついに仇を捜し求め、積年の悲願を果たすという物語です。
この踊りは、塩屋源一氏により大和浜に伝承され、昭和初期から現在まで継承されています。
湯湾釜集落で旧暦10月16日に行われます。男性は女物の浴衣を着て、顔を隠して踊ります。集落の家々をまわりモチをもらい、三味線、チヂン(太鼓)、男女の掛け合い歌に合わせて踊ります。かつて湯湾釜集落でかつて大火があった際に、水利が悪かったために田んぼの泥を投げ込み消火したと伝えられており、ムチモレ踊りのモチはこの泥団子を模しているといわれています。
ノロとは琉球王朝が任命した女司祭であり、地域の祭祀や農作物の豊作祈願などの儀式を行う女性で集落の守り神的存在でした。世襲制で受け継がれ、奄美では琉球王朝による統治が終わってもその信仰は脈々と引き継がれてきました。写真は、昭和53年のオムケの様子です。オムケとは、南方からやってくる神様をお迎えする儀式で、今里集落では海上に浮かぶ小島である立神(たちがみ)に神様が降り立つとされています。
古くより継承されてきた貴重な文化ですが、現在は後継者不足で奄美大島のノロは大和村内のわずか数名となり、継承が危ぶまれています。現在、大棚集落と名音集落の豊年祭でノロによる儀式が行われています。下の写真は、名音集落のクガツクンチ豊年祭の際に名音テラでのガンノーシ(願直し)とガンタテ(願立て)の様子です。ガンノーシ(願直し)とガンタテ(願立て)は、集落の無事と豊作を願って前年に立てた願を感謝の年を込めて解き、新たに一年の安全と豊穣を願って願を立てる儀式です。ノロが授けているものはシューギと呼ばれるお供え物で、集落の男性はこのシューギを頭につけて祭りに臨みます。これも名音集落だけに見られる伝統です。
[画像:ノロによる儀式の様子]
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