しおからとお茶漬け

牧師の日常と雑感

  • 目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになる

    静まりの時

    • テーマ:主の道を備えよ
    • 聖書箇所:第一テサロニケ5・1〜11
    • 日付:2025年12月05日(金)

    10 主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです。

    主は私たちとともにいてくださいます。聖霊において、聖霊の現臨において、ともにいてくださいます。それは、私たちが目を覚ましていても眠っていても、変わることがありません。

    主は私たちとともにいてくださいます。しかし私たちは常に主とともにいるだろうか。主の十字架は、主が私たちとともにいるため、というよりも、私たちが主とともに生きるようになるためである、とここで聖書は語っています。常に変わらずともにいてくださる主と、私たちがともに生きるために、主の十字架はあったのです。私たちは、常に主とともに生きるために十字架を見上げたいと思います。

    私たちが眠っていても主はともにいてくださいますが、私たちが眠っていても、私たちが主とともに生きる、と聖書は語ります。眠っている私が、それでもなお主とともに生きるようになる、とはいったいどういうことであろうか。

    「眠っている」という言葉は、文字通り睡眠中という意味もあると思いますが、4章13節を読むと、それは「死んでいる」という意味で語っているようにも思えます。死んでもなお、主とともに私が生きるようになる、そのために主の十字架はあった、主は死んでくださった、というのです。

    死んでしまっても、なお主とともに生きる。不思議なことです。しかし聖書の語る信仰はこの事実を語っています。私たちは死んでもなお、主とともに生きるのです。生かされるのです。

    生きる、というのですから、ただ生物学的に生命がある、というのではなく、まさに「いのち」があるのです。生き生きと生きる。主とともに生きるというのはそういう意味です。死んでもなお、主とともに生きる。圧倒的な希望を私たちはいただいています。

    主の十字架を見上げる時、死んでもなお主とともに生きる私に変えられていることを感謝したいと思います。



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