しおからとお茶漬け

牧師の日常と雑感

  • そのたましいをむなしいものに向けず

    静まりの時

    • テーマ:主の道を備えよ
    • 聖書箇所:詩篇24編
    • 日付:2025年12月04日(木)

    3 だれが 主の山に登り得るのか。
    だれが 聖なる御前に立てるのか。
    4 手がきよく心の澄んだ人
    そのたましいをむなしいものに向けず
    偽りの誓いをしない人。
    5 その人は 主から祝福を受け
    自分の救いの神から義を受ける。

    自分のたましいをむなしいものに向けない、とはいったいどういう意味だろうか。

    新共同訳では「むなしいものに魂を奪われることなく」。むなしいものにたましいを向けることは、たましいを奪われることである、と。

    たましいが自分の中にしっかりとある。それが自分を生きるということだと思います。それが自由ということだと思います。しかしそのたましいが奪われてしまう。むなしいものに自分のたましいを向けることによって奪われてしまう。自分のたましいを何に向けているかによって、自分のたましいがしっかりと自分のうちに捕らえられているか、それとも奪われてしまっているかが明らかになる。 自分のたましいの真価は、そのたましいを何に向けているかで明らかになる。

    むなしいもの、空っぽのものに向けているならば、自分自身が空っぽになっている。しかしそうでないもの、永遠のものに向かっているならば、その自分のたましいも充実したものとなる。

    神を愛し隣人を愛するように招かれている私たちは、むなしいものではなく、神さまに、そして隣人にたましいを向けたいと思います。

    神さまに自分のたましいを向けているならば、私たちのたましいは、まさに豊かなものとなるのだと思います。また隣人への愛に向けているならば、そのたましいも充実したものとなるのだと思います。



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