『ソシオロゴス』アーカイブ

『ソシオロゴス』は、冊子の公刊後、1年を目処に電子版を公開しております。これまでの執筆者の方で、公開をご了承いただけない方は、お手数ですが本会までご連絡ください。

ソシオロゴス 48号 (2024年11月発行)

市川 結城 前期ホルクハイマーにおける批判的実践主体の問題
本研究は30年代のマックス・ホルクハイマーの議論に対して先行研究において指摘された難点、つまり批判的実践主体の不在という問題を検討する。この時期の彼の思想では論文「伝統的理論と批判的理論」が主に注目されるが、そこに焦点を置くことで、そこに結実するに至るまでの時期の思想である「唯物論」はしばしば閑却されてきた。本研究は主に1933年の論文「唯物論と道徳」に注目し、「批判的実践主体はいかにして可能なのか」という問題に焦点を当て、「唯物論」期の可能性を探るものである。その結果、ホルクハイマーがショーペンハウアーのペシミスティックな世界観やカント道徳論の現実批判的な側面という遺産を継承しつつ、「共苦」や「関心」という概念を通じて、主体の苦悩と現実的実践をつなぐ理路を構成していることが明らかになった。
鄭 世暻 化学物質過敏症が持つ「非可視性」と患者の「可視化作業」
本稿では「論争中の病」である化学物質過敏症の「非可視性(invisibility)」と、それに対する患者の「可視化作業(visibility work)」がどのようなものなのかを明らかにする。化学物質過敏症患者は診断されないまま、正統な患者として認められないことが多い。その上、化学物質過敏症は「感覚の非可視性」、「認知の非可視性」そして「存在の非可視性」の3つの「非可視性」を持つとの指摘がある。そして、患者はこのような状況を改善するため様々な「可視化作業」をする。8人の患者の語りを分析した結果、この作業は3つの部分から構成されていることが分かった。まず、患者は写真で自分の苦痛を可視化したデータを作る。そして、化学物質過敏症より先に正統化され、認知度が高いシックハウス症候群を活用する。最後に、患者は自ら被害者であると主張する。本研究を通じて、化学物質過敏症患者は「患者」と「被害者」の間で正統性を得るために努力をしていることが明らかになった。
金 磐石 モビリティの中で場所を捉え直す
本研究では移動する主体が地域社会の境界を越えた身体的な移動の中でどのように場所を捉え直し、場所への帰属の感覚を再構築するかを検討する。従来の都市・地域社会学における移住・移動研究は、移動する主体がどのように地域コミュニティに参入し、地域住民とつながりを形成するかという問題に焦点を当ててきた。しかし本研究ではモビリティ研究の議論を踏まえ、身体的移動と場所との関係に着目することで移動する主体の帰属の感覚を捉え直す視点を提示した。こうした視点から、本研究では韓国南部の南海郡に移住した若者たちの移動の実践と場所の感覚を分析した。地域以外への移動の経験は一方では地域への帰属を更新する契機となる。しかし他方では地域以外へと活動の領域を広げることで地域への帰属を相対化する契機ともなる。そこから本研究では移動する主体が流動的で両義的な帰属の感覚を形成していることを明らかにした。
盧 秀彬 エミール・デュルケムにおける「道徳の科学」の認識論
本論文は、エミール・デュルケムの「道徳の科学」において道徳的理想が構成される論理を、認識論の観点から解明する。デュルケムの道徳の科学は、既存の事実を認める実証主義的認識論によって現存の道徳を再生産するという保守主義的理解を振り払えずにいる。それに対して、本論文はデュルケムの道徳の認識論について、カントの道徳形而上学の批判的継承を通じて修正された合理主義の立場として解釈した。その結果、合理主義における主観に対する客観の超越を個人の意識に対する集合意識の超越に置き換えた上で、個人において具現化される個別的な事実を超え出る道徳を経験的に探求するという「道徳の科学」の論理を明らかにした。
卜 新哲 うつ病の責任帰属フレームに関する分析
本研究は、フレーム理論に基づく報道の内容分析を行い、中国共産党の機関紙である『人民日報』における2000年から2020年までのうつ病の責任帰属の態様を、個人レベルの責任帰属と社会レベルの責任帰属に分類して考察を行った。その結果、うつ病の責任が米国における報道のように個人に過度に帰属されず、罹患要因や解決策の帰属先が個人と社会にバランスよく配置されていることがわかった。また、『人民日報』の責任帰属フレームでは、うつ病の「医学的・心理学的モデルの頻用」及び「罹患責任の外部化」といった特徴が見出された。以上の知見から、『人民日報』におけるうつ病の責任帰属フレームの構築には、文化的な特性だけでなく、政治的要素も関連している可能性が明らかになった。こうした本研究の発見は、中国のマスメディアにおける精神疾患に対するメディアフレーム研究に対して、新たな実証的な知見を提供するものといえる。
藤村 達也 独学する受験生たちの紙上共同体
受験競争がどのように経験されているのかを捉えるうえでは、受験をめぐる意味秩序、すなわち受験文化の視点が必要である。本研究は、増進会の通信添削とその会報『増進会旬報』を対象に、受験メディアを通じて形成され共有される受験文化の特徴と機能がいかなるものであり、それが大学受験の大衆化によってどのように変容したのかを明らかにすることを目的とする。1950年代から1960年代の『旬報』上では投稿欄や筆名を用いた会員間の活発なコミュニケーションが行われ、「Z会」に対する共同体意識が生じていた。またそうした共同性を基盤にした会員間の競争が学習意欲を向上させる装置として機能していた。その後1970年代以降になると、会員の増加・多様化や成績管理の合理化により『旬報』の構成やそこでのコミュニケーションが変化したことで共同性は衰退し、加熱装置の中心は共同性に基づく会員間競争から、個別化された学習管理へと移行した。
平井 正人 オーギュスト・コントの「歴史的方法」
本論文では、社会学の創始者として知られるオーギュスト・コントが、自らの「先駆者」として位置づけたニコラ・ド・コンドルセの『人間精神進歩の歴史表の素描』を乗り越えるため、社会学に固有の方法として明示している「歴史的方法」とはいかなる方法であるかを、18世紀の博物学者たちが編み出した「自然的方法」との関連に着目することによって、明らかにする。コンドルセが博物学者たちの「自然的方法」を無視したことを批判したコントは、その基本的な考え方を「社会現象」にも適用すべきだと考えた。それによって生まれたのが「歴史的方法」であり、それを適用することによって得られたのが、動物学者が「自然的方法」によって構築する「動物系列」に類比的な「社会系列」である。コントの「歴史的方法」とは、18世紀まで支配的だった「分類理性」の産物であり、その原理を徹底させることの危険性は、コントの性差別主義に如実に現れていると言える。
上村 太郎 「百合」ジャンルの成立過程の検討
本稿は、異性愛規範の中で不可視化されてきた「女性同士の親密な関係」を主題とする「百合」というメディアジャンルがいかに成立したか、その過程を検討する。先行研究の課題として挙げられる「ジャンルの構築性への留意」「創作者への注目の不足」を踏まえ、「概念分析の社会学」の視座から、ジャンル成立の契機とされる1990〜2000年代前半の同人活動の創作者の実践を分析した。結果、「男性向けポルノグラフィ」ではない女性同士の親密な関係の表象を描く実践が、同人活動で共有された特有の概念と結びつきつつ複数の領域で定着したのち、それらを指示する「百合」という分類概念が登場し、表象を巡るより広い社会的実践を可能にする「ジャンル」が構築されていたことが明らかになった。またこの知見から、ジャンル研究における「概念分析の社会学」の方法論的有用性、及びジェンダー秩序の変動という観点からの「百合」の分析の可能性を提示した。
荻堂 志野 都市において「記憶の場」はいかにして存続するのか
これまで構成員が流動的で記憶や歴史の共有がしづらいという理由から、都市における「記憶の場」というテーマはあまり扱われてこなかった。本稿は、当時の公文書や豊島区内部資料を用い、東京拘置所跡地開発の経緯を明らかにすることを通じて、都市において「記憶の場」(Nora 1984=2002)がいかにして存続するのかという問いに答えることを目指すものである。東京拘置所は「巣鴨プリズン」として戦犯の処刑を行なった歴史から、区民や都から移転が望まれる存在だったが、開発計画が進む中で、拘置所内の刑場跡地を保存しようという動きが起こる。戦犯の顕彰につながるという理由により区民団体から保存を反対された刑場跡地は、「平和」というレトリックを用いることで、都市公園内に「平和の碑」という形で残されるようになる。池袋という都市において、「記憶の場」は意図的に歴史性を曖昧にされることで今日まで存続が可能になっているのである。
柴田 惇朗 舞台芸術において表明/実践される「集合モデル」
これまで、芸術生産の社会学は芸術家アイデンティティの獲得・維持を論じてきたが、芸術の生産主体を個人とする「個人モデル」を暗黙的な了解としてきた。一方、近年の芸術界においては集合的な芸術生産主体が模索されており、「集合モデル」を表明する事例も多くある。本稿では、「個人モデル」的な実践から「集合モデル」的側面を前景化させた舞台芸術団体Sと主宰Aを対象に、主体の表明と実践の関係、および「集合モデル」的志向を表明する意味を分析した。「集合モデル」への志向を表明したグループSは実際に脱中心的な芸術生産実践を行っていたが、「個人モデル」も維持されており、表明と実践のいずれにおいても「個人モデル」と「集合モデル」の使い分けや混在が確認された。また、「集合モデル」の表明自体がAにとって「生産プロセス」および「評価」の局面で意味があるため、活動の継続に寄与している可能性が示された。
ロゴスとミュートス(6) 大澤真幸インタビュー:詩的な深さと思弁的な明晰さ
今号では、理論的研究から社会批評に至るまで、アカデミズムの内外に影響を与え続けている大澤真幸氏へのインタビューを掲載する。 社会学は社会に生きる人が直面するアクチュアルな問題を分析し、表現し、発信する。社会学者は言葉を用いながら、その言葉をなくしては表現できないような世界の広がりを伝えなければならない。それでは、文学的・詩的であるとされる一方、思弁的であると受け取られることもある大澤氏の文章が社会学者にとどまらず多くの人びとを魅了し続けているのは一体なぜなのだろうか。その答えを知る手がかりは、身体という根源的なテーマを起点に出発した大澤氏の理論的探究にある。社会や世界の成り立ちを根本から考え直したとき、私たちは今直面している問題の普遍性に気づかされるのである。 今号のインタビューを読めば、詩的な直感を手放さず、思弁的な明晰さをもって世界の広がりを深く表現する手がかりを知ることができるだろう。

ソシオロゴス 47号 (2023年10月発行)

ロゴスとミュートス(5) 佐藤健二氏インタビュー:言葉の力から方法としての比較=歴史社会学へ
今号では、歴史社会学、分化社会学、社会調査史、メディア論と多岐にわたる成果を生み出してきた佐藤健二氏へのインタビューを掲載する。 資料の形式・形態を見極め、素材を生かして料理し、常識と思われていた認識や感覚を鮮やかに問い直す氏の方法は、熟練の職人の技術のようであり、まさしく「アート」と呼ぶにふさわしい。であればこそ、多くの読者は氏の方法がいかに生み出されてきたのか、いかにして「盗む」ことができるのか知りたいであろう。本号のインタビューから浮かび上がってくるのは、熟練した技術を身につけるまでに、氏は大学にとどまらないさまざまなネットワークを築き、そのネットワークのなかに生きたということである。『ソシオロゴス』という場がどうあるべきなのかを考える手がかりにもなるであろう。 本号のインタビューでは、言葉の持つ力に魅了され、比較=歴史社会学の光へ向かっていく佐藤氏の歩みを尋ね、比較=歴史社会学の本願を聞く。

ソシオロゴス 46号 (2022年11月発行)

正井 佐知 差異有標化の実践と社会参加
コミュニケーション上の障害がある人の研究は、有効な療育・訓練・治療方法の開発、有効な支援の方法の解明を目的とした研究が多く行われてきた。これに対して、本稿の主な関心は、従来のような福祉や訓練という観点ではなく社会参加という観点から、コミュニケーション上の障害のある人を含む社会集団のメンバーが、どのように相互行為に参加しているのかを見ることにある。本稿では、協調性・同調性という障害者の参加を困難にする性質を持つとされるオーケストラの練習場面に焦点を当てて相互行為分析を行った。分析の結果、団員は、障害のある奏者の注目可能な発話に無標化や有標化といった方法で対応をしていた。有標化は、障害のある奏者の会話に周囲の人たちが乗り、自然なままに会話を進行させる装置の一つとして働いていた。したがって、先行研究と異なり、本稿における有標化は必ずしもいじめのような排除のツールというわけではなかった。ただし、メンバーをより十分な参加へ方向づける働きと障害者カテゴリへの帰属を潜在的に方向付けする可能性を両義的に含むものでもあった。これにより、メンバーごとに参加における複数のスタンスが生み出されていることが明らかとなった。
ロゴスとミュートス(4) 山本泰氏インタビュー:社会学との葛藤、社会学への帰還
今号では、社会学に魅了されながらも、現象学への関心を深め、のちにサモアでのフィールドワークにもとづく人類学的成果を生み出した山本泰氏へのインタビューを掲載する。 山本氏の研究業績は、これらに加えて、サンフランシスコの下層研究、日本各地の地域社会調査と多岐にわたる。同時に、アメリカ滞在の経験を機に、社会学の「理論」を教える授業の実践、普及に精力的に進めてきたことで知られる。このような多彩な氏の経歴の背景には、社会学への恋、失恋、葛藤、そして帰還という人生物語がある。 この物語を通じて私たち読者が知ることができるのは、社会学の奥の深さの体得には常に新しい分野への挑戦が必要だということである。「社会は社会学よりもずっと深い」と言う。不断の挑戦の出発点に、「文化革命」としての本誌『ソシオロゴス』の創刊があった。本号のインタビューでは、学問活動と行政活動の双方を通じて独自の社会学のスタイルを切り開いていく歴史の一端に迫っていく。

ソシオロゴス 45号 (2021年11月発行)

ロゴスとミュートス(3) : 長谷川公一氏インタビュー
今号では、社会変動論の研究から出発し、環境社会学、社会運動研究を切り拓いた研究者の一人である、長谷川公一氏へのインタビューを掲載する。 多くの社会学者は、現代社会のコンフリクトについて何らかの関心を抱き、研究としてアプローチし、コンフリクトを引き起こしている社会を記述しようとする。一方で、対象との関係であったり、社会学者として何を発言すべきかに頭を悩ませる社会学者も多くいることであろう。長谷川公一氏は、環境問題、公害問題との関わりから、社会学の公共性、そして国際化、制度化について熟慮し、積極的に発言し、実践してきた社会学者である。 今号のインタビューでは、環境社会学、社会運動研究を中心とした社会学の歴史を知ることができるだけでなく、現在の社会学に求められている公共性、国際化、ディシプリンとして制度化していくために必要な手がかりが示されている。

ソシオロゴス 44号 (2020年12月発行)

ロゴスとミュートス(2) : 江原由美子氏インタビュー
今号では、現象学的社会学の理論的研究から出発し、ウーマン・リブやフェミニズムに関わり、ジェンダー研究を展開した江原由美子氏へのインタビューを掲載する。 今となっては、ジェンダー・セクシュアリティ研究の重要性は、社会学に限らず一般社会においても広く認識されている。しかし、そのように認識されるようになるまで研究者が歩んできた道のりは、険しいものであった。それは、ジェンダー・セクシュアリティに関わる経験が、一般社会において誤認されていただけではなく、社会学においてもある時期までは研究領域が十分に確立されていなかったからだ、と言えるかもしれない。社会運動とのネットワークを形成しながら、ジェンダー・セクシュアリティ研究を志す社会学者が取り組んだ試みの一つは、人びとの経験に言葉を与えることであった。その先駆者の一人が江原由美子氏である。 今号のインタビューには、過去の問題状況を知りたい読者だけでなく、社会学の実践的な意義とは何なのかと思い悩む読者にとっても、答えのヒントがきっとあるはずだ。

ソシオロゴス 43号 (2019年9月発行)

ロゴスとミュートス(1) : 橋爪大三郎氏インタビュー
『ソシオロゴス』は、今号の出版で43年目となった。1977年創刊当時の理念でもある「新しい社会学を希求する媒体」として、開かれた雑誌を目指し、出版し続けてきた。私たち社会学者は、『ソシオロゴス』に発表されてきた先人たちの成果を通じて、多くのことを研究できるようになり、さらにその成果を踏まえて、新しい社会学のあり方を提示してきた。 それでは、先人たちが当時問うてきた問題――すなわち「古いパラダイム」の問題――とは一体、何であったのかと問うてみると、私たちは今となっては十分にその問題状況をさし示すことができないのではないだろうか。 もちろん、『ソシオロゴス』のバックナンバーをたどり、論文を読んで検討するといった学説史的検討を行うというのも、過去の問題状況の痕跡を知るうえでの一つの手ではある。しかし、たとえば、当時の社会学が置かれた状況、なかでも投稿者が置かれた状況といったものは、学説史的検討だけでは十分に見えないかもしれない。そうした文脈を補う手法として、私たちが今回試みたのは、『ソシオロゴス』投稿者へのインタビューである。論文を読んだ際には閉じていたネットワークを開く手段として、さらに論文の読み方を変え、当時の社会学の歩みを知る手段として、社会学者による社会学者へのインタビューという調査手法が存在する。 今号では、言語派社会学を提唱し、私たちの社会学の思考の基礎となる枠組みを示した社会学者の一人である、橋爪大三郎氏へのインタビューを掲載する。

ソシオロゴス 42号 (2018年9月発行)

宮部 峻 「宗教」と「反宗教」の近代
本稿では、1920年代から30年代における日本の宗教教団に着目し、宗教と社会との相互作用の結果として生じた宗教理解の変容、宗教教団による教義の意味づけについて論じる。教義内在的な研究では、宗教の社会活動の社会的文脈は、教義に還元される傾向がある。しかし、本稿で考えたいのは、「社会」の成立とそれへの教団の応答である。1920年代は、社会運動の発生、マルクス主義の輸入を契機に、国家とは異なる次元の「社会」が意識される時代であった。実際、本稿が分析対象とする真宗大谷派教団が社会課を設置するのは、当時の時代潮流においてである。宗教は「社会」に対して融和事業などの取り組みを図る一方で、反宗教運動や「マルクス主義と宗教」論争に代表されるように、マルクス主義の批判の対象となり、自己規定の見直しを行う。本稿では、マルクス主義への応答を通じて、宗教教団が宗教の機能を「反省的なもの」へと規定していくことを示した。
團 康晃 話すこととのむことの相互作用分析
本論では、読書会における嗜好品摂取を対象に、特に議論の進行と嗜好品摂取の関係について、エスノメソドロジー・会話分析におけるマルチアクティヴィティの観点から明らかにする。そこでは、会話と嗜好品摂取活動とが互いにその進行を阻害しない幾つかの方法が観察された。一つには他者の順番内で嗜好品摂取を行うこと。もう一つには、自分の順番において嗜好品摂取活動を始めることで、自らの順番の完了を予示する機能である。
久保田 裕斗 小学校における「共に学ぶ」実践とその論理
本稿の目的は、障害児と健常児が「同じ場で学ぶ」小学校の実践の特徴と、その実践に対する教員たちの理解のあり方を明らかにすることである。「同じ場で学ぶ」教育実践は、本稿が調査対象とした地域においては「共に学ぶ」教育運動として展開してきた。この「共に学ぶ」実践について調査をおこなった結果、次の点が指摘できた。第一に、「共に学ぶ」実践においては、特別支援学級担任をはじめとする教員を「支援担」として活用することで、障害児の教育保障をおこなっていた。第二に、運動に関わってきた教員たちは、教員集団の一般的傾向などに言及し、「共に学ぶ」教育の原則の存在やその規範が失われることへの懸念を示すことで、自らの活動を定式化していた。第三に、若手教員は実践的な水準で「共に学ぶ」教育の原則を継承していたが、この若手教員がおこなっていた自らの実践についての理解の仕方は、「共に学ぶ」教育の原則を素通りする危険性を内包するものでもあった。
牧野 智和 オフィスデザインにおける人間・非人間の配置
近年注目を集める「クリエイティブなオフィス」は、知的創造性に関連する活動(アクティビティ)を誘発する多種多様な仕掛けがそこかしこに埋め込まれ、そのような環境と知的創造に向かう組織のあり方を重ね合わせようとする異種混交的なデザインの対象となっている。本論文ではいかにしてそのようなオフィスの様態が立ち現れたのか、オフィスデザインの変遷について分析を行った。1950年代から1960年代にかけてのオフィスは能率的配置のなかに人とモノをともに埋め込もうとしていたが、1980年代から1990年代にかけての「ニューオフィス」の台頭期においては知的創造性が重視されるようになり、執務室を離れた支援空間でのリフレッシュがそのポイントとされた。2000年代以降、冒頭で述べたような環境デザインが支配的なスタイルになるが、このようなオフィスにおいて知的創造性が実際に高められたかどうかという点は多くの場合ブラックボックスになっている。
永田 大輔 ビデオをめぐるメディア経験の多層性
1989年のある事件をきっかけとしてオタクは社会問題化する。事件報道で加害者の自室が取り上げられ、部屋のビデオコレクションがオタクと結び付けられた。その結び付けをめぐる二つの語られ方が存在した。マスメディアが事件の加害者を「オタクの代表」とする一方で、批評家が加害者を「真のオタク」でないとも語ったのだ。それらの語られ方が可能になった文脈を当時のビデオの普及状況との関連で検討する。加害者がオタクの代表とされる際に、加害者を「通して」オタクと一般層を切り離した。対して加害者が真のオタクでないという根拠に持ち出されたのは、「コレクションの未整理」である。ビデオテープが高価だった時期は整理が節約の便宜に基づくものだったが、次第に意味を失い、批評的言論の中で「長くオタクを続けてきて」きたことと読み替えられ、加害者がオタクでない根拠とされたのだ。こうした操作はオタク「から」加害者を切断操作するものだった。

ソシオロゴス 41号 (2017年10月発行)

園田 薫 日本で働く専門的外国人における企業選択と国家選択の交錯
本稿は不断に変化する専門的外国人のキャリア選択の局面を通して、彼らが日本企業での就労をどのように捉えているのかを明らかにする。そこで企業選択と国家選択という2つの概念を設定することで、彼らの動的なキャリアの想定を捉えることを試みる。日本の大企業で働く専門的外国人へのインタビュー調査の結果、多くの対象者はどこで暮らすのかという国家選択が、家族設計という要素を媒介することで、現在の企業で働き続けるかという企業選択の論理に強く影響していた。これは入社以降に家族設計に伴うキャリア上の国家選択に迫られ、想定していた職業キャリアと交錯するなかで、国家選択を重視してキャリアを選択する傾向から導かれる結論である。この結論から、企業選択と国家選択を明示的に区分する妥当性と、企業選択のみならず国家選択に影響を与えるという点において、家族設計の想定が専門的外国人の定着を決める重要な要素となることが示唆される。
芝野 淳一 第二世代の帰還移住過程における構造的制約
近年、日本人の海外移住が多様化するなかで、自発的に移住先に長期滞在・永住する人々が増加している。それに伴い第二世代の「日本への帰還」のあり方も多様化している。本稿は、グアムの日本人青年を事例に、長期滞在・永住家庭の第二世代が帰還移住過程において経験する構造的制約について検討するものである。結果、かれらはその就労において、自らのルーツの確認や帰属意識の獲得などを目的に、自発的かつ個人的に日本への帰還を試みていた。しかし、移住過程において、日本側の「受け入れの文脈」―労働市場、エスニック・コミュニティ、移民に関する政策―から排除されると同時に、グアム側のそれに包摂される(引っ張られる)ことで、日本への帰還が困難になっていたことが明らかになった。本知見が示唆するのは、日本への帰還に際して困難を抱える「グローバル・ノンエリート」としての第二世代の存在を議論の俎上に載せること、そしてかれらの移住経験を複数の場所における構造的・制度的文脈との関係において解釈することの重要性である。
牧野 智和 「自己」のハイブリッドな構成について考える
自己のあり方、その行為者性のあり方に「モノ」はいかに関係するのか。本稿ではアクターネットワーク理論(ANT)と統治性研究を手がかりにして、自己とモノ、人間と非人間の関係性を考察する視点の錬磨を試みるものである。人間と非人間の関係は科学技術社会論を中心に検討が重ねられてきたが、その一つの到達点にブルーノ・ラトゥールらが提案したANTがある。この立場は技術・社会・人間を切り分けることなく、異種混交的なネットワークとして記述・理解しようとする新しい魅力的な切り口を提示している。しかし、個別事例を越えたネットワーク化の戦略や、今日増殖しつつあるハイブリッドのデザインという事態までをANTの立場は捉えることはできない。このようなANTの限界を超えるために、ジョン・ローのミシェル・フーコーへの言及、さらに統治性研究を発展的に折衷することで、デザインされる異種混交性の考察が可能になるのではないかと考えられた。
田中 宏治 例外事象によるチーム医療の行動的構造の変容
本稿は、日本における「チーム医療」に関して、社会学が提言したチーム成員が有する「志向性類型」を批判的に援用しつつ、志向性類型が目指したチーム医療に対する「包括的な把握」の限界を見極め、それを乗り越えるための新たな行動的構造を探求する目的で、ネットワーク分析法を用いて対象である2病院のチーム医療を解析した。その結果、志向性類型では全く表現することが不可能であった例外事象の発生時におけるチーム医療にて「行動的構造の変容」の2パターンを確認することができた。この2パターンの変容は患者に対する中心性と集中化によって「極集中型」と「拡散型」に特徴付けることができた。「行動的構造の変容」という結果は、従来の社会学がチーム医療へ示してきたいかなる指標とも異なり、人的コストの集中や分散、成員間の交渉や調整コストなど、チーム医療という構造への新たな知見を可視化できるものである。
中川 和亮 イベント研究の方法論的検討
本稿では、イベントに参加したひとびとの経験と日常生活の連続性に焦点をあて、イベント研究の方法論を検討することを目的とする。これまでのイベントを方法論的に検討した研究ではイベントという非日常経験がいかにひとびとの日常生活と連続しているかという点に着目しておらず、また「受け手」がイベントに参加した際の経験の質を検討したものはない。そのなかで本稿では、M.チクセントミハイのフロー理論を補助線として、イベントという非日常経験が、ひとびとにとっていかなる意義があるのか、ということを検討する。ひとびとは各自で自己認識を発展させていく必要を求められる一方で、ひとびとの要求に応じてイベントの「創り手」は擬似的に「かりそめの現実」を提供する。本稿は、「かりそめの現実」による「自己認識の発展」に問題意識を持ちつつ、イベントで「受け手」が醸成しうる別の「自己認識の発展」の可能性を検討する。
池上 賢 「メディア経験を語ること」とアイデンティティ
本稿では、現代社会におけるメディアとアイデンティティの関係について、メディア経験を語るという行為をエスノメソドロジーの視点から分析することで明らかにする。筆者は先行研究の問題点として、分析対象となる関係性が事前に同定されていること、データの分析において本人によるアイデンティティの理解が看過されていること、以上の2点を指摘した。その上で、分析の手法としてエスノメソドロジーの視座によりメディア経験を語るという行為を分析することを提案し、インタビュー場面におけるマンガ経験について語るという行為を分析した。その結果、語り手のアイデンティティは場面状況に適合的に語るため、相互行為の中で提示されていること、特定のメディア経験を持たない人でも、当該のメディアとの関係の記述により、アイデンティティを提示しようとすることが明らかになった。
正井 佐知 障害のある奏者のオーケストラ参加
障害者の社会参加の場には、介助方法や対人援助方法など何らかの医学的・福祉的専門知識を有する者が参加していることが多い。このような場に関する研究は今までに多く蓄積されてきた。本稿では、医療や福祉の従事者が関与せず、支援を目的としない場に、障害のある人がどのように参加しているのかを明らかにする。医療や福祉の従事者が関与しない場として、20年間障害のある奏者が参加しているオーケストラαの合奏練習に着目した。そして、楽譜トラブルに関する相互行為の形式的分析と知識基盤の分析を行った。この結果、障害のある奏者の参加を確保するために集団的に団員たちが用いている実践的ルーティーンの知識が明らかとなった。

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