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甲斐の国へ/山梨岡神社の代々神楽
・甲府盆地一望。写真右は武田神社から。
甲府盆地は、山桜と桃の花に彩られていた。と、表現すると、お決まりの桃源郷探訪記になりそうだが、
始めて訪れた甲府盆地は、笛吹市と甲府市が隣接する大規模な山中都市だった。九州でいえば、
私の生まれ故郷の大分県日田市と熊本県人吉市をあわせたぐらいの面積となるだろうか。
訪れる前に抱いていた「山峡の小都市」というイメージは簡単に覆された。諏訪湖周辺と伊那谷を
加えた全体像は、西国や畿内は遠く、東海、関東、越後のどの地方からも隔絶された「山岳の
独立王国」という印象となる。なるほど、戦国期に甲州を本拠とした武田信玄が諏訪を
支配下におさめ、この地の覇者たらんとしたことが頷ける。
盆地の東に、雪を冠った富士山が聳えている。西には甲斐駒を頂点とする連山、北方には大菩薩嶺が
どっしりと座っている。山桜の花と桃の花はそれらの連山の山麓から市街地へかけて咲き誘っているのである。
・武田神社
・風林火山の旗が立てられている。
「山梨岡神社」は、笛吹市春日居町鎮目(しずめ)にあり、「代々神楽」を伝える。近くに石和温泉がある。
岡神社の代々神楽は、「武田信玄公出陣の神楽」とも呼ばれ、毎年、春の大祭(4月4日〜5日)
に奉納される。社伝は、武田軍が出陣に際し、戦勝祈願のために奉納した、と伝える。
私が訪ねたのは、岡神社大祭の翌週(4月12日・信玄公の命日)、甲府市の武田神社で開催された
「信玄公出陣祭り」の神楽である。武田神社は、信玄公の居館であった「躑躅ケ崎館」の跡地にあり、
信玄公を祭神とする。この日は鎧武者が集合し、戦国絵巻をくり広げる盛大な祭りの当日であった。
神楽は、岡神社の太々神楽がこの祭りに招かれ、奉納されるのである。
神社に着くと、すぐに巫女さんに先導された神事の行列や社殿の前に整列した鎧武者などに出会ったが、
私はそれにはあまり興味がないので、神社の裏手にある資料館に入り、古い「風林火山」の旗
を見たりして過ごした。武田信玄公も、軍師・山本勘助も、孫子の兵法を用いたことで知られる。
古い旗はそのことを彷彿とさせるものであった。往昔の戦国絵巻を連想しているうちに、
太鼓の音が響いてきた。神楽が始まったのである。
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武田信玄公出陣の神楽
山梨岡神社の社伝および各種資料は、概略次のように記す。
『神武天皇の大和平定の折、勝利を祝し久米氏が舞を奏した。その舞は久米舞と呼ばれる神楽となって、この地に伝えられた。
戦国武将・武田信玄は、この由来にちなみ、出陣の際久米舞を神に捧げ、戦勝を祈願したという』
これが山梨岡神社の代々神楽の「四劔(しけん)」である。私はこの舞を見るために甲府の地を訪ねたのである。
神楽は、現在、24番を伝える。以下も資料から抜粋。
『山梨岡神社の代々神楽は、「天岩戸」の故事を中心に記紀神話の世界を表現した24曲が伝わる。
曲目や構成は古来から変わらないといい、神楽を奉納する場所を清める舞「四方舞」や「斎場の舞」に始まり、
中盤に「天岩戸の舞」を奉納、最後に大山祇神が登場する「大山祇命の舞」で舞い納める。
舞子は基本的に男性であるが、第8曲の「天鈿女命の舞」のみ直面(ひためん)の少女が舞い、
終曲の「大山祇命の舞」は神社の祭神(大山祇神)を演じるものであるため、
舞子長(まいこちょう=舞子の筆頭)が舞う。また、第20曲目の「四劔(しけん)の舞」は
4人が剣と鈴を採物として舞うものであるが、久米舞に因んだものであるために、
「久米舞」とも別称されている。』
この日の最初の一曲「斎場」が始まった時、私はすぐに、
―これは、絵になる。
と直感したが、あいにく、画材を持ってきていなかった。それで、神社前の長い坂道を1キロ以上も歩いて
コンビニを探し、ようやく書道用の半紙と筆ペンを入手して、また坂道を登った。
白銀に輝く富士の山頂を望みながら歩き、帰りはその富士を背にして急ぐ道であった。
神社に帰り着くと、二曲目の「国常立命」の舞の終盤であった。天地創造と国家の成り立ちを語るこの舞は、
能面様式の「白武尉」の面をつけた翁神が劔を持って舞う。
これが「四劔」である。当日は、武田神社の祭礼に招かれての奉納であるから、
曲目の順番は岡神社での祭典の折とは異なるものとなっている。
山梨岡神社の祭神として、山の神・大山祇神(おおやまつみのかみ)、水神・高龗神(たかおかみのかみ)、雷神・別雷神(わけいかずちのかみ)の3柱。岡神社は背後に控える御室山を神体とする神社で古くから信仰を集めた。武田氏がこの地を治めた戦国時代には、毎年9月に参拝のための使者を差遣したといい、武田軍出陣のたびに躑躅ヶ崎館の氏神として社参が行われて各種の奉納があったという。岡人神社代々神楽の出張奉納が続けられ、「四劔」が「武田信玄出陣の神楽」と伝えられるのは、このような歴史的背景による。
「四劔」は、四人の舞い子が鳥兜を象った被り物をかぶり、金襴の狩衣を着し、右手に鈴、左手に劔を持って舞う。被り物からは宮中に奉納された「王の舞」の影響がみてとれる。地霊を鎮め、悪霊を祓う劔舞の根本原理を骨格とする静かで荘重な舞である。新緑を朝の光が照らし、刀身がきらりと煌く。戦支度を整えた軍勢の前でこの舞が舞われたならば、
兵士たちの心意は清められ、意気は否応なく上がったものであろう。
九州の神楽にも「劔」を採り物とする演目は、神楽になくてはならぬ曲目として分布する。神楽序盤の「地割」は地霊鎮魂の儀礼であり、当夜の神楽の場を清め、画定する意義を持つ。中盤に組み込まれる「神師(かんすい=神垂・神水などと表される)」「岩潜(いわくぐり)」などは、四人の若い舞人が激しく舞い、やがて三人舞、二人舞と変化し、一人舞の「一人劔」へと展開してゆく勇壮活発な神楽である。この舞を西米良村「村所神楽」では、『南北朝時代、南朝の皇子・懐良親王に随従した若武者が陣中で舞った戦勝祈願の舞』と伝える。これにより、山梨岡神社代々神楽の「四劔」と村所神楽の「神師」が同系列の起源伝承を持つ神楽であることがわかる。
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古式の巫女舞「天鈿女命の舞」が伝えられていた
山梨岡神社・太々神楽には、直面(ひためん)の少女の舞「天鈿女命の舞」が伝えられている。現在、多くの神楽の天鈿女命の舞は女面をつけた男性の舞人によるものとなっているが、この山梨岡神社代々神楽の舞は、古式の巫女舞すなわち宮中における御巫(みかんなぎ)の儀礼の型を伝えるものであろう。
周知のとおり、天鈿女命は記紀神話「岩戸開き」の段で、岩戸に籠った天照大神を導き出すための舞を舞い、「神楽の祖となった」とされる。「岩戸」の前で桶を踏みとどろかし、楽器を鳴らして楽(あそび)を行なった儀礼は、神がかりするシャーマンのものであり、古代中国の日食儀礼としても記録(約2600年前/春秋左氏伝など)されている。さらに天鈿女命は「天孫降臨」の段で、天下った天孫・ニニギノミコトの一行の前に立ちはだかった猿田彦の前で半裸となって対面し、猿田彦の心をひらく。これにより猿田彦は天孫の一行を筑紫の日向の高千穂の国へと案内する。これもまた女性の性の力と眼力を用いる古代の呪法のひとつであった。この故事により、猿田彦と天鈿女命は結ばれ、伊勢の国へと向かい、猿田彦は境の神・先導神=道開きの神、航海神・縁結びの神など多様な神格を獲得して日本列島に遍く分布する民衆神となる。天鈿女命は「猿女君」として宮中の芸能を司る職掌となるのである。「御巫」とは、そのような天鈿女命の呪術的な儀礼を引き継ぐシャーマン的芸能者であった。
その後、御巫の役割は多様化し、神社直属の巫女、漂泊の技芸者、河原者・歌舞伎者など呼ばれる芸能者等へと変容するが、「神楽」における天鈿女命の役割は男性の神職・舞人が受け持つようになり、「女面」の舞へと変化するのである。ここに芸能史と女性芸能の歴史、女面の発生の謎などが隠されている。
山梨岡神社の「天鈿女命の舞」は、このような女性芸能の歴史とその変遷・変容などを念頭においてみると、大変興味深いものとなる。結論を急ぐことはない。ここに貴重な事例がひとつ、生きて伝えられているのである。
「岩戸開き」では、八百万の神々が岩戸の前に集まり、手力男命が岩戸を開く、いわば定型どおりの岩戸神楽だが、天鈿女命の舞は記紀神話で描かれるような半裸の舞ではなく、御幣を捧げて御神屋を清め、神々の先導をする形で登場し、扇と鈴を持って舞う。これこそ、宮中における御巫の舞のかたちを伝える舞であろう。正面に座る少女が天照大神役。ここでも女面は使用されない。
御幣を正面に捧げて身を深く沈め、御幣を床に付き、またその御幣を捧げる所作を繰り返しながら、神々を先導する。
「岩戸」とはべつに単独の「天鈿女命」という演目がある。舞の所作は「岩戸」とほとんど違いはないが、きりりと緊張した面持ちの少女が舞うので、その可憐さと呪的効果が際立つ。古代の女性シャーマンの舞とは、まさにこのようなものだったのだろう。
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山の神に守られた土地
「山梨岡神社代々神楽」の主祭神「大山祇命」(山の神)である。
山梨岡神社は甲府盆地の東方・笛吹川の上流域に鎮座する神社であることから、
この黒い山の神「大山祇命」がこの地方の地主神であることがわかる。この日は武田神社の祭礼に
招かれての公演であるから主祭神の登場はなかったが、「岩戸開き」の場面だけ、八百万の神々
とともに並んでいたので、拝見することができた。
写真は祭り終了後に撮らせていただいたもの。
祭りの後、躑躅ケ崎館跡を歩いた。信玄公や諏訪の地から嫁いできた由布姫が歩いた道がその面影を残し、
輝くばかりの緑が涼しい影を落としていた。武田信玄公や軍師山本勘助、信玄の諏訪支配により嫁入した
諏訪・大祝(おおほうり)の娘・由布姫などの物語についてはあまりに良く知られているので記述を割愛。
道の前方に富士を望み、城跡の裏山は、笛吹の山へと続く広大な山脈。
この地もまた山の神に守られた土地だったのであろう。
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甲斐の国のヤマメに逢いに行った
甲府市武田神社に奉納された「山梨岡神社代々神楽」が終わった後、甲斐の国のヤマメに会いに行った。
甲府盆地には、扇の要に向かうように三つの大きな川が流れ下っている。甲斐駒ケ岳の西側を廻って、盆地の西北端を流れる釜無川。昇仙峡と呼ばれる奇岩累々たる峡谷から流れ出て、甲府市の西郊を貫く荒川(東京都内を流れる荒川とは別)、大菩薩嶺を源流とし、盆地の東側を流れる笛吹川。この三本の川が合流し、富士川となって駿河湾へと注ぐのである。
笛吹川には、渓流釣りをこよなく愛した文士・井伏鱒二が訪れている。俳人・飯田龍太の故郷でもあり、龍太は終生、笛吹川の流域を句作と釣りの拠点とした。甲斐の国を訪ねるならば、この笛吹川の畔に立ち、ヤマメまたはイワナの魚影を追ってみたいものだと昔から私は思い続けてきたのだ。だが、この日、神楽が終わった時はすでに夕暮れが近く、笛吹川に着く頃には日が
暮れていますよ、という地元の人の助言があったので、荒川上流の昇仙峡を訪ねることにした。
昇仙峡は、巨大な岩峰が連続し、山となり、雲が湧く景勝の地だった。巨岩の間を激流が流れくだり、水流が岩に当たって飛沫をあげていた。川沿いの道を遡行すると、水晶や鉱石を売る店があった。この山塊から、武田軍団を支えた鉱物や甲州金
などが産出されたのだろう。咲き始めた山桜の花と満開のミツバツツジが渓谷の夕暮れ時を華やかにした。
私はこの旅では釣具を持ってきていなかったので、「眼で釣る」という秘儀で甲斐の国のヤマメを攻めることにした。
「眼で釣る」という釣法は、以前、このブログの「仙人の釣り方」で紹介したが、竿を持たずとも、水の流れに沿って眼で魚の動きを追い、ここぞ、という時に指先をついと上げて、魚を釣った所作をする、と、その瞬間、水面で魚が跳ねている、というバーチャルな釣り方である。まことの仙人ならば、その獲物が岸まで届くこともあるかも知れぬが、私はまだその境地にまでは達してはおらぬなまくらの仙人なので、実際にこの釣り方で魚を得たことはないのだ。しかしながら、この日は竿も糸も鈎も持っていないので、この釣法を操るしか魚に向かう方法はない。というよりも、この甲斐の国の神仙の棲家のような川辺に立ち、魚影を確認しさえすれば、私はそれで
満足なのだ。なにが何でもここで獲物を得て持ち帰る、という心境で川辺に立っているのではない。
少し渓谷沿いの道を歩いた後、水辺に降りてみた(写真左隅の点景人物が筆者)。水量は多く、流れは速い。が、ところどころにゆるやかな流れや浅瀬があって、たしかに魚の気配がある。黒っぽい小さなカゲロウも飛んでいる。
そのカゲロウの行方を眼で追い、水際に虫が近づいたとき、指先が少し反応した。
―いまだ!!
その瞬間、パシッ、と小さな水音がして、魚が跳ね、虫を捕らえて反転する姿が見えた。
釣り師の心の中では、その魚はすでに釣れている。
たしかに、この川のヤマメと、私は対面した。
帰りのバスの窓から、笛吹市内を流れる笛吹川が見えた。それは故郷の川(大分県日田市の花月川)に良く似た静かな川であった。昔は、この川が黒くみえるほど、あるいは銀色に光って見えるほど、鮎が遡上してきていたという。そして上流には、尺ヤマメが手づかみにするほどいたという。木の枝を削って岩の上から投げると二、三匹の大物が串刺しに獲れることさえあったという。それも故郷の川に似ている。いつかまた、この地を訪ねる機会があるだろう。その時は、準備万端整えてきて、川辺に立とう。竿を振り、流心を流れいてた目じるしがふっと止まり、合わせた瞬間、ガツンと手ごたえがあり、竿が撓り、糸がヒュンと鳴り、銀色に光りながら
水の中から抜き上げられた魚が手の中でビチビチと跳ねる、本気の釣りをすることにしよう。