◆だいやまーく立岩 真也 2021年10月25日 「生を辿り途を探す――何がおもしろうて読むか書くか 第15回」
http://www.arsvi.com/ts/20210015.htm
『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』130:-
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■しかくもとを載せる
なかで私が大切だと思うのは、記録そのものを残しておくということだ。研究者という人たちは、自分の論文であるとか著書だとかに、自分が行なった調査の一部を使うということをしてきた。記録はそこの引用などに現れる。
しかしまず一つ、そんなかったるいことをやらないと残らないというのではまったくまにあわない。大学院生だと、書いて審査(査読)に通るのはまあ一年に一本だ。その査読→掲載にもだいたい一年ぐらいはかかる。
そして、長く論文の指導やらで論文の原稿と調査の記録の双方を見ることになるので実感するところなのだが、そうして苦労して書かれた論文より、「もとの話」のほうがおもしろいと思うことがよくある。へたな「筋」や「おち」をつけようとがんばるより、「もと」を見せてよ読ませてよと思うことがある。いや、上手であってもだ。一人の話、一人の人生については、つねに複数の解釈がありうるし、あってよい。複数ありうるためには、どちらがもっとも【かと】考えるためには、「もと」が読めるのがよい。
もとのデータを公開するというのは、量的な調査についても、結果の出し方の妥当性を検証する上でも、大切なことのようになっているようだが、これは統計的な調査に限らないことだ。しかも、こちらのほうが大切だと思うのだが、その記録は、研究のためだけに読まれるものと決める必要もないのだ。だから、もちろん本人が了解了承すればだが、誰にでも読めるものにしようと思う。
録音し、それを業者に頼んで文字にする、話し手に見てもらいなおしてもらって、掲載する。やってみるとわかるが、これはこれでなかなか大変だ。自分が話したことは何でも素晴らしいと思えるほど自己肯定感の強い人はそういない。話したなかにはなおしたいと思うところもあるが、どうなおすか、思いつかない、めんどうだということもある。そう思って、手をつけるのもおっくうなことがある。そこでしばらくほっとく。するとそのうちほんとうに忘れてしまう。そんな具合にそのままなくなってしまう。
公開までの過程を途中で止めず、なんとか最後まで持っていく。私はそういうまめさに欠けている。だから、確認したり催促したりする人に付いてもらって、作業を進める。まだ試行段階だが、そういう態勢をとりつつある。
その記録が八月十日現在一八〇。話し手の名前を記す人も記さない人もいる。どちらでもよいと思う。研究者が聞き手になることもあるが、それもいろいろありうる。いま進めてもらっている企画には、慢性疲労症候群の人が慢性疲労症候群の人に聞くというものもある。受け取りますということなら、話し手と聞き手と双方に謝礼を支払うようにしている。
まずいくつか読んでみてください。名前五十音順、その後匿名のものを並べている。この辺の工夫も必要と思っている。
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◆だいやまーく声の記録(インタビュー記録他)
http://www.arsvi.com/a/arc-r.htm
※(注記)生存学研究所のフェイスブックにあるこの文章と同じものは
http://www.arsvi.com/ts/20212762.htm
にもある。
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◆だいやまーく立岩 真也 2020年11月11日
「私たちはそういうことにあまり慣れてないのだが」,
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◆だいやまーく立岩 真也 2021年03月10日
『介助の仕事――街で暮らす/を支える』,ちくま新書,筑摩書房,238p.