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アイリス・ヤング集中講義のためのメモ・3

立岩 真也
2004/01
アイリス・ヤング集中講義


cf.ヤング先生の予告

January 28 - Hierarchy and the Division of Labor


The occupational structure in most societies in the world today traps many people in lower paying unskilled occupations. Some people would suggest that such a hierarchical job structure is not unjust as long as there is equal opportunity for class mobility. I will disagree. A division between "mental" and "manual" labor is itself unjust. Workplace democracy would alleviate but not eliminate such injustice.

Readings:

だいやまーくIris Marion Young, Justice and the Politics of Difference, Chapter 7
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db1990/9000yi.htm
第7章についてはごく短い紹介がある。
だいやまーくMichael Walzer, Spheres of Justice, Chapter 6
翻訳がある。原著も学而館1階にある。1月19日に報告あり。
だいやまーくIan Shapiro, Democratic Justice
図書館から借りた本が学而館1階にある。




しかく生産(のあり方の変更)・対・消費(点における分配...「再分配」)

分配的正義についての議論は、生産/消費の課程において、消費の部分に焦点を当てている:貨幣の分配→(消費)財の購入をもっぱら問題にしていることを指摘する。*

* この指摘が例えばロールズに対しては当たっていないという指摘はいちおう可能である。
「☆08『現代思想』[2002b]はこの手の雑誌としては珍しく税を特集した。その中で関[2002]は「再」分配の限界を言い生産財の分配の必要を主張している。なおロールズの論は、よく誤解されるように専ら「再」分配を行ういわゆる福祉国家支持の主張ではない。『正義論』で言及されている「財産所有民主制」(Meade[1964]、cf.川本[1993])の案がそのフランス語版序文(Rawls[1987=1993])等に至ってより具体的に示され、さらに「リベラルな(民主的)社会主義」の案も併記されることになる(Rawls[2001])。その論の紹介として伊藤[2002:217ff.]。cf.渡辺[2002]。」(『自由の平等』第◇章注8)

それに対してヤングは、生産過程に注目することを言う。「分業(division of labor)の構造と意味を感じられる仕事につく権利に対する関心」(p.20)

January 28 - Hierarchy and the Division of Labor
についてのヤングの文章を参照のこと

ヤングは、分業の構造を変えていく必要があると主張する。分業全般を否定するのではないが(『正義と差異の政治』第◇章)、指揮・命令する側/される側という垂直的な分業についてはこれを否定する。

これはあきれるほど正統的・伝統的な?指摘であり、しかし、やはり当たっている、というかこのことから考えていく必要がやはりあると思える指摘である。
(私もまたこんな主題を考えることから出発したのだともいえる。cf.真木悠介『現代社会の存立構造』)

ただ、これは労働全般について考えるということに他ならない。とても大きな問題である。これからの課題だが、いま概略以下のように考えている。
cf. 立岩『自由の平等』序章第3節4「労働の分割」&第3節5「生産・生産財の分配」

しかくなぜただ受け取るのでなく、労働の場への参画、労働の場における意志決定への参画が大切だと考えるのか。
一つは、仕事に対する関わりという側面がある。自らが主体的、能動的に仕事に関わりたい(のだが垂直的分業のもとではそれができない、あるいは困難だ)というのである。

1)組織全体を掌握すること、すべての決定に関与すべきである、あるいはそのことを(実はすべての人が)望んでいる、と考える必要はない。組織のことは学科長がやってくれ、私は関わりたくないということは(むろん、その結果自らにとってよくないことが生じない限りにおいてではあるが)あるだろうし、あってよいだろう。仕事に「甲斐」を考えることはあってよいが、なければならないと決まってものでもないということである。

ただしこのことは、すべてについて他律的であることがよいということを意味しない。多くの場合私たちは、何らかの裁量の余地があることの方をよりよい状態だと考える。

2)(垂直的分業を含めた)分業による生産性の増大という関連は(それをどの程度の大きさに見積もるかという問題はあるにせよ)存在すると考えよう。指揮命令系統の有無、その形に生産は依存する。その限りで、分業による利得はある。

3)とすると、分業について2)の利得と1)の利得・損失とをどのように計算するかということになる。
小さな組織で自分の裁量の大きな仕事をするか、それとも大きな組織で決まった仕事をする(代わりに前者より多くの給料を受け取る)。基本的には各人の好きなように...ということになる。
しかし問題は残る。これらのいずれにもまったく手を出さないのか、それとも(大きくて官僚制的な組織/小さくて自主管理的な組織の)いずれかの方をより重視することにするのかである。

4)少なくとも(仕事をすることに意義が見出されるために)仕事を得ようとすることについて、私は、(次に記す理由を含めて考えたとき)それが積極的に支持されてよいと考える。

しかく理由2:分配では足りない

もう一つの問題はこれとは相対的には独立した問題であり、すなわち、分配が十分になされるのであれば分配だけでよいのだが、しかし、実際には「再分配」だけでは分配は十分になされない、ゆえに生産点における分配が必要であるという主張である。
これもまた大きな根拠になる。

こうして生産の場はそのままにしてあとは所得の分配で対応するという方向は批判されることになり、生産の場自体のあり方の変更・変容が求められることになる。
この点でヤングと私は基本的に同じ。ただ、強いて言えば、労働(のあり方を自らが管理し決定すること)に対してかける重さについて、ヤングの方が若干重いということは言える。(例えば私の立場では、人に使われ、言われた通りに働くということが、「本来は」よからぬ人のあり方である、とはならない。)

しかく

気になるのは、この(日本の)社会では「能力主義」という語によって示されてきた事態をヤングはどのように捉えているのかである。 『正義...』では第7章でこの主題にふれられているようである。
(その前にこの本で、「障害者」(disabled)が、かなりの頻度で他のマイノリティと並列させて登場するのは、私は他の文献ではあまり目にしたことがなく、特徴的であるように思った。cf.「メモ・4」)

「業績イデオロギーと反対に、私は能力=資格の規準を作り使う決定が民主的になされるべきであることを主張する」(p.212)
さすがにこれだけ言っても仕方がないと思ったのだろう。「公平さ(fairness)」によって民主的な決定は制約されると言う(p.212)
1)規準は明確で(explicit)で公的(public)なものであること
2)どんな社会集団も排除しないこと
3)候補者は公に発表されたきちんとした手続きのもとにおかれること
4)特定集団の優遇は、抑圧の軽減や、不利益の補償のためになされること(p.212)

あとで紹介するADA(米国障害者法)についての文章を読んでみても、ヤングの基本的な立場は、できる/できない(その職にふさわしい/ふさわしくない...)の選別を雇用主に委ねるべきではないということになる。その代わりに、民主的にと言う。むろんこれに対しては、えっ?という疑問がすぐに投げかけられるわけで(cf.「メモ・1」)、それに対して、ヤングは上記したような「公平さ」という原理をもってくるわけである。
私はこれに反対ではない。むしろ必要だと思う。こうした路線は「同一労働・同一賃金」というフェミニズムの主張にも沿ったものである。(そしてヤングの場合には、労働の分業のあり方自体を問題にするのだから、さらに先に論を進めているとも言える。)
ただ、あとで紹介するADAとの関連で考えていっても[続く]

しかくしかく分配に伴って現われる(とされる)問題をどう考えるか。

しかく「スティグマ」

以上は(あとで述べる「差異の政治」にも関係するが、またフレイザーとの間の「再分配と承認のジレンマ」を巡る論争?にも関係するが→「メモ・2」)「スティグマ」の問題にも関係する。
分配は「福祉の受給者」というスティグマを負わせることになるのだと言う。このようなことが事実存在するのは事実である。しかし、だからこれはよくないと考えることが基本的に正しいのかどうか。私は正しくないと考える。その理由は簡単で、社会的分配を受ける側であることに負の価値が付与されることの方が間違っていると考えるからである。
ただ、この現実がなかなか動かせないものとして事実存在するとしよう。その場合に、ある範疇の人たちが劣位に置かれること、置かれ続けることはある。仕方なくでもそのことを事実として認めざるをえないとしたら、別の方法を考えた方がよいということにはなるかもしれない。
先に記した理由によっても「再分配」だけでよいということにはならなかった。だから、生産の場の編成の変更によって、そこでの仕事、報酬が変わることは支持され、それが実現するなら、その結果、この問題は減少するとは言えるだろう。[続く]


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