cf.ヤング先生の予告
January 29 - Ruling Norms and Basic Structure
What some writers refer to as issues of justice concerning recognition are best understood as matters of how dominant norms function to exclude, stigmatize or otherwise disadvantage some categories of people. I will focus on institutional racism, heterosexism and exclusion of people with disabilities from full participation in social and economic life.
Readings:
◆だいやまーくIris Marion Young,
Justice and the Politics of Difference, Chapter 5
この章「身体の計測−規格化と同一性の政治」の紹介はあり
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db1990/9000yi.htm
◆だいやまーくIris Marion Young,
Inclusion and Democracy, Chapter 2 and 6
学而館1階に本がある。
◆だいやまーくAnita Silvers "Formal Justice", Chapter 1 of
Disablity, Difference, Discreimination, Rowman and Littlefield
学而館1階に本がある。→立岩が借りました(20031229)。
Silvers, Anitaについてはファイルあり
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/dw/silvers.htm
◆だいやまーくMichael Warner,
The Trouble with Normal
学而館1階に本がある。
......
当初のリストには以下のものもあった。
◇Kittay,
Love's Labor, chapter,
1月の勉強会で紹介してもらう予定。27日の講義の文献リストにある。
◇Iris Marion Young, disabilities essay
ヤング氏の短い文章Disability and the Definition of Workのコピーがある。
この文章が収録されている本についてのファイルを作り短い紹介を置いた。
→
紹介
◇まず(上にも記したが)、Anita SilversとIris Marion Youngの文章の紹介、そこにメモがある場合にはそれを読んでもらいたい(ただし作成途上)。
http://www.arsvi.com/b1990/9800sa.htm
http://www.arsvi.com/b2000/0000fl.htm
◇ご存知の人はご存じのように、
「障害学」というものがあって、日本でも2003年の秋には
「障害学会」が設立された。
上記の2人が言っていることは、障害学で言われてきたこと――がそう一様というわけでもないのだが――とかなり近い部分がある。馴染みのある人には馴染みのある話であり、また納得のいく話でもある。
◇とともに、ここでも(いつもこういう話の進め方で恐縮だが)若干の違和がある。このことは上記のヤングの文章についてのメモにも記したことだが...。
◇「社会モデル」という理解の仕方があって、シルバースにしても基本的にそれに乗っているのだが、それをどう解釈するかである。
このことについて私が書いたのは、
2002年10月31日「ないにこしたことはない、か・1」,石川准・倉本智明編
『障害学の主張』,明石書店,pp.47-87
第9節より一部引用
「9 補足1・「社会モデル」の意味
このように考えてくると、「医療モデル」「個人モデル」と「社会モデル」とをどのように解することができるか、おおよそのことが言える。
社会モデルの主張が意味のある主張であるのは、それがその人が被っている不便や不利益の「原因」をその人にでなく社会に求めたから、ではない。少なくともその言い方は不正確である。医療モデル・個人モデルが「足がないからそこに行けない」と主張するのに対し、社会モデルは「車椅子が通れる道がないからそこに行けない」と主張するという対置は、わかりやすそうだが、正確ではなく、かえってわかりにくい。目的地に着くことが可能になる条件としてはどちらもそれなりに当たっている。問題は因果関係ではない★22。
次に、なにかを実現する(たとえば目的地まで行く)ためにどのような手段を用いるか、それ自体にも問題の中心はないと考えるべきである。[...]社会モデルの主張をまちがって受け取ってしまうと、環境によって対応することはよいが、なおすことはよくないことだという主張だということになってしまう。そう主張しなくてならないことはなく、むしろ別の言い方をしなくてはならない。それぞれの選択肢について、なにを支払わなければならないのか、なにが得られるかを考えるべきだと第4節で述べた。
核心的な問題、大きな分岐点は、どこかまで行けるという状態がどのように達成されるべきかにある。二つのモデルの有意味な違いは、誰が義務を負うのか、負担するのかという点にある。つまり対立は「私有派」と「分配派」(立岩[2001-2002])との対立としてある。社会モデルはそれは個人が克服するべきことではないとする。問題は個人、個人の身体ではなく社会だという主張は、責任・負担がもっぱら本人にかかっていること、そのことが自明とされていることを批判する。」
◇もっと直截に言った方がよいのかもしれない。日本の障害者の運動の一部は「できなくてもよい」という居直り方をしたのだが、このこととどうなのか、である。
cf.1998年02月01日「一九七〇年」,『現代思想』26-2(1998-2):216-233 70枚
→立岩
『弱くある自由へ』(青土社,2000)に収録
「そして彼らはやがて無理して働くことはないのだと言うだろう。生活保護や年金の「ただ食い」の暮らしでよいのだと言うだろう。
考えていけばそうなるはずだと、それを知っているかと、七〇年の彼らは九〇年の人達に言う(としよう)。助けがあれば「私はできる」「不利を被らない」とはどういうことなのか。「暮らしていける」ということなのか、「働ける(稼げる)」ということなのか。あのモデルを、「社会」が私の生活を支えるなら私は生活していける(不利益がない)という具合に捉えるなら、七〇年の私達と矛盾はしない。しかし、少なくとも労働が買われる市場の内部で、たとえ「社会」が私の労働について――市場内部の計算で、あるいは社会的費用/便益計算によって、さらにはそうした計算を外して――便宜をはかったとしても、私は人並に働き稼ぐことができるようになる(社会的な不利がなくなる)とは言えない。そしてそのことにこだわる必要もまたないはずなのだが、と言うだろう。」
「ADAがあればみんな能力を発揮できるようになり、税金を払えるようになる――「社会モデル」は、受け取りようによってはこれに似ている――といった脳天気な言い方でない、市場に対する、能力主義に対する対し方があったはずだ。だが、その道を探るためにも、いったんは「できない」ことについて考えることが必要だったと思う。そして彼らはそれを行い、そしてその後、少なくとも途中まで行ったのだとは思う。」
◇私の立場は簡単なものだ。できる人はできればよいが、それはできる人がとれるということではない。基本的には、両者を切り離す。そして働ける人は働く、必要な人は取るということにする。と、ひとまず単純に言うが、そう簡単にものごとは運ばず、ゆえにいろいろ考えたりすることは残るのだが。
この立場から見たとき、批判者たちは批判する相手の社会にまだ未練?があるように見えるというか...。
◇どのように批判し、何を対置するか。ヤングは経営者による決定に替えて(労働者たちの)民主主義を、と言う。こうした主張をあまり馬鹿にしてはならないと私は思うが――
熊沢誠の本などを読んでみても、欧米?の労働者たちはこの国の労働者たちよりきちんと連帯を重んじてやっているようだ――それにしてもなかなか、という感じは残る。
メモ1に記したことにも関係することだが、民主主義はよいとして、それはそれとして、何があり方としてよいと考えるのかを言っていけばよいのではないかと思う。
◇またシルヴァースは、「障害者が暮らすために(より多くの)資源がいるから、やはり障害はない方がよい、障害者はいない方がよい」という主張に反対するために、「」内の分の前段を否定しようとしているように見える(まだきちんと読んでいないから、違うかもしれないが、とりあえずそう読める)。もちろん、実際に費用が(そう)かからないのであれば、かからないと言えばよいのではあるが、しかし、この議論のもっていき方はこれでよいのだろうか。
その人は差異としての障害といったことを言うのであるが、結局、ある種の同化、というか、アメリカ合衆国の主流から、基本的には、それていないということにならないだろうか。またより現実的には政府支出の「膨張」の抑止に対して肯定的な言説として作用してしまうところがないだろうか。私は日本の障害者運動の「ものとり主義」を支持してきたし、それは今でも、どんな書きものを読んでも、まったく変わらない。cf.
介助 2003 (以上2003年12月30日) もう少しだけシルヴァースの書いたものを読んでみたのだが(上記したファイルにメモを追加した 12/31)、やはりその感は拭えない。...。
言わんとしていることがわからないわけではない。障害者を弱者と規定し、サービスの必要な人と規定し、サービス供給側によって必要な人とし(必要な人とされ)、結果、......。それに対して、自分たちには(しかるべき条件があれば)できることがたくさんあるのだと主張し、自律性を主張し、...という流れは、国際的な障害者運動の流れ、自立生活運動の流れの中にたしかにあり、そして同様のことをこの国(日本)における運動も言ってきたのではある。(cf.
「自立・自立生活(運動)」、
自立(生活運動)・米国)そしてこういう主張に対して、「いやそうは言ってもできない人がいるでしょう」という言い方は、むしろ、(自らの仕事が奪われることが心配なのだろうかと疑われるほどに)供給者・専門家筋の人たちによってなされてきた。それに対して、そうではない、(こういう場合にすぐ持ち出される)知的障害の人にしても(しかるべき条件があれば)自分で決めてやっていけるのだという反論がなされたのだし、その反論は正しい。(上記した
『弱くある自由へ』所収の文章でもこのあたりにふれている。)
そうしたことをふまえた上で、しかし、やはりついていけないところがある、と私は思うところがある。
私は「機会の平等」を否定しないし、「環境を等しくすること」(Equalizing Environments シルヴァース 126頁〜)に賛成するけれども...(続く)
UP:20031229(別ファイルの一部から作成) REV:30,31