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筋ジス病棟バーチャル患者会からの活動報告

筋ジス病棟バーチャル患者会

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last: update: 20241129

だいやまーく筋ジス病棟バーチャル患者会 2024〜 「筋ジス病棟バーチャル患者会からの活動報告」
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筋ジス病棟バーチャル患者会からの活動報告

202411

井上 武史 2024年11月25日 「松田貴郎ヒストリー 幼少期編」

みなさま 「筋ジス病棟バーチャル患者会」の松田さんが自分史をブログに掲載しています。 連載になるので楽しみにしてください。 山谷さんが亡くなって、これまで山谷さん任せにしていたのをみなさんが自主的に色々始めていて、ようやく灯ったこの火を消すまいとしているのを強く感じます。ぼくも精いっぱいバックアップしようと思います。 井上 ------------------------------------------------------ 僕は1977年10月10日に山口県山口市の佐山に生まれました。 母方の祖父母、両親、兄二人、僕の7人家族でした。 祖父は配管工、父は製パン会社の洋菓子部門で働いていました。母はおもちゃ屋さんでアルバイトをしていました。 父が「三人目は女の子がいい」と望んでいた影響か、三歳くらいまでは赤い服を着てる写真が多いです。 子供の頃のことは割と良く憶えています。 筋ジスだとわかったのは運動機能の発育の遅れや歩き方、よく転ぶなどの兆候があったことと、下の兄にも同じ兆候があり、兄は検査を受けてすでに筋ジストロフィーと診断を受けていたので「おそらく弟さんもそうでしょう」という医師の見立てでした。 その後は紹介された広島県廿日市市にあった国立療養所原病院まで外来とリハビリテーションの定期検査を、年に二回ほど受けに来るようになりました。 https://note.com/kinjisu_project/n/n726ca060c0a4

井上 武史 2024年11月05日 「新潟病院 山谷一芳さんお亡くなりになりました」

みなさま とても悲しいお知らせです。 新潟病院の山谷一芳さんが先日木曜日にお亡くなりになりました。1965年3月27日生まれの59歳でした(ひょっとしたら一年ずれてるかも知れません)。新潟県三条市の出身でした。 ちょうどここに今年の誕生日の少し前の投稿があります。この自己紹介どおり、病院に入院しているというコンディションでありながら前向きに人生をとらえ全うしたと言っていいでしょう。 https://note.com/kinjisu_project/n/nd4ff96d7cd1b 肺炎になり、39度の高熱が続いたのが今年6月最初で検査をすると言って、そのまま私たち「筋ジス病棟バーチャル患者会」がメッセンジャーで毎日挨拶を交わすチャットグループから姿を消して、みなとても心配したのですが、三週間ほどしてひょっこりまた現れたので、さすが山谷さんの生きる意志はちょっと人とは違うんだなと思わせていました。 今回もひと月ほど前からいなくなっていたのですが、ぼくもみなさんもおそらくまたひょっこり姿を表すと思っていたはずです。しかし奇跡は二度は起こらず帰らぬ人となりました。チャットに残した最後の言葉は9月27日朝の「人生を食らっています」でした。 それほど長くはないあいだにとてもたくさんのことが起こったので、どうやってここまで来たのか忘れてしまいそうなのですけど、振り返ると、まず亡くなった立岩先生から「筋ジス病棟の未来を考えるプロジェクト」の歩みを辿る原稿を書きませんか?という誘いがあり、それはとてもやりたいことだったのでしたが、ぼくはプロジェクトそのものとは距離を置いていたので、どうせ書くならまた動かさないとと考え久しぶりに全体会議に顔を出したのでした。 そこには山谷さんも参加されていて、その日かあまり時間を置かずに「私は地域移行ではなく、病院を良くしていこうという立場ですが、意見を聞きたいので一度お話ししませんか?」というメッセージをもらったのでした。 ぜひということで最初にzoomをしたのが去年の5月12日でした。そこで、三条市に生まれ6歳頃から転ぶようになったという筋ジストロフィーの方からよく聞くような話を聞きました。同じようなミーティングを2回ぐらいやってたっぷり山谷さんの人生を伺いました。 山谷さんがとても社交的で、ネットワークをたくさん持っているのがわかったので、ぼくはこうした会をもっと色んな人を誘ってやらないか訊いたのでした。山谷さんは出来ると言ったので、この会はまず、「山谷・井上の語りの夕べ」と題して各地の病院に入院しているみなさんの人生を聞く会として始まりました。これは現在も継続してつづけています。 「語りの夕べ」というネーミングのとおりその頃は一日のケアが終わる7時頃から始めていたのですが、終わってもそのまま消灯まで居残って病院の不満を語る会のようになって来たので、それが現在の「筋ジス病棟バーチャル患者会」となるにはそれほど時間はかからなかったはずです。現在プロジェクトは支援者が主役になるような本末転倒な状況がつづいていますが、ぼくは2019年2月にプロジェクトを立ち上げたときから病院の中の運動を組織するという明確なアイデアを持っていましたから、これは渡りに船だったわけで、ようやくそこに辿り着いたのでした。 7月に立岩先生が亡くなり、追悼会の準備が始まると当然ながらバーチャル患者会として何か出すことが考えられ、そこをこの会のお披露目にすることにしたのでした。 https://vimeo.com/907144004 山谷さんはこの後NHKの番組にも出演しましたし、晩年に近づくにつれて活動が活発になるようでした。しかし山谷さん、そしてバーチャル患者会が目指すような病院、そして社会のあり方を変えるにはまだほど遠く、山谷さんには申し訳ない思いで一杯です。 現在バーチャル患者会では、北海道で実現しているような出入り自由な病院を他の病院でも可能にというのを目指していますが、山谷さんもまさにこれに乗って重度訪問での外出を準備しようとしていました。非公認柏崎市観光大使を自称していた山谷さんが観光大使の仕事して家に帰るように病院に帰れたらどんなに素敵だったかと思います。 ぼくにとって山谷さんを亡くすのは、コスタリカでいっしょに働いた代表だったルイスを亡くすのと同じような思いです。もう少し生きていっしょにいてほしかった。悲しみと後悔を抱えています。 ご冥福をお祈りします。 井上

202410

井上 武史 2024年10月31日 「10/13 北海道医療センター訪問報告」

みなさま ちよっとぼやぼやしていたらもう二週間以上経ってしまいました。 10/13(日)に3回目の北海道医療センターの訪問に行き、村上英樹さんら入院されている方に面会して来ました。最初が4月の最初、そのとき何となく次は三ヶ月後と言って帰ったので、7月、10月とだいたいこんなペースで訪問し今回が3回目となりました。 こんな風に定期的な訪問にするつもりは当初はなく、現在「筋ジス病棟バーチャル患者会」に参加されているみなさんの、新潟、金沢、広島、旭川などもにも行けるとよかったのですが、今現在までコロナ禍による面会制限がなく自由に会いに行けるのが北海道だけで、結果的に北海道のみなさんに会いに行く定期的な訪問になっています。 しかし、昨年の10月頃から、病院が重度訪問の制度を使い患者さんたちの外出を始める準備をしているという情報が回って来て、実際に始まったのが5月、ちょうどこの準備を追っかけ、結果を確認しながら面会をつづけるというふうに定点観測をすることになりました。以下その簡単な報告です。 かつて八雲病院時代あった二つの病棟は現在、2階と3階の病棟という風に分かれており、それぞれ別々の方針で管理されています。3階の患者さんの方が重度の方が多いためと思われますが、この外出は主に2階を中心に行われています。といっても、2階の患者さんには認められない外泊が3階のある患者さんには認められているというケースもありすべて一様には語れない部分もあります。 5月から外出が始まり、先日の面会の時点でちょうど半年くらいの期間この病院による外出支援はつづいていますが、2階の患者さんはもうほぼこの外出を体験しており、多い人では10回以上出ていると言います。平均して月に2回程度の外出、多いと3回になるが毎週出るほどにはならないという印象でした。 これに関わっている複数の介護事業所の中の一つ「道草舎」さんがインスタグラムなどで、外出の様子をお知らせしてくれていますが、ぼくがこの間面会に行って知り合った人たちが次々に出て嬉しそうな表情をされているのをみると、何だかこちらも同じような気持ちになって来ます。 事業所このように一つではないので、外出している患者さんたちがバッタリ出先で出会うこともあるようで、例えばあるショッピングセンターにこれまであまり見かけなかった呼吸器で車椅子に乗った人たちがうろうろしている光景を町の人は目にするようになり、これは街の風景すら変えていると言えるでしょう。 さて、こうやって話してくれる様子は明らかに生活に張りが出てきたとても元気そうな表情で、心なしか病院の雰囲気も明るくなったような気がするくらいでしたが、7月に訪問したときにはまだとりあえず外出出来て嬉しいというレベルだったものが、次の段階に入ったから分かるという点もいくつか見えて来ていました。 まずは、外出と言えども許可が出て、出ている間はその人の時間と完全に言えるわけではなく、基本的に病院の管理下にあります。病院内でケアが終わりそれぞれ自由に使える時間に出かけるので、必然的に日中の3時間くらいで行って帰ることになります。この外出の流れの先陣を切った青木さんがモー娘。のコンサートに行ったもののエンディングを諦めて帰らなくてはならなかったのはそのためでした。 同じように呼吸器を使用している患者さんが外出時に飲食をすることも出来ず、病院の仲のいい友人で出かけたり、ご兄弟で出かけたりが出来るようになってそれはすばらしいことですが、そこでいっしょにお茶を飲んだり、ご飯を食べたりというぼくらがふつうにしていることがまだ出来ない状態です。青木さんはこれを突破すべく今年病院とも話して来ましたが今年は時間切れとなりそうです。 「筋ジス病棟バーチャル患者会」では、患者会のみなさんのようなケアの多い人でもより多く自由な生活が出来るように地域と病院の境界を曖昧にしてグレーな領域を構築していくことを目指していますが、このように外出の回数は飛躍的に多くなったとは言え、枠組み自体はそのまま残ったままであることがわかります。この境界を曖昧にするには、外部の事業所のヘルパーが、病院の外で呼吸器の管理が出来たり、逆にヘルパーが病院の業務を変わってやれるようになることが必要ですが、なかなかそこまではだどり着きそうもありません。とはいうものの、外出から帰り、その流れで着替えを事業所のヘルパーさんがやったこともあるらしく、気がついたらそういうのが当たり前になっているかも知れません。 上のような課題がクリア出来れば、北海道の病院のみなさんには、外泊、旅行を伴った外出とぐっと重度の高い生活が見えて来ます。また、残念なことにこれは全国でも、北海道医療センターが突出した形でやれているだけで、他の病院ではまだ面会規制すら解けていないことを繰り返しておかなくてはならないでしょう。 患者さんによるピアのサポートを広げ、これからもバーチャル患者会は活動をつづけていきます。 井上

松田 貴郎 2024年10月03日 「筋ジス病棟バーチャル患者会からの活動報告」

皆様、お疲れ様です。筋ジス病棟バーチャル患者会の松田よりバーチャル患者会活動報告です。 先日、9月29日14時から「語りの夕べ」を行いました。今回は新潟病院に入院されている羽豆和幸(はず かずゆき)さんヒストリーでした。 まず、僕はずっと「はまめ」さんだと思っていましたが「はず」さんだと知りました。羽豆さんは「一度聴けば憶えてもらいやすい」と言われていました。 羽豆さんは出身が佐渡島なのですが、生まれは青森県三沢市なのだそうです。 生まれて退院して家に帰ってから、お母さんが「ミルクが飲みにくそう」「よく口から出している」等の異変に気付かれて、大きな病院で東北大学の医師を呼び詳しく検査をして「先天性筋ジストロフィー(非福山型)」と診断されたそうです。 その後はリハビリを受けつつ、カトリックの幼稚園に通園されながら、三歳の時に佐渡へ引っ越されました。 佐渡では障害を理由に地元の保育園に断られ、隣の地域からの働きかけで地元の保育園に入園が許可されたそうです。 羽豆さんは「リハビリを続ければいつか立てる」そう信じてリハビリに励みながら地元の小学校に通学していました。その頃に今も趣味で続けているプラモデル作り、彼のユーモアでもあるダジャレに出会いました。 僕にも経験があるのですが、イライラすると自分の体を傷つけてしまうこともあったと言います。さらには「もう立つことはできない」と気付き始めて、「いつかプロ野球選手になる」という夢を諦めて心を閉ざしていたそうです。 地域の中学校を卒業後、養護学校へと進学することにした羽豆さんはいろいろ考えた末に、「入院は嫌だなぁ」と思いつつ前向きに捉えて新潟病院併設の養護学校にしました。 そこで入院患者の明るい振る舞いを見て「なんでそうなれるのか?」と思い、やがて「まわりのせいではなく自分に相手に話しかける勇気がなかっただけだ」と気付いて「新たな自分になろう」と決意します。 その後は吹っ切れたように、運動会の応援団長を務めたり、行事では仮装や替え歌で周りを笑わせるようになりました。特に普通校では味わえなかったスポーツも学校生活も友達と同じルールでできるのが、何よりうれしかったと言います。 卒業後も「働くのが難しいなら夢を追おう」とお笑い集団「NAMARA」に手紙を送り、オーディションに参加、合格して「こわれ者の祭典」のイベントに出たのをきっかけにお笑い活動を始められました。 その頃から少しずつ呼吸器を使うようになり、25歳頃からは自分の体のことを考えてお笑い活動と車椅子サッカーをやめてプラモデル製作や動画編集などの趣味にいそしみながら、今も持ち前のユーモアで周りの人を和ませながら生活されています。 羽豆さんの話を聞いて感じたのは、彼は夢を持ちながら前を向いて努力してきたということです。 僕なんかは病気にかまけて怠けてしまいがちなんですが、特に怒りっぽい自分を変えていく努力はなかなかできることではなく、つい怒ってしまう僕にとってもユーモアで周りの人との関わりを和やかにする彼を見習いたいと思っています。 それに羽豆さんの座右の銘「障害者だって人間」「病気、障害は個性」を世の中が理解してくれるように、誰もが笑って暮らせる世界になるように筋ジス病棟バーチャル患者会は羽豆さんとともに活動していこうと思っています。 以上、バーチャル患者会メンバー・松田貴郎より活動報告でした。

202409

深田 博貴 2024年09月11日 「筋ジス病棟バーチャル患者会からの活動報告」

皆様、お疲れ様です。筋ジス病棟バーチャル患者会の深田博貴から、活動報告をさせて頂きます。 患者会は、先月25日に、「語りの夕べ」を行いました。今回は、長良医療センターに入院中の尾関泰一さんに、ご自身の31歳〜現在について、語って頂きました。 尾関さんが31〜40歳だった頃の出来事として、まず挙げられたのは、国立岐阜病院との統合に伴う建設工事です。工事により、一部の筋ジス病棟患者は、約9年もの間、仮設病棟での生活になったそうです。尾関さんはその対象ではなかったそうですが、当時の対象患者の生活への影響は、とても大きかったようでした。その後、現在の国立病院機構長良医療センターとなりました。 次に挙げられたのは、患者自治会の活動についてでした。2004年頃から、尾関さんが会の役職を務められました。担い手不足により、次第に会の役割は、療育指導室が果たすようになったそうです。また、行事も縮小化されたようです。ただ、患者側では、ボランティアによる、患者への個人的な支援の仕組みが作られました。 次に挙げられたのは、当時尾関さんが所属されていた、「sunrise」という病棟のバンドの話題です。1997年に他のバンドとの合同ライブを開催しました。これ以降、尾関さんご自身も、バンド自体も公の場で演奏することはなくなりました。その後の3年は、病棟の電動車イスサッカーチームへの応援がコンセプトのアルバムの制作に、主に作曲者として、携わられたようです。2001年、「sunrise」が初の院内ライブが開催し、尾関さんは受付を担当されたそうです。 尾関さんは、この頃の外出の思い出として、「sunrise」の先輩ソロライブや自動車関連の施設に行かれたこと、東海北陸地方の宿泊施設に泊まったことを挙げられていました。 尾関さんは、この頃の日常生活の変化として、電動車椅子を1スイッチ式で操作できるものに新調されたことや患者自治会の運用で、病棟内にインターネットLANが整備されたので、初めてパソコンを購入されたことを挙げられていました。 尾関さんが41歳〜現在までのの出来事として、まず挙げられたのは、病院・病棟の新体制移行への変化でした。2012年、新病棟に引っ越したそうですが、患者もスタッフも新しい生活に慣れようと必死だったそうです。また、思い出深い旧病棟が無くなったことに、尾関さんご自身は寂しさを覚えたそうです。 次に挙げられたのは、患者自治会の活動と新病棟移転についてでした。新病棟移転前、尾関さんたちは、新病棟への様々な要望をまとめて、要望書をつくりました。新病棟移転後、一部の要望は通ったものの、各地域の国立病院の再編の動きと同様、そこは病院機能強化が優先されたもののようでした。生活面でも、以前と比べて、制限が増え、この頃は、尾関さんご自身は、希望が持てなかったそうです。また、この頃以降、患者自治会の活動は、縮小されていったそうです。 尾関さんは、この頃の日常生活の変化や出来事として、ベッド上でテレビ視聴が可能となったことやご自身で金銭管理が可能となったこと、ご自身の病状の進行やご両親の他界等を挙げられていました。 最後に、尾関さんは、31歳〜現在までを振り返られて、特に大きな出来事として、パソコンやインターネットが使用可能となり、余暇時間が充実したものになっていることを挙げられていました。 私が、3回に渡って、尾関さんの自分史をお聞きして思ったのは、尾関さんは、どの時期にも、周りの環境がどうでも、ご自身の役割ややりたいことを、すぐに行動に移すことができる、素晴らしい方 だということです。 尚、筋ジス病棟バーチャル患者会では、SNSの「note」に情報を投稿しています。ぜひ、ご覧ください。 https://note.com/kinjisu_project/m/mdf3236ad96b6 以上、筋ジス病棟バーチャル患者会からの活動報告でした。

松田 貴郎 2024年09月11日 「筋ジス病棟バーチャル患者会からの活動報告」

筋ジス病棟バーチャル患者会の松田より活動報告です。 長良医療センターの患者であるバーチャル患者会メンバー・服部信浩さんから「起床時にメガネをかけてもらえない」という訴えがありました。 元々、服部さんからはバーチャル患者会加入以前より、筋ジス病棟オンライン交流会のメーリングリストに再三の訴えがあり、バーチャル患者会の方で力になれればと僕がFacebookを通じて連絡を取ったところからこの案件は始まりました。 バーチャル患者会として長良医療センターの院長先生宛ての手紙をしたため、要望書を作成。服部さんの了承を得た上で郵送をする方向で進めていました。 ちょうどその頃にバーチャル患者会メンバーがZOOMで話し合う機会がありました。 そこでメンバーから「その前にまずは病院にその問題を相談してみてはどうか」という意見があり、服部さんがまずは療育指導室に相談して様子を見ることにしました。 すると病棟側は理解をしてくれたようで、病棟師長から「メガネは身体の一部なので、希望時に装着してもらってください。もし応じないスタッフがいたら申し出るように」と意見交換会内で公言したそうです。 これは「大きな一歩」だと思います。しかし、以前からしてくれないスタッフは遠まわしにしてくれないとのことでした。 引き続き問題解決に取り組んでいきます。 なお、筋ジス病棟バーチャル患者会はメンバーを募集しています。 僕等の目的は筋ジス病棟の患者さんが少しでも自由に生活できるようにすることです。 最終目標は好きな時に退院、好きな時に入院できるようにすることです。 その大きな目標に向かって一緒に小さな一歩を踏み出してみませんか? 質問やメンバー加入希望はこちらまでどうぞ。 plhnavp(a)gmail.com →(a)を@に変更してください(注記)スパムメール防止のため いきなりのメンバー入りが気の引ける方は、お試しメンバーとして入って僕等の活動の様子を見てから決めてもいいですよ。 いつでも連絡をください。 筋ジス病棟バーチャル患者会 松田貴郎
松田さん どうもありがとうございます。 参考までに、松田さんの報告にあった送付されなかった要望書を添付いたしました。 たたき台を松田さんが作ってくださって、バーチャル患者会のみなさんで検討して病棟内の事情も加味して少しマイルドにしたバージョンです。 Nothing about us without us、 さすがに病棟内のことはみなさんよく熟知されていて、ピアサポートでさまざま意見が加わって最終的にあまりことを荒げずに一応解決に至ったかと思います。 たかが「メガネ」されど「メガネ」で、このプロセスで北海道医療センターの村上さんからは、病棟患者会と病院で交わした「取り決め」があり、そこには「メガネを装着すること」もちゃんと入っていることがわかりました。ちゃんと決めとかないとスルーされるからと村上さんはおっしゃっていました。 このようにまだ北海道では患者会が機能していましたが、服部さんの長良医療センターでは患者会が閉じられようとしていること、また金沢の医王病院では療育指導室の配慮で逆にあらたに組織されるような動きがあることもわかりました。 合わせて情報共有いたします。 井上

202408

永井 裕・松田 貴郞 2024年08月04日 「熊本再春医療センター永井裕7年ぶりにミスチルのライブに行って来ました!」

永井 裕より 2024年、令和6年、7月27日、土曜日、マリンメッセ福岡 僕が大好きなロックバンドMr.Childrenのライブに行きました。 7年ぶりでした。 3月に発表がありました。主治医から許可を貰いました。 4月にチケットを申し込みました。当選しました。 5月に病院の外出行事もあったから車椅子に乗る練習をしました。 6月に通信販売でグッズを購入しました。 7月に訪問看護と福祉タクシーを雇いました。 事前に病状を申し送りました。必要物品を揃えました。 運営会社の各所に連絡をしました。 沢山の準備や用意をして当日を迎えました。 会場に到着するとツアートラックの前で写真を撮影しました。思い出です。 入場したら少しして公演が始まりました。 ステージにメンバーが登場すると大興奮でした。 曲が流れると大感動で涙が少しずつ溢れました。 映像、照明、演出も綺麗で素晴らしかったです。 聴きたい歌もセットリストにありました。 コールアンドレスポンスも出来ました。 アンコールは観なかったけれど本編が全て観られました。 幸せな時間でした。 行き帰り、ライブ中、栄養、トイレ大きな問題もなく事が進みました。 行けて本当に嬉しかったです。とても楽しかったです。 今回の関わってくれた皆さんには感謝しかありません。 病院のスタッフさん、看護師さん、運転手さん本当にありがとうございました。 持ち物 車椅子 呼吸器 モニター バッテリー アンビュ 人工鼻 吸引器 吸引チューブ 酸素ボンベ 流量計 ボイスアシスト 蒸留水 胃瘻チューブ シリンジ パック 水分 栄養 財布 スマホ 障害者手帳 外出届 着替え オムツ 尿取りパッド ブルーシート 尿器 利用サービス 福祉タクシー 訪問看護 運転手さん 看護師さん MPSさん(民間救急サービス) 掛かった金額 約20万円 永井さん、本当に良かったですね。 さて、今回永井さんは訪問看護と民間救急サービスを利用されたそうです。 民間救急サービス | M-PS | 熊本県私たちM-PSは、迅速かつ安全を心がけ、25年間医療の現場で得た知識、技術、細やかな気配りで、最高レベルの民間搬送サービス www.mps99.info 病院に入院してる患者は重症化していくと 「看護師が付き添えないから危ない」 「点滴があるから無理だ」 など様々な理由で外出の許可が出ないことが多々あります。 おそらく全国には「故郷に帰りたい」「あそこでやってる大きなイベントを見に行きたい」「プロ野球観戦したい」という思いを抱きながら、許可が出ず諦めてる人も少なくないはずです。 今回の永井さんのやり方は、その固い殻をぶち破るくらいの画期的なやり方だと思いました。 それなりのお金はかかりますが、それ以上の価値があると感じています。 この流れを全国の筋ジス病棟に広めていきたいです。 バーチャル患者会メンバー 松田貴郞 (注記)note版はこちら

202407

深田 博貴 2024年07月06日 「筋ジス病棟バーチャル患者会からの活動報告」

皆様、お疲れ様です。筋ジス病棟バーチャル患者会の深田博貴より、活動報告をさせて頂きます。 筋ジス病棟バーチャル患者会は、先月30日に、「語りの夕べ」を行いました。今回は、岐阜県の長良医療センターに入院されている、尾関泰一(たいいち)さんに、ご自身の幼少時代〜高校時代について、語って頂きました。 尾関さんは、神奈川県横浜市で生まれました。生家は、大学のキャンパスの近くで、幼少時代によく近所を散歩していたそうです。 その後、お父様の仕事の都合で、愛知県春日井市に引っ越されます。翌年、市内の小学校に入学されます。周りの人の助けを借りながら、小学校低学年を過ごされます。元々アクティブだったそうですが、徐々に転ぶことが増え、ややインドアになったそうです。また、この頃、ご自身が筋ジスだと意識されるようになったそうです。 小学4年生になると、名古屋市内の養護学校へ転校され、遠距離通学されたそうです。また、転んで捻挫をすることが増え、しばらく近くの病院に通われたそうです。 小学5年生になると、新設された小牧市内に転校されます。この頃、歩行が困難となり、車椅子生活となったそうです。この頃、筋ジストロフィー協会愛知支部に入会され、同世代の筋ジス当事者とそのご家族や交流会されたそうです。 小学6年生になると、電動車椅子の受給で、行動範囲の広がりが嬉しかったそうです。 中学1年生になると、同じ養護学校の中学部に半年間通われた後、当時の国立療養所長良病院へ入院され、併設の養護学校の中学部へ転校されます。病棟では、様々な活動をしている先輩たちから刺激を受けて、始めはプラモデル部に入部されました。 その後、病棟の先輩たちがバンド活動を始め、そのバンドの自主コンサートを観てから、音楽部へ入部されます。 その後、養護学校の高等部へ進学されました。次第に、先輩たちのバンドの自主コンサートで、在校生バンド「ZOO/ズー」として、数曲演奏されるようになります。また、周囲の助けを借りて、作詞作曲をされるようになったそうです。高校3年生になると、前任のリーダーの一時休養に伴い、尾関さんがZOOのリーダーになりました。この頃、楽器や音楽機材をいくつか試されたそうです。 尾関さんはその他の趣味だと、クルマを挙げられていました。幼少時代に、お父様の影響で興味を持ち、小学生時代には、休日にディーラーを巡られたり、中学時代以降、名古屋モーターショーを見に行かれたそうです。また、自家用車の車種などの遍歴を、正確に記憶されていました。 尾関さんに語って頂いた後、村上さんや井上さんは、当時の光景を思い出して、懐かしい気持ちになられていたようです。 尾関さんのお話を聞いて、私はバンド活動や作詞作曲など、ご自身の好きなことにまっすぐに向き合える方だと感じました。また、尾関さんが小学校高学年〜中学時代の時のいくつかの転校や生活の急激な変化は、子供ながらに大変だっただろうと、思いました。 尚、筋ジス病棟バーチャル患者会の「note」には、メンバーの松田さんの自分史についての投稿がありますので、ぜひご覧ください。 https://note.com/kinjisu_project/n/n48dc35cfbf8b?magazine_key=mdf3236ad96b6 以上、筋ジス病棟バーチャル患者会からの活動報告でした。
*作成:中井 良平
UP: 20240729 REV:20240806(全文掲載から雑誌に移転), 0919, 0922, 1008, 1129
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