『日本財政――転換の指針』
井手 栄策 20130122 岩波書店,228p.
■しかく内容
(
岩波書店HPより)
これからの財政をどうするか
深刻な財政赤字はなぜ生まれたのか。そもそも財政は何のためにあるのか。日本社会の構造の変化と、それに伴う財政の変容をたどりながら、いま求められる財政のあり方を根本的に検討する。そして、財政の理念としての「ユニバーサリズム」を軸に、新しい財政のグランドデザインを描き、受益と負担の望ましいあり方を提言する。財政は本来、何をすべきか、いまこそ問い直す。
■しかく著者略歴
(
岩波書店HPより)
井手 栄策(いで・えいさく)
1972年福岡県久留米市生まれ。1995年東京大学経済学部卒業、2000年東京大学大学院経済学研究科博士課程修了。東北学院大学、横浜国立大学などを経て、現在、慶應義塾大学経済学部准教授(財政社会学)。
著書に、『財政赤字の淵源―寛容な社会の条件を考える』(有斐閣、2012年)、『雇用連帯社会―脱土建国家の公共事業』(編、岩波書店、2011年)、『交響する社会―「自律と調和」の政治経済学』(共編、ナカニシヤ出版、2006年)、『希望の構想―分権・社会保障・財政改革のトータルプラン』(共編、岩波書店2006年)ほか。
■しかく目次
第1章 財政の理念を考える――「ユニバーサリズム」とは何か
第2章 「土建国家」の成立と零落――分配できない国家の憂鬱
第3章 日本社会の何が壊れてしまったのか
第4章 財政再建をどう進めるか
第5章 新しい財政のグランドデザイン――受益が築く尊厳と信頼
第6章 公正な社会をめざして――新しい正義の財政基盤
あとがき
■しかく言及
■しかく引用
「政府が「財政危機宣言」を出したのは一九九五年一一月のことである。つまり、私たちは財政危機という叫びの前で一五年以上も立ちすくんできたことになる。[...]「社会を支える財政」から「社会が支える財政」へ――人びとが財政に奉仕しなければならない時代の到来というべきだろう。そして、財政再建は避けて通ることのできない、私たちの宿命のように語られる。だがそれで良いのだろうか。」[井手2013:2]
「国と地方を合わせた支出は一九七〇年代から一貫して増大している。一方、小渕政権期とリーマンショック期の上昇を挟みながらも、一九九〇年後半以降、ほぼ横ばいに抑えられてきた。九〇年代の支出は過去のトレンドから逸脱したものではない。支出の増大が赤字の原因だとすれば、なぜバブル崩壊後の一九九〇年代に入って財政赤字が急増したのか新潮な検討が必要になる。」[井手2013:3]
「むしろ決定的だったのは税収の減少である。同図に示されるように、バブル崩壊後、国の一般会計に占める税収の割合は急減した。バブル期には八〇%に達していたこの数値は現在では五〇%以下にまで低下してしまっている。
こうなってしまった理由は一九九〇年代に繰り返された所得税減税、法人税減税にある。累進性に基づく所得税、企業収益に課税する法人税は、好景気の時に弾力的で豊かな税収をもたらす。
しかし、景気対策の観点から所得税の累進性が弱められ、法人税も国際競争力の強化を名目として税率が引き下げられた。その結果、景気の回復局面では税収が伸びない租税構造となり、OECDの対日経済審査報告書等でも指摘されたように、課税を通じた所得格差の是正効果も極めて乏しい税制となってしまった。」[井手2013:4]
「こうした流れに、変化が生じたのは二〇一二年八月に成立した消費税増税法案である。基幹税の潤増税は一九八一年度予算の法人税増税以来であり、異例の増税となった。
じつは、一九八九年の消費税導入は所得税と法人税の減額がセットであった。九七年度の消費増税も九四年度の以降の所得税減税で失われた財源の補償を意味していた。第2章で詳しく述べるように、日本では、高度経済成長期以降、減税が重要な利益配分の役割を担ってきた。<0004<
それゆえ、八〇年代以降も、減税の財源を得るために増税を行うという奇妙な組み合わせが選ばれ続けてきたのである。」 [井手2013:4-5]
「そもそも、純増税が三〇年以上も実施されてこなかったことじたい、他の先進国と比較すれば異様である。それはともかくとして、バブル崩壊後、およそ国民国家の体をなさないような貧弱な税制しかもてなくなった日本にあって、消費税の純増税は当然のことのようにも映る。
しかし事はそう単純ではない。消費税一〇%への引き上げによって毎年の財政収支を黒字化できるわけではない。これほどまでに増税に苦労してきた社会にあって、次の増税がどのようなタイミングで行われるか、いやそれ以前に、さらなる増税が可能なのかどうか、先行きはあまり明るいものではない。」[井手2013:5]
「財政赤字の原因が税収の不足にあるという事実に気づくと二つの素朴な問いが浮かんでくる。ひとつは、どうして日本はこれほどまでに増税が困難なのかという問い、いまひとつは、増税を可能とするためにはいかなる条件が必要なのかという問いである。」[井手2013:5]
「国家に明確な定義を与えたのはM・ウェーバーである。ウェーバーは国家を「ある特の地域内部で、正当な物理的暴力の独占を要求する人間共同体」と定義した。
これを財政の面からとらえ返したのがG・シュメルダースである。シュメルダースによれば「財政高権」と「通貨高権」ふたつを独占する人間共同体こそが国家ということになる。
財政高権とは徴税権のことであり、通貨高権とは通貨の発行権のことである。近代国家では通貨の発行権は中央銀行に委ねられている。政策決定における少数者支配を特徴とする中央銀行の通貨発行権に対し、徴税は民主主義の裁きを受けなければならない。したがって、増税を難しくする本質的条件は、人びとの政府への「不服従」の表明ということになる。
もうひとつ見逃せない問題がある。それは納税が「社会の連帯」を基礎としている点である。財政の役割の一つとして、低所得層のための負担を受け入れるかどうかはその社会の寛容さによる。他者のための納税に人びとが応じるか否かは、政治的に多数を占める中間層が低所得者に対して連帯意識をもつかどうかで決まるのである。」[井手2013:6]
「[...]私たちは人びとへの何らかの不信感を抱く社会のなかで生きている。このことを念頭に置くと、財政をめぐる様々な言説の意味が違う視点から理解できるようになってくる。
「生活保護は人間の勤労意欲を削ぎ、怠惰な生活を助長する」、「医療費を下げれば高齢者は健康でも病院通いをする」、「公務員は収入と効用が安定しているのに働かない」、「政府は非効率的なので増税してもムダ遣いをする」......私たちはこの種の言葉を何度も耳にしてきた。
これを経済学流にモラルハザードと呼べば聞こえは良い。本体、こうした道徳的失敗は、ある人は犯し、ある人は犯さないという類のものである。だが、この人間の一部に過ぎない性質が、低所得層、高齢者、公務員など特定の集団を狙い撃ちにしながら、人間一般の性質であるかのように語られてきた。そうした見方が説得力を持って受け入れられる社会だからこそ、「人間は狡猾である」という冷酷な経済学のメッセージが、必要以上に浸透してきたのである。」[井手2013:15]
「小泉政権期は不思議な時代であった。なぜならば戦後政治史上まれに見るリーダーシップを発揮した首相がおり、戦後最長の好景気を日本経済が享受し、さらには先進国最大の財政赤字という課題も明確に見えていた。それにもかかわらず支出の削減ばかりが議論の俎上に載せられ、抜本的な税制改革が回避され続けてきたからである。
三位一体の改革では、三兆円の税源移譲の代償として補助金と地方交付税九・七兆円の改革が実施された。補助金や地方交付税は財政力の弱い団体に配分されるから、都市と地方という対立軸のもとで後者への資源配分が著しく弱められたわけだ。公共事業の削減も同様である。
これに公的扶助における老齢加算や母子加算の廃止、生活保護基準の引き上げ、さらには非正規雇用の問題までもが加わる。税制面でも、発泡酒やたばこ税の増税、特別配偶者控除の廃止という、低所得者層に厳しい、部分的な税制改正が行われた一方で、株の配当や利子にかかる軽減税率はそのまま維持された。」[井手2013:17]
「政府や社会への不信、所得の減少と受益感の乏しさ――中間層は増税による生活の安定ではなく、ムダな支出の削減による負担の軽減を望んだ。このムダの削減の対象とされたのが再分配的な役割をになうはずの支出であった。
人びとの低所得層への寛容さは、前提とならない時代となった。いや誤解を恐れずに言おう。中間層自身が格差社会という絶望の社会を生み出したのである。
それは、政府や人びとの不振を背景とした租税抵抗が、財政赤字を生み出したことと結びついていた。財政危機とはまさにそうした社会の危機を映し出す鏡であった。ところが私たちが行ってきたのはこの結果の数字的な帳尻合わせだった。
人びとは寛容さの喪失を悔い改めるだろうか。政権交代が繰り返され、二大政党が大きく揺らぐことも「善き社会」を創り出すための産みの苦しみなのだろうか。そうした期待はわたしも持っている。だが、中間層の生活が豊かにならない限り、こうした見かたは楽観にすぎるというのが本書の基本的な見通しである。」[井手2013:18]
「低所得者層の救済のためにこそ、より豊かな人びとをよりいっそう豊かにしなければならないという逆説、これを「連帯のパラドックス」と呼んでおこう。
このパラドックスは議会制民主主義が抱える原理的な問題である。経済成長や家族・地域の協業といった「寛容」の基礎が成り立たなくなったとき、中間層の生活基盤は動揺する。この<0019<ことは民主主義妬な手続きを通して‖再分配への合意形成を難しくする|格差社会の基底にあったのはまさにこの問題である|それは民主主義によって正当化された‖低所得層に不寛容な政治のあらわれだったのである|
事態は複雑である。社会不振や受益感の乏しさを背景に、支出やムダの削減が人びとに共通する理解となった。だが、それは自らの受益に対しても制約が加わってくる。そうなればいっそう他者への不寛容を生み出しかねない。まさに負の連鎖である。
こうして、人びとの利益を満たすために知恵を出し合う政治ではなく、誰がムダ遣いをするかを監視し、告発する政治を、私たちは当たり前と考えるようになった。この分断を志向する民主主義は、不信社会化という社会の危機と分かちがたく結ばれており、それらが財政危機の原因となった。」[井手2013:19-20]
「財政の原理とは政府の原理でもある。財政が所得分配の是正を行う時の原理は、貧しい人を救済することにあるのではない。これでは市場の失敗を補完するための付属物に政府や財政は成り下がってしまう。
財政や政府を支える原理とは、人間の尊厳を傷つけないかたちで分配の公平を追求すること、同時に、尊厳を傷つける領域を最小とするように配慮を行うことにある。格差社会が問題なのは、所得格差があることそれ自体ではない。格差が所得の少ない人びとが尊厳をもって生きていけない状態を作り出したこと、そして、日本財政では、弱者が狙い撃ちにされる領域があまりに広すぎ、その負担と受益をめぐって、決定的な社会の分断が生み出されたことにある。」[井手2013:24]
「必要悪ではありながらも、「恥ずべき暴露」が求められるのは、所得審査を行い、その人の所得が少ないことを証明しなければ救済のしようがないからである。所得の少ない人や生存が困難な人びとを発見し、そこにしぼって救済を行おうとする原理を、「ターゲッティズム(Targettizm)」ないし「セレクティビズム(Selectivism)」という。日本語であれば「選別主義」がこれに該当する。」[井手2013:25]
cf.「恥ずべき暴露 shameful revelation」( J.ウォルフ )
「一方、私たちは生活上の必要を互いに充足しあって生きてきた。だが近代社会ではそうした人びとの相互扶助関係が弱まっていく。そこで人間に共通するニーズ――それは所得の多寡、<0025<性別‖馬齢とはかかわりのない斌要である――を政府が引き取って満たすようになる|ターヒッテッペムの対極にあるこの原理を「ユニバーフリペム(universalism)」‖「普遍主義」という|」[井手2013:25-26]
「具体例を挙げてみよう。例えば生活保護による生存の保障がある。これは分配の公平の究極の的なかたちであり、所得が少ないことを証明し、被救済者を限定することから、ターゲッティズムの典型ということになる。
一方、初等教育は、所得の多寡や性別とは無関係にあらゆる人びとに無償で提供される。これは、教育という必要を普遍的に満たそうとするユニバーサリズムの原理に基づいて<0026<なされるフービベ給付の姿である|
これらの原理は課税面にも適用することができる。累進性に基づいて課税を行う所得税の場合、課税最低限を高めることで低所得層を非課税にできる。これはターゲッティズムに基づく税制のあり方である。他方、消費税の場合、所得の多寡とは関係なく、ある財を購入すれば誰もが納税者となる。これはユニバーサリズムの概念に近い税制ということになる。
尊厳を平等化する財政では、「恥ずべき暴露」をともなうターゲッティズムの領域を狭め、人間の必要に関わる領域をユニバーサリズムで満たして行く。後者の領域を広げれば、低所得層の生存を満たしながら、前者の領域を縮小できる。例えば、医療を無償化すれば生活保護の半分近くは不要となる。弱者への配慮を可能な限り人間の尊厳と両立させるために、ユニバーサリズムに基づく財政という改革の基本理念、道筋が浮かび上がってくるのである。」[井手2013:26-27]
普遍主義/選別主義の境界は社会的に決定されるのではないか。普遍主義的とされる初等教育でさえ、児童を対象とするように、それは児童という「恥ずべきではない暴露」をともなっている。問題は、生活保護を受給することが「恥ずべき暴露」として構築されてしまっていることにあるのではないか。まず、普遍主義/選別主義とは、それぞれ対極に位置する理念型であり、現実の制度はその間のグラデーションの中に位置付くと考えてみる。そのとき、生活保護は選別する手続きが量的に多いから選別主義的な制度であり、初等教育は選別的な手続きが少ないから普遍主義的な制度と定義できるだろうか。目指されるべきは、選別的な手続きの廃止=ユニバーサリズムのへの接近か?むしろ、選別的な手続き自体には問題はなく、選別によって生じたスティグマが問題なのではないか。選別されることだけではスティグマ・「恥ずべき暴露」が帰結されない。ならば、普遍主義的な制度とは、「恥ずべき暴露」を伴わない選別主義的な制度のことではないか(メモ)
「ユニバーサリズムの核心は、所得や年齢、性別とは無関係に人間のニーズを満たしていくことにある。したがって、行政サービスは可能な限り広い領域で所得制限や年齢制限を設けることなく、人間の必要に応じて確実に提供されることが求められる。」[井手2013:27]
「ユニバーサリズムのメカニズム
ターゲッティズムの典型である生活保護と対照しながらそのメカニズムを考えてみよう。役所の職員は所得審査によって受給者の選別を行う。審査の目的のひとつは申請者の虚偽の申告を暴くことにある。つまり根源にあるのは人間性悪説であり、職員も申請者は詐欺を行うのではないかという疑いのまなざしをもたねばならない。それが審査である。
一方、申請者の方にも、職員が主観や好みで人を選んでいるのではないかという疑念、自分は蔑まされているのではないかという懸念がつきまとう。そして最後にもたらされるのは、救済される低所得者という分断である。人びとが異なる取りあつかいを受け、<0029<人間と人間の間にくさびを打ち込むこと‖これこそが安上がりではあるが‖社会にとっては致命妬でもあるターヒッテッペムのメニニペムなのである|」[井手2013:29-30]
「ユニバーサリズムでは、現役世代においては育児・保育・初等教育を、高齢者になれば養老・介護をというように、各ライフステージですべての人びとの必要を満たす。政府は、所得や性別、年齢に応じて人びとを差別的に取りあつかわない。官僚や政治家は裁量権をもてず、手続き面での公正さも保証される。このことは行政への不信感を抑える。政治家や職員が、自分の裁量に基づいて資源を配分できる余地が極めて小さいため、汚職への懸念も格段に低くなる。
このような制度設計の魅力はさらに続く。ユニバーサリズムでは、中間層を含めたあらゆる階層が受益者となる。中間層の受益感は強められ、納税も自らの利益と結びつく、ゆえに、中間層は、低所得者層に対して、寛大にふるまうことが合理的になる。なぜなら、自らの利益のためにも、「低所得層に手厚い福祉を」と主張したほうが有利だからである。
全員にサービスを提供するユニバーサリズムのもとでは、低所得層の利益の削減は、自らの利益の削減につながる。これは重要な洞察である。対人社会サービスが豊かに提供される北欧諸国において、低所得層への配慮がなされるのは、人間的な豊かさもあるのかもしれないが、そ<0030<れが自らの利益と結びついているからである|和帯のパラドッハベを受け止め‖社会妬和帯の基礎を作っていくためのゆこうな原理としてユニバーフリペムは戦略妬に採用されているのである|」[井手2013:30-31]
*作成:
中村 亮太