『言葉が足りないとサルになる――現代ニッポンと言語力』
岡田 憲治 20101030 亜紀書房,223p.
last update:20180823
■しかく岡田 憲治 20101030 『言葉が足りないとサルになる――現代ニッポンと言語力』,亜紀書房,223p.
ISBN-10: 4750510203 ISBN-13: 978-4750510200 1600円+税
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■しかく内容
すべてを「ウザい」の一言で済ませてしまう大学生。「いまのお気持ちは?」以外に聞くことができないマスメディア。会議の席で言いたいことはあるのに発言できないOL。
問題が勃発するたびに口を閉ざす政治家...。日増しに感じる日本社会の停滞は、言葉が圧倒的に足りないことが原因なのでは? こうした閉塞感を打開するべく、
「豊かな言葉とたくさんのおしゃべりこそが、これからの日本を救う」と岡田センセイは立ち上がった。教育現場、会社、メディア、国会など、さまざまな例をあげながら、
日本の現状と未来について語り尽くす。言葉の問題をとおして考えた"現代日本論"。
■しかく目次
はじめに
I 言葉が足りない
1 すべては256文字以内で
2 会社を辞めるヤバい理由
3 「下げる」言葉はナシじゃねぇ?
4 バカはウリになる
5 安全第一で言葉が止まる
II 言葉が出ない
1 OLが会社で疲れる本当の理由
2 OLが黙るもう一つの理由
3 言葉を支える「社会」
III 言葉がもたらすもの
1 言葉が気持ちを作る
2 言葉で状況を変えていく
3 言葉と芸術
4 言葉がすべて
おわりに
あとがき
■しかく引用
注・原文も太字で表記されています。
はじめに
■しかくたくさんの言葉が世界を変える
唐突ですが、サッカー日本代表が一九九八年のフランス大会からずっと続けてワールドカップに出場できるようになった大きな理由の一つを御存知でしょうか。それは、
サッカーをとりまく人々(サッカー協会、良質なジャーナリズム、地味に頑張っている全国の指導者、サッカーの選手たち、サッカーを愛する人々)が、
プロ化を目指して以降、ずっとサッカーについて以前より
「たくさんの言葉を使ってしゃべった」からです。
「んな、あほな。強なったんは、才能ある選手がぎょうさん出てきたからやろ。中田とか小野とか稲本とか」と思っている方にお返しします。その通りなのですが、
逆の順番の話もあるのです。指導者はもちろんのこと「全体としてのサッカーに関わる人たち」が、世界の状況を知って、
以前より豊かな言葉でサッカーについて何年も語ったから「言葉をきちんと使えて、それゆえ頭を使ってサッカーができる」中田や小野を発見し育て、
活躍させることができたんです。
同時に、ワールドカップには出るには出ますが、どうしてもある壁を突き破って「世界の8強」>005>になれない理由は何だと思いますか。
それは選手やマスメディアやサポーターに
「まだまだ言葉が足りない」からです。[...](pp.4-5)
どんなことであろうと、この世にある「好きなこと」と「かなり大事なこと」に関して、言葉をたくさん使って、ああでもないこうでもないとおしゃべりをすると、
そんなことしないで黙って静かに暮らしているよりも、一〇〇%確実に世の中は楽しくかつ良くなります。悪くなること>008>もたくさんありますが、ちゃんと話をすれば、
お相撲で言えば八勝七敗くらいで楽しく良い世の中になります。
言葉は使えば使うほど、
なんだかんだ言っても私たちの幸福にどこかでつながります。逆に「好きなこと」や「大事なこと」をあまりに少ない言葉で済ませる習慣がつくと、何が好きなのか、
何が本当に大事なのかがわからなくなります。ちなみに好きなものがない人生のことを暗黒の人生と呼びます。とにかくたくさん話すことが必要です。
「無駄なおしゃべり」という言葉もありますが、この際問題の重要性に鑑みて、どーんと言ってしまいます。無駄なおしゃべりすら、いや無駄なおしゃべりこそ、
それはみんなの幸せにつながってくると。「言葉の無力さ」に打ちひしがれた20歳の青春を経たけれども、嘘八百を喋り散らされて酷く心を傷つけられたけど、
それでもやはり、「もっと言葉が必要だ」と思わざるを得ません。[...](pp.7-8)
■しかく幼児語を使ってはいけない
でも
この法則には、一つだけ譲れない条件があります。それは「幼児語を絶対に使ってはいけない」ということです。[...]>009>
いくつか先に言ってしまいましょう。
「ウゼぇ」は昨今本当に困った幼児語です。
「チョーヤバくねぇ?」は王道を行く幼児語です。
「っていうかアリっぽくねぇ?」はもはや「チョー」幼児語です。
「感動をありがとう!」は、幼児語ではありませんが、感動という行為を「まったくもって大雑把で貧乏臭くさせてしまう」危険な
使用禁止候補用語です。
精神が怠惰になる「やっつけ仕事的言葉」です。締め切りに追われて時間のない雑誌記者などが使い、「感動の涙」と「もらい泣き」
の区別に興味がない人たちが飛びつきます。
「政治とカネ」は、そのものは幼児語ではありませんが、「政治は清貧でなければならない」という、
政治を語ることと道徳を語ることと一緒と考えるような間違ったところから出発すると、
実質的に幼児語と同じ働きをしてしまいます。政治とカネの関係において、
本当に考えなければならないポイントは何なのかを一切考えなくさせる機能を果たす可能性があり、結果的に集団的な催眠効果が起こり
「カネがからむのってありえなくねぇ?」などという、思考停止状況に拍車をかけます。(pp.8-9)
[...]どう考えても「言葉はウザい」というところから出る気持ちもなければ興味もない人たちは、読んでいただかなくてもけっこうです。本屋さんを出て、
携帯をいじくりまわして青春と人生を浪費してください。[...]この本は、主に次のような人々に向けて書かれています。
・世界と自分はこのままでいいとは思っていない。
・でも自分は無力で、自分には何ができて、何ができないのかも曖昧な気がする。
・それでも自分の外側の世界に小指の先くらいでも興味と愛情を持っている。
・そうした自分と世界との折り合いのつかない切なさをやや持て余している。
・でもやはり自分は言葉を手放すことなくそこで悩む以外にないのだ、というところに、ちょっとした勇気でとどまっている。>011>
ちなみに、蛇足ですが、良い学校を出ているか出ていないかは関係ありません。でも、自分の意志で学校に行った人は「言葉には興味がない」
などと絶対に言ってはいけないという「世界共通のお約束」がありますから、そういう人にはぜひ読んでいただきたいと思います。何と言っても、
この世を中核で支えている人たちですから。(pp.10-11)
I 言葉が足りない
1 すべては256文字以内で
■しかく学校に行く理由
[...]ようするに学校というところは
「言葉を使えるようになるための知識ときっかけを探しに行くところ」です。市井で額に汗して働いている、
世の中を支えている人々になり代わって、そうやって働いている人々がなかなか出来ないことをできるようになって、最終的にはその人たちの幸せに貢献するために、
言葉をうんと覚えて、言葉を自由に扱って、言葉で世界を把握して、言葉を扱うことができる人々の特権的立場から得られた利益を、
言葉をたくさん使えないけれども間違いなくこの世の中を支えている人々にお返しするための力をつける場所です。だから、言葉に興味がなく、言葉を使うのが苦手で、
言葉を紡ぐことが本当に億劫で、言葉を使わなくても生きていける自信と技量と才覚のある人々にとって、学校というところは無意味なところです。*2
どうしても嫌な人は「それじゃ一八歳なんだから働いてください」ということです。
[...]
つまり、学生である以上、「すべては言葉>019>のために」ということです。どうしたらこの世の矛盾を説明でき、
どうしたらこの世の不正を暴くことができ、そしてどうしたらこの社会の改革を可能とするような運動を作り出せるか。そのためには「もっと言葉を!」です。
理由は「そこが大学だから」です。(pp.18-19)
*2――言葉を使うことを完全に拒否することがそもそも不可能であるから、近代社会には、そもそも学校に「行かなければならない」
という強制があるという問題については別の議論が必要です。
II 言葉が出ない
3 言葉を支える「社会」
■しかく社会の喪失と「私たち」のイメージの消滅と再考
もし話せない理由が、こういう信頼感に関わる問題から発しているならば、そしてそのことが検証され、
たしかに「まともなことを言っても誰も取り合ってくれないこの世の中」という意識が私たちのコミュニティの老若男女にすっかり浸透していることが明らかになったら、
それを放置しておくと私たちはいとも簡単に自滅するでしょう。そういう最低>106>限の信頼の気持ちがある程度の数に人間に共有されていない共同体は、
もはやコミュニティとは言えず「集住状態」という乾いた言葉で表現するほかないものです。*16[...]
私たちが話せない理由があるとしても、話せる理由があるとしても、そこには「他者への最低限の信頼」を通じて得られる、
「私たち」というものの基本イメージを支える、それゆえ「政治」「経済」「思想」「文学」「芸術」といったすべてのことの基礎となる柱というものがあります。
他者への最低限の信頼をあるものとして、それだけを根拠に幻想のように存在しているものを私たちは「社会(society, community)」と呼びます。
もし最低限の信頼がなくなったなら、私たちは「私たちのイメージ」を作り直さなければなりません。もし「あのまっとうな感覚が他者から完全には失われていないはずだ」
と思えるなら、私たちはまだ「しゃべること」ができるはずです。(pp.105-106)
*16――大都会の単身者ばかりがワンルームに大量に住み、かつそのうちの半分が二年以内に移動するような街は、もはや街ではなく「寝る場所がたくさんあるところ」
です。東京という世界でも稀なほどいびつな都市の半分はそういうところです。つまり東京の半分は街ではありません。東京で生まれ育った私〔筆者――引用者注〕
が太鼓判を押しておきます。
III 言葉がもたらすもの
1 言葉が気持ちを作る
■しかくバカなしゃべりをし続けるとバカになる
そして、(ここからが大切です)そういう言葉〔幼児語――引用者注〕以外を一切使わない人間の持つ味覚と嗅覚と触覚と人生観は、微妙な味や匂いや質感や、
豊饒なる食事を「言葉で表現する」ことで導かれるかもしれない、「食事―家族―生活―他者―社会―世界―人間―生と死」といったようなもののあり方について、
それを感じ、想像する感受性すら永遠に引き出されることなく、磨かれも育てられもせずに、眠るような人生となってしまう可能性があるということです。
幼児語だけを使うと人生が眠るのです。[...]>117>ですから、逆も言えます。本当に優れた料理人は、ほぼ例外なく「美しい言葉」を使える人で>118>す。[...]
本当に優秀なアスリート、本当に優れた芸術家は「ちゃんとしゃべれる人たち」であることがほとんどです。イチローのインタビューからは
「ベースボールを超えたベースボールの話」がにじみ出てきます。[...]「豊かな内面を言葉にする」のではありません。
「豊饒な言葉を使うことで豊かな内面と世界を作り上げる契機が与えられる」のです。(pp.116-118)
2 言葉で状況を変えていく
■しかく動き始めたサッカー協会
サッカーは、バスケットや野球などと比べて、非常に大雑把なルールしか与えられていません。「手を使ってはいけない(ハンド)」
「ゴール前一番近くにいる味方にパスをしてはいけない(オフサイド)」「接触プレーの際は、ボール奪取という目的がはっきりした動きをしなければいけない
(ファール)」の三つです。ということは、選手には相当の自由が与えられていて、とにかく九〇分間で相手よりも一つでもゴールを入れた方が勝ちです。
自由であるということは自立>133>した精神と判断力が要求されるということです。刻々と変化する状況に対応しながら、
自分の判断で決定をしていかなければなりません。そうした
自己決定を支えるものは、「論理力」と「表現力」と「状況説明能力」であって、そのためには
「自分の考えを言葉にする力」が決定的といっていいほど必要とされます。このような認識が、サッカーを超えてどれだけ私たちの社会に必要なのかは、
またあとでくわしく触れます。
スポーツの指導者、とりわけ「世界水準」というものと徹底的に向き合っている人たちには、もうこの認識はかなり浸透してきています。しかし、残念なことに、
というか不思議なことに、この問題に気がつかないまま、大変な影響力を行使している人たちがいます。言うまでもありません。マスメディアのサッカー関係者です。
(pp.132-133)
3 言葉と芸術
■しかくもっと言葉を
作品〔≒レポート――引用者注〕を仕上げるというのは、別の言い方をしますと、世界の不完全情報という制約の下で、
自己表現の一回性という条件を踏まえて、「こうしよう!」と自己決定をすることです。どう評価されるかはギャンブルみたいなもので、
ギャンブルの良き結果を前提に何かを始めるのはおバカさんのやることなので、そんなことよりも
大切なのは、自分が「こんなふうにしよう」
と決断した作品〔≒レポート――引用者注〕をまず自らが愛でるということです。そこで、本書を読んでくださっている方にお尋ねしたいのです。そもそも、
そうした自己決定を、人間は言葉抜きですることができるのでしょうか? 私からすれば、それはどう考えても不可能です。
だから、
言葉なきところには自己決定は>161>存在しません。ということは、言葉を用意していない人は「決定」ができないということです。
だから不思議ちゃん〔ここでは言語化しない人のこと――引用者注〕は「何だかよくわかんないし言葉にもできないけど、あたしっぽい」わけのわからないセンスや、
「こんな感じぃ」としか言いようがないと開き直ったような、本当はあまり意味のない「感性」などというものに寄りかかって、相変わらず「こんな感じってことでぇ」
とやってしまうのです。(pp.160-161)
4 言葉がすべて
■しかく言葉で詰めて現実を共有して決定する
事態の推移に曖昧に身を委ねるのではなく、変動し流動化する状況や環境の下で、それを与えられた条件として受け入れ、自分で判断し、主体的に働きかけ、
共に生きる共同体にとって最善の利益とは何であるかを「言語と身体」を通じて他者とコミュニケートし、合意を形成する努力のできる人間が一一人いることが、
強いサッカーチームに必要な世界水準の条件です。
いま自分たちを取り囲んでいる状況は、つまり自分たちの「現実」はどういうものなのかについての判断は一一人いれば一一通りの可能性があります。ということは、
唯一の答えがない以上、何が「現実なのか」を、その解釈を詰めていかねばなりません。しかし、
そのためには判断するのに必要なインフォメーションを共有しなければなりません。つまり状況に対するイメージを共有するために、その解釈を共有するために、
「これが現実だ」とチームメイトに示してあげ>187>る者は、論理的に考え抜いた上で、エビデンス(証拠)を添えて、ほかのメンバーに提示しなければなりません。
そうする過程で、一一人の運命をゆだねる「次にはどうするのか」が決定されます。これは、各人が言語を「自覚して」使用しないとできません。
こうしたことは、そっくりそのまま、
すべて政治の話に当てはまります。政治をめぐって、そういうメンバー(私たち)がいてこそ、
私たちの社会のマネージメント(政治)は世界水準になります(まともな民主政治を維持できる相手として国際社会のメンバーに入れてもらえる)。
前節で、私〔筆者は政治学が専門――引用者注〕は繰り返し、「政治は現実を作るもの」だと強調してきました。政治リーダーにとって、
「これが現実である」という自己の認識は、ほかの政治メンバーとすり合わせてこそ支持を得られ、みんなで状況に立ち向かっていけます。
政治もサッカーも「現実の解釈を共有して合意を形成する」という点でまったく同じです。(pp.186-187)
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『静かに「政治」の話を続けよう』,亜紀書房,227p.
ISBN-104:36 2015/01/074:36 2015年01月07日: 4750511242 ISBN-13: 978-4750511245 1600円+税
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[kinokuniya] ※(注記) s03/pp/p06
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*作成:
北村 健太郎