『近代政治の脱構築――共同体・免疫・生政治』
Esposito, Roberto 2008 Termini Della Politica, Comunita, Immunita, Biopolitica, Mimesis Edizioni
=20091010 岡田 温司 訳,講談社,290p.
last update:20131027
■しかくEsposito, Roberto 2008
Termini Della Politica, Comunita, Immunita, Biopolitica, Mimesis Edizioni
=20091010 岡田 温司 訳,『近代政治の脱構築――共同体・免疫・生政治』,講談社,290p.
ISBN-10: 4062584514 ISBN-13: 978-4062584517 1800円+税
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[kinokuniya] ※(注記)
■しかく内容
フーコーの〈生政治〉概念を大きく展開させ、「免疫論」で9.11を読み解き、新たな「共同体論」を構想する注目の思想家エスポジト。その思想がよくわかる一冊。
世界的に注目を集めるイタリア現代思想にあって、ひときわ光彩を放つロベルト・エスポジト。本書は、彼の主著である三連作『コムニタス(共同体)』『イムニタス(免疫)』
『ビオス(生政治)』のエッセンスがわかり、かつ、最新作『三人称』にいたる道筋をも示す、エスポジト哲学にもっとも入りやすい著作である。フーコーによって提起され、
アガンベンや、ネグリの『帝国』によって展開された「生政治」の思考は、どのように深化・進展するのか。そこに、「免疫」という視点はどのようにからむのか。
9.11とは、ナチズムとは...。もっともスリリングな政治哲学への招待。
■しかく著者略歴
1950年生まれ。ナポリ東洋大学教授等を経て、現在、イタリア人文科学研究所(Istituto Italiano di Scienze Umane=SUM)副学長。
■しかく訳者略歴
1954年生まれ。京都大学大学院文学研究科博士後期課程修了。現在、京都大学大学院人間・環境学研究科教授。
専攻は西洋美術史・思想史(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
■しかく目次
訳者によるイントロダクション
ナポリ発、全人類へ――ロベルト・エスポジトの思想圏
第I部
第1章 共同体の法
第2章 メランコリーと共同体
第3章 共同体とニヒリズム
第II部
第4章 免疫型民主主義
第5章 自由と免疫
第6章 免疫化と暴力
第III部
第7章 生政治と哲学
第8章 ナチズムとわたしたち
第9章 政治と人間の自然
第10章 全体主義あるいは生政治――二十世紀の哲学的解釈のために
第11章 非人称(インペルソナーレ)の哲学へ向けて
訳者あとがき
事項索引
人名索引
■しかく引用
第6章 免疫化と暴力
1
この問い、この選択から、ここ数年のわたしの仕事が生まれている。それは、けっして簡単なものではないが、ある歴史的瞬間の座標を構成するような――それがたとえ、
肉眼で見えるとはかぎらないかたちであっても――キーワードやパラダイムを明らかにする試みである。そして少なくとも、それはわたしがそこから出発し、
今日でも答えようとしている問いである。わたしたちの時代の深刻な特徴となっている衝突やトラウマや悪夢――さらには要求や希望――とは、
いったいどのようなものだろうか。個人的にわたしは、このキーワードないし一般的パラダイムを、免疫(イムニタ)もしくは免疫化(イムニツツアツイオーネ)
のカテゴリーのうちに探し当てたと考えている。それはどういう意味なのか。周知のように、生医学的な用語では、伝染病に対する免除ないし防止の一形態が、
免疫として理解される。一方で、法律用語において、免疫は、共通の法が及ばない状態に誰かを置くという保護の一種を表わしている。したがって、どちらの場合でも、
免疫化は、むしろ共同体(コムニタ)全体がさらされるリスクから、誰かを安全な状態におくという特別な状況を暗示することになる。すでにこの点で、
共同体と免疫のあいだに根本的な対立が現われており、ここから最近のわたしの考察は生まれている。語源学によってもたらされた複雑な問題に深く立ち入ることはできないが、
免疫、つまりラテン語でいう
イムニタス[immunitas]は、
コムニタス[communitas]の反対ないし裏返しとなるといえるだろう。
この語彙は両方とも
ムヌス[munus]――「贈与」「任務」「責任」を意味する――という語から派生しているが、
コムニタスが肯定的な意味であるのにたいし、
イムニタスは否定的な意味を持つ。そのため、も>153>し共同体のメンバーが贈与というこの義務、すなわち他者への配慮というこの法によって特徴づけられるとすれば、
免疫は、こうした条件からの免除もしくは適用除外を意味することになる。他のすべての人々を巻き添えにしている義務や危険から、ある人を保護すること、それが免疫なのだ。
その身を外部におくことで、社会的な循環の輪を砕くのである。
現在、わたしが支持したいと考えている基本的な主張は、本質的に以下のとおりである。この免疫装置、つまり免除と保護の要求は、
もともと医学と司法の領域に属するものであったが、だんだんとわたしたちの生にかかわるすべての分野や用語へと広まっていくことで、
現代の経験における現実的で象徴的な収束点にまでなったということ。もちろん、どんな社会も自己防御の要求を表明してきたし、どんな集団も、
生命の保存について根本的な問いを立ててきた。しかし、わたしの印象では、近代という時代が終焉を迎えた今日においてはじめて、こうした要求が回転軸となって、
そのまわりで、実際の経験や、文明全体の想像が展開されている。その一例をあげるとすれば、免疫学、つまり免疫システムの研究と強化のために定められた科学が、
医学的側面においてのみならず、社会、司法、倫理的な側面においても引き受けている役回りを眺めるだけで十分だろう。
エイズという免疫不全の症状の発見が、個人と集団の経験の正常化という観点から、
つまり保健衛生だけにとどまらない厳密な規範の遵守という観点からとらえられていることが、何を意味するかを考えてみるといい。免疫は、伝染病の予防のみならず、
社会的・文化的な意味においても、病の悪夢によってあらゆる相互関係のなかに打ち立てられたバリアーなのだ。もし、
感染症という領域から移民という社会的な領域へと目を転じるなら、それについての裏付けが得られる。というのも、増加の一途をたどる移民の流>154>れが、まったく不適切なことに、
わたしたちの社会にとって大きな脅威のひとつと考えられているという事実は、この側面からも免疫性の問題が引き受けつつある中心性を物語っているからだ。生物学的に、
社会的に、環境的に、わたしたちのアイデンティティを脅かす、もしくは、少なくとも脅かすようにみえる何ものかにたいして、新たな柵やブロック、
新たな分離線がいたるところに出現しつつある。まるで、気づかぬうちにさえ、軽く触れられることへの恐怖が助長されたかのようであり、それはすでにエリアス・カネッティが、
わたしたちの近代性の起源として、触覚と接触と感染とのあいだの不運な短絡のうちに見いだしていたものである。それはあたかも、接触や関係や共同性といったあり方が、
汚染というリスクと同一視されてしまったかのようである。
まさに同じことが、情報処理技術についてもいえるだろう。ここでもまた、より重大な問題、つまりすべてのオペレーターにとって正真正銘の悪夢は、
いわゆるコンピューターウイルスによって表わされる。コンピューターは、わたしたちの小さな機械なのではなく、金融や政治、
軍事情報を世界的なレベルで統制している巨大な情報機器なのである。いまや、西洋の全政府は、病原の侵入から情報網を免疫化するために、
相当な予算をアンチウイルスのプログラムの設定のために割り当てており、これは起こりうるテロリストの攻撃にたいしても同様である。今日、
国家的かつ国際的な大論争の中心で、たとえばミロシェビッチやピノチェトをはじめとする多くの政治家たちの免疫をめぐって、司法上の戦いが繰り広げられているが、
このことは、わたしが述べたことのさらなる裏付けとなる。個々のケースを超えて、危惧されているのは、それぞれの国家がもつ主権の衰退である。つまり、
国家秩序の司法的境界が壊れつつあるにもかかわらず、国際的正義の別のかたちがいまだ構築されてい>155>ないということである。要するに、
個人の身体から社会の身体=組織(コルポ)まで、技術的身体から政治的身体まで、今日の世界で起こっていることをどのような側面からみるとしても、
免疫の問いがすべての道の交差点に位置しているのである。重視されているのは、いたるところで引き起こされうる感染の拡大を、いかなる手段を使ってでも阻止し、
予防し、それと戦うということなのである。
先にも述べたように、この自己防御の不安は、わたしたちの時代だけのものではない。とはいえ、リスクをどこまで自覚するかは、時代によってかなり異なるが、
まさしく現代において頂点に達している。このことは、
グローバリゼーションと呼ばれるものと関係しなくはない一連の付加的要因による。
人間だけでなく、観念や言語や技術といったのも、おたがいにコミュニケーションをとり、交差すればするほど、その反発力として、予防的免疫化への要求が高まる。
新たなローカル主義がふたたび芽生えつつあることは、グローバリゼーションという地球規模での汚染にたいする、一種の免疫的拒否として説明できるだろう。
「自分たち(セ)」が「グローバル」になればなるほど、外側にあるものを加えようとすればするほど、否定性のあらゆる形式を取り込もうとすればするほど、
免疫的拒否を増殖させてしまうのだ。まさにこれに相当するのが、現実的で象徴的なベルリンの巨大な壁を破壊して、たくさんの小さな壁を立てたことで、その結果ついには、
共同体の理念そのものも、包囲された要塞の姿へと変わりはて、堕落してしまったのである。重視されるのは、過度の流通を、したがって潜在的な汚染を阻止することである。
この観点から、ウイルスは、わたしたちが抱く悪夢すべての一般的なメタファーとなった。実際に、この恐れ、少なくとも生物学的な恐怖が和らげられるような瞬間が、
いままでにもあった。わたしが言っているのは、一九五〇年代、六〇年代のことであり、こ>156>のとき、
抗生物質によって何千年来の感染症が根絶できるという楽観的な考えが広まったのだった。だがそれは、エイズが出現するまでのことであった。そのとき、
心理的なダムが決壊したのである。ウイルスは、象徴的にも現実的にも、克服できないものとして、ふたたびその姿を現わす。わたしたちの内部へと入り込んで、
わたしたちを意味の空白へと引きずっていく、まさに悪魔そのものとして。まさしくこのとき、免疫の要求は、わたしたちの基本的な責任、つまり、
わたしたちの生にわたしたちが与えた形式そのものになるまで、過剰に成長したのだった。
■しかく書評・紹介
■しかく言及
*作成:
樋口 也寸志 *増補:
北村 健太郎