『フォイエルバッハ――自然・他者・歴史』
フォイエルバッハの会 編 20040325 理想社,252+24p.
last update:20131017
■しかくフォイエルバッハの会 編 20040325 『フォイエルバッハ――自然・他者・歴史』,理想社,252+24p.
ISBN-10: 4650105331 ISBN-13: 978-4650105339 2800円+税
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■しかく内容
一九世紀ドイツの哲学者ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハは一八〇四年七月二八日に生まれ、一八七二年九月一三日に死去した。本書は彼の生誕二〇〇年を記念し、
フォイエルバッハの会によって企画出版された書物である。今回、編集にあたったフォイエルバッハの会という組織は、一九八九年、
「国際フォイエルバッハ学会」が設立されたことに呼応し、日本における研究者相互の連絡組織として発足した会である。進歩思想の躓くところで、フォイエルバッハ思想は、
ひそかにその急所を突く根強さ、しぶとさを秘めている。フォイエルバッハにとって宗教は、終生のテーマ、いつの時代にもつきまとう永続的な課題であった。
一八四〇年代の切れ味鋭い批判家というイメージとは裏腹に、宗教意識に深く根ざしたその思想は、きわめてデリケートな性格、他者への篤い気づかいを孕んでいる。
自然宗教研究を通して絶対宗教(一神教)をも相対化するフォイエルバッハの「宗教寛容」の精神は、今後、ますますその重要性を帯びてくるであろう。時代を超えて、
フォイエルバッハは、宗教に潜む人間の、ひいては自然の奥深さを問うている。奥深いにもかかわらず、いや、奥深いからこそ、他者性を尊重し、相互に共存してゆく道を、
われわれはフォイエルバッハと共に模索する必要があるのではなかろうか。この記念出版に収録された、自然と理性、身体、他者、同時代思想、
受容と研究などについての現代日本におけるフォイエルバッハ研究論文の一つ一つに、そうした問題意識や思いが込められている。
■しかく目次
まえがき 川本 隆
凡例
総論
「自然・他者・歴史」へのアプローチ 河上 睦子・服部 健二
第一章 自然と理性
自然的理性の光から自然の光へ......柴田 隆行
感覚概念の検討――『論理学形而上学序論』講義を中心に 服部 健二
唯物論的宗教論 石塚 正英
第二章 身体
身体哲学の構想 河上 睦子
倫理的ミニマムとしての幸福主義――フォイエルバッハ後期倫理思想の意味 滝口 清栄
身体はどのように問題なのか――J・バトラー他に抗して 細谷 実
第三章 他者
質料としての他我 川本 隆
他者論をめぐるフィヒテとフォイエルバッハ 木村 博
ヘーゲルとの対話――思考の他者をめぐる問い 片山 善博
第四章 同時代思想
フォイエルバッハの「ヘーゲル主義」と同時代のヘーゲル批判 富村 圭
若きマルクスにフォイエルバッハ受容によせて 神田 順司
第五章 受容と研究
日本のフォイエルバッハ研究史 柴田 隆行
明治期におけるフォイエルバッハの受容 石川 實
ヨーロッパにおける近年の研究動向――国際フォイエルバッハ学会を中心に 神田 順司
あとがき 石塚 正英・神田 順司
索引
L・フォイエルバッハ日本語文献目録 補遺・追加 柴田 隆行
執筆者一覧
欧文目次
■しかく引用
身体哲学の構想 河上 睦子
一 フォイエルバッハ身体論の研究状況
2 身体文化論――ターナー
ターナーは、著『身体と文化』において、現代の身体社会学・身体文化論の文脈から、フォイエルバッハの身体論、とくに「病む身体」
「食する身体」についての見解に注目した。(p.64)
我々の身体は「飲んだり、眠ったり、食べたり、運動したりして、我々が苦労する対象」であり、「身体は人間がそれに働きかけ、それでもって働きかける環境」として、
われわれが自然界と結び付くことを通して社会と連結するものである(ibid.)。それゆえにそれを社会規範や社会規制のなかに押し込めようとするときには、
逆に身体の自然性に引き戻され、身体は解放されるどころか、「病み」、圧殺されることにもなる。たとえば、「拒食症」は身体を文化現象としての性基準に従わせ、
食欲や性欲を否定するが、その結果として身体そのもののコントロールの不可能化と否定(死)が現れてくる。こうした「病む身体」という「社会的身体」
における自然性とのパラドックスを、フォイエルバッハの身体論は示唆するものであると、ターナーは評価した(Tur. 194f. 二一三〜四頁)。>065>
しかし彼の解釈は、ウォートフスキのフォイエルバッハ読解に依拠した二次的なものであり、彼の著作を自身で検証していないゆえに、十分な論拠付けがされていない。
それでもなおこのターナーの見解が研究上注目されるのは、「身体社会学」という視角から彼の身体論にアプローチし、今日的な思想の可能性を見ようとしていることにある。
(pp.64-65)
3 世界開示性の身体――ヴァール
ヴァールの研究は、フォイエルバッハの身体論に照準を合わせ、研究史を踏まえつつ、その独自性について考えようとした本格的な身体論といえる。(p.65)
二 一九八〇年代の「身体哲学」
1 肉体性、肉体力の理論
現実の身体は活動する「実践的」な身体であり、これは「心(Seele)」の自由になるものでも、単に「意志」の「自由」に委ねられるものでもない。
いや逆に「心」や「意志」の方が「身体」によって基礎付けられる、と彼は考える。(p.69)
こうした活動的な身体のあり方を、彼は、とくに触覚などの感覚活動に関わる「皮膚」の例を引いて説明している。「我々は皮膚の内部に客観的世界をもっているのであり、
それが、我々にそれに相応するものを皮膚の外部に措定する根拠なのである。」(GW11−177?B二四七頁)「わたしが生きる身体」は、ショーペンハウアーのいうように
「皮膚の内部に」とどまっているのではなく、「穴をもった皮膚」「穴だらけ(poros)」の皮膚や肺(細胞)をもっている。
つまり身体は内部そのものが外部へと開かれているものなのである。こうしてフォイエルバッハは「開放的」活動的身体を提唱するのである。
この開放的活動性は、身体における内部と外部との関係を指示するゆえに(これは、後述するように、自己と他者―我と汝―との関係を含む存在規定を指示するものでもある)、
この内部と外部の「身体における」交通を、彼は>071>「肉交(fleischlihe Vermischung)」と表現する。そして内部と外部が連結した身体を生きるものとして、
その主観的な活動は「主観―客観」であり、それが関わる客観の方は「客観―主観」であるという。[......]彼の考える開放的活動的な身体による世界や自然との関係性は、
「空気や酸素との肉交」との表示から理解されるような、内的・外的な自然との繋がりだからである。(pp.70-71)
2 「食する」身体
[......]食(食糧)は開放的活動的身体の自然との内的・外的な実践的な関わりを端的に示すものとして、〈身体をもつこと〉と
〈肉体であること〉という身体の本質をあらわしている。[......]食はまさに開放的活動的>073>身体を表示しているものである。
彼が身体論は、「食する身体」の哲学でもあったのである。ここに、ターナーがいうように、今日の身体文化論の先駆を見ることができるだろう。(pp.72-73)
3 心身問題――「病む身体」
[......]そうした根源的な肉体性がもっとも感知されるのは、心が身体と葛藤するとき、すなわち身体が病むとき、飢えるとき、病理が現れるときであると、
フォイエルバッハはいう。(p.74)
[......]こうして身体の精神化・社会化がなされていく。それは身体の発展であるが、他方で精神(心)化・社会化による身体からの遊離という
「病む身体」を生みだすことにもなる。(p.74)
質料としての他我 川本 隆
はじめに
異文化としての他者、宗教上の他者(神)、生身の人間としての他者、自然(環境)としての他者など、他者論は今日さまざまな位相で問題になる。
情報技術、医療技術・複合科学技術の進展、異文化間の交流・対立が、その度を増せば増すほど、
あらためて他者とは何かを問題にせざるをえない状況に追い込まれているようにさえみえる。(p.113)
一 「他我」概念の推移
[......]フォイエルバッハは他我表象が「血を騒がせ、狼狽させ、混乱させ、驚愕や驚嘆のあまり茫然自失させる表象」であり、「荒々しい、生き生きとした、刺激的な表象」
として「質料〔物質〕(マテーリエ)」(GW3−65?F八二頁)であるという。(p.115)
三 ヴィーニガーの解釈――『フォイエルバッハの人間主義への道』を中心に
[......]ヴィーニガーが注目するのは「混乱した表象」の質料性に関する叙述である。(p.119)
四 『ライプニッツ論』改版の問題――質料の根源性
[......]「身体(Leib)......は、モナドが世界を表象したり、世界から触発されたりするときにとる固有な立場と視点である」(GW3−85?B一一二>124>頁)
というフォイエルバッハの言葉を引きながら、世界を超える絶対者ではなく「感性」によって世界内に位置する実践的人間的生活の立場が表明され、
「真理は人間的生活と本質の全体である」(GW9−338?A一五九頁)という『根本命題』のテーゼにつながってゆくとヴィーニガーはとらえるのである。(pp.123-124)
[......]フォイエルバッハが魂としてのモナドの能動性(自発性)よりも質料からの受動性に力点をおいていることは確かである。[......]しかし、
魂と質料は当時に措定されているという理解を、三三年時点で示していたにもかかわらず、四〇年代前半だけでなく、それ以後も、
フォイエルバッハがことさら質料性を強調するのはなぜであろうか。理由は三つ考えられる。
一つは、哲学的思弁からの決別である。[......]
二つめは、「感性」の意味変容である。[......]>126>
三つめは、自己投影的主観の制約と弱さの確認である。[......]フォイエルバッハは、質料としての身体、
生存の根拠としての自然への気づかいを深めていったのではないだろうか。
論理的思弁はもとより、四〇年代前半の受苦的パトスに支えられた躍動的自然観にフォイエルバッハが満足せず、質料性にこだわり続けていったことは、現代のわれわれにとって、
一つの警鐘であるように思われる。最終的な進歩的批判の立場にたっているという驕り・自己の身体(質料)への配慮のなさが、無意識に質料から意識を切り離し、
イデオロギー的疎外状態ないしコミュニケーション不全へ陥る可能性......。質料という物言わぬ弱者への気づかいが、他者との共存をはかる第一歩なのかもしれない。
(pp.125-126)
他者論をめぐるフィヒテとフォイエルバッハ 木村 博
二 自我の可能性の条件としての受動性
[......]フォイエルバッハにとって、他者とは、主体の矛盾を解消し、世界と架橋する絆である。(p.136)
ヘーゲルとの対話――思考の他者をめぐる問い 片山 善博
まとめにかえて
[......]感じるということは、確かにそこに私とは異なるかけがえのない他者が存在しているということだ。(pp.159)
[......]感性的な身体を備えているにしても、自己意識との関連で問題になり、その限りでの人間が想定されているにすぎない。自己意識を持つもののみが主体性を持つことになり、
それ以外の存在者の排除につながる恐れがある。フォイエルバッハは、むしろそこから抜け落ちてしまう感性的なものに根ざして、
かけがえのない他者である汝との共同を考えている。自己意識はむしろ人間存在の一つの契機に過ぎないとするような、そうした全人間的な関係おいて、
共同の思想を見定めていこうとするのが、フォイエルバッハの「我―汝論」と言えるだろう。絶対的な依存性(感性を通じた相互性)を自覚する中で思想は生み出されていく。
他者に対する受動性とは、そうした他者を引き受けること(自分が意味づけることではなく)である。感じるとは、そのような意味での絶対的な他者が存在するということなのだ。
一人一人の感受性に根ざした共同性のあり方が求められている。このような見方は、現代社会の共生・共同の議論を考えていく上で重要な視点だと言えるだろう。(p.160)
■しかく書評・紹介
■しかく言及
*作成:
北村 健太郎