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『生殖の政治学――フェミニズムとバース・コントロール』

荻野 美穂 19941215 山川出版社 266+21p.

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しかく荻野 美穂 19941215 『生殖の政治学――フェミニズムとバース・コントロール』 ,山川出版社 266+21p. ISBN-10: 4634480603 ISBN-13: 978-4634480605 2600+税 [amazon] /[kinokuniya] (注記)

しかく内容

現代人にとっては、あまりにも当たり前のことになってしまった避妊。それはいつ、なぜ、どのようにしてはじまったのでしょう。 生殖をコントロールするのが「正しい」ことになってゆく過程で、私たちはなにを失い、なにを得たのでしょう。産む、産まない、産ませないを決めるのは誰なのでしょう。 これは、イギリスとアメリカで展開された、産む、産まないをめぐるバース・コントロール運動の熱く苦闘の「歴史」であると同時に、 フェミニズムや優生学を軸に、「いま」の私たちの位置についても考えるための本です。

しかく目次

生殖の歴史をどうみるか

第1章 「静かな革命」のはじまり
1.生殖パターンの変化
2.だれが、いつ、どのようにして?
3.避妊は是か非か
第2章 バース・コントロールの時代
1.マーガレット・サンガーの「わが闘争」
2.性の「予言者」マリー・ストープス
3.バース・コントロールと堕胎
第3章 科学の旗のもとに
1.バース・コントロールと医学
2.時代思潮としての優生学
3.バース・コントロールと優生学
第4章 性愛と結婚
1.ヴィクトリアン・セクシャリティから性科学へ
2.ストープスと異性愛の神話
3.サンガーと「結婚の幸福」

現代への遺産
あとがき

〈書評〉 北村 健太郎

しかく要約

生殖の歴史をどうみるか

生殖という現象は歴史的、社会的、文化的に変化してきたものであり、その変化や多様性のなかには、つねに人間社会の多層的な権力関係が顔をのぞかせている。 今日の日本、あるいは西洋型社会に生きる私たちにとってはあまりにも自明のことになってしまっている避妊という考え方や行動が、 どのような歴史的文脈のもとに形成されてきたのかをたどるとともに、 それを支えた論理がどのように現代の性と生殖をめぐる諸問題と底流となっているのかについても考えてゆく。
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第1章 「静かな革命」のはじまり

1.生殖パターンの変化
しかく1798年 マルサス『人口論』発表
1.人口増加が社会にとって大いなる危険をもたらすという生殖にネガティヴな視点
2.人口を見るにあたって階級という視点を導入
3.科学的言説を用いて生存競争の厳しさと適者生存の原則を描く
産児制限の主張や運動が優生学的な発想と結びつく下地が準備される。
19世紀後半から20世紀前半にかけて、西ヨーロッパの国々で子どもの数が大幅に減少。私生活の領域で進行した「静かな革命」。

2.だれが、いつ、どのようにして?
しかく「だれが、いつ、どのようにして」の説明
1.バンクス(1954)およびバンクス夫妻(1964)の説明
1870年代の経済不況に直面して、子どもの数を減らすことを選択。家族計画の主導権は男性。
2.ブランカのバンクス批判
出生力の低下は1870年代の経済不況の以前から。経済的に恵まれている職種の家庭でも出生力が低下。 「専業主婦」たちは、家庭のためにも、自分の健康のためにも、出産コントロールした。
3.ギリスの「母性」概念の変容による説明
18世紀後半末ごろから、単に産むだけでなく、母親自ら母乳を与え、育てるようになる。 子育てを個々の母親が責任をもっておこなうべし、という規範の浸透が出生率低下を招く。

しかく避妊の手引書
1823年、プレイス 避妊キャンペーンのビラ「悪魔のビラ」を大量にばらまく
1826年、カーライル『全女性のための書』
1830年、オーウェン『道徳的生理学』
1832年、ノールトン『哲学の果実』
1854年、ドライズデイル『社会科学の諸原理』


しかく避妊の道具と方法
「ナイトキャップ」コンドーム 高価で、かつ買売春や性病をイメージさせる抵抗感
「子宮ヴェイル」ペッサリー バース・コントロール運動で脚光を浴びる
しかし、労働者階級にとって、道具を使う避妊方法、清潔さを保つ必要のある避妊方法は、非実用的。もっとも身近な出産制限の方法は堕胎。堕胎は危険を伴うが、
1.避妊を試みても、失敗に終わることが多かった
2.女の一存でできる方法であり、自分のからだに対して最後の決定権をもつことが可能
3.胎動がないうちは月経が滞っているだけという認識 通経剤の流布
堕胎は危険を伴うが、「自分のからだを管理したいと願う女にとって開かれた重要な選択肢」

3.避妊は是か非か
しかく1877年 ブラドロー・ベザント裁判(イギリス)
1876年、ノールトン『哲学の果実』が猥褻本として摘発。ふたりは出版の自由をめぐる宣伝活動に利用することを決意。裁判は無罪。 多くの新聞が否定的論調であったにも関わらず、『哲学の果実』に注文殺到。結果的に新マルサス主義のプロパガンダとなる。

しかく1873年 コムストック法の成立(アメリカ)
「受胎を防止するか、または堕胎をひきおこすことを狙ったり、その目的に合わせたり、意図しているすべての記事もしくは品物」の郵送を禁じる連邦法が成立。
避妊についての情報提供が事実上不可能になる。

しかく新マルサス主義への向き合い方
医師
教会にかわる新しい性道徳についての専門家、擁護者を自認。母親としての役割を放棄しないように指導することが社会的義務。新マルサス主義に敵対。
社会主義者(多数派)
男女の性別役割については、攻撃対象のブルジョワ階級に近い立場
社会主義者(フェビアン協会派)
産児制限を支持。子どもが少ない方が生活に余裕ができ、社会主義の浸透にも好都合

しかくフェミニストの新マルサス主義批判
『ヴィクトリア・マガジン』『イングリッシュウーマンズ・レビュー』避妊について沈黙。
1.フェミニズム運動は新マルサス主義のような過激思想と関係があるという非難を警戒
2.強い意志や高い道徳性、純潔、夫の妻への思いやりによる禁欲こそ望ましい

しかく19世紀末 ヴィクトリア朝の社会背景
女に純潔と貞淑を要求しながら売春産業が栄え、性病が家庭にまで蔓延した時代
1.性道徳を男なみ放縦化ではなく、女なみ純潔化へ変革
2.買売春は必要悪という性の神話に挑戦し、男たちの性行動を変革
人工的手段による避妊を認めると、夫にセックスの口実を与え、妻の自決権を奪い、ふたたび性病の危険にさらすとともに、 男の際限のない性欲の道具におとしめられることを恐れた。
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第2章 バース・コントロールの時代

1.マーガレット・サンガーの「わが闘争」
しかく「種の自滅」
1901年、ロスが初めて「種の自滅」という言葉を使う
国民の「劣化」や「退化」といった表現で、女の危機意識と責任感をかきたてる為政者

しかくサンガーの軌跡(アメリカのバース・コントロール運動)
1879年、マーガレット・ヒギンズ(のちのサンガー)、ニューヨークに生まれる。
1902年、ウィリアム・サンガーと結婚。
「サディ・サックスの死」バース・コントロール運動に目覚めるきっかけ。
1912年、社会主義系新聞『コール』にコラム連載
1914年、『女反逆者』労働階級向け雑誌を創刊。コムストック法違反で逮捕。 パンフレット『家族制限』(1922年、山本宣治『山峨女史家族制限法批判』で訳出)を書き、ヨーロッパへ脱出。 マルサス同盟代表ドライズデイルが歓迎。ステラ・ブラウン、ハヴロック・エリスらと出会う。
1915年、オランダの避妊クリニック訪問。その後、アメリカへ帰国。
1916年、当局、訴え取り下げ。バース・コントロールの宣伝に利用されることを回避?
サンガーは、バース・コントロールの講演旅行に出発。クリニックを開設。警察の手入れを受けるが、多くの女性の支持が集まる。
1917年、『バース・コントロール・レビュー』を創刊。アメリカの第1次世界大戦に反対。バース・コントロールの必要性を訴える絶好機と捉える。
1921年、正式に離婚
1922年、ノア・スリーと再婚。経済的後ろ盾を獲得。

2.性の「予言者」マリー・ストープス
しかくストープスの軌跡(イギリスのバース・コントロール運動)
1880年、マリー・ストープス、生まれる
1902年、地質学、地理学、植物学の学位を取得。
1905年、イギリスで最年少の理学博士となる
1907年、好意を抱いていた藤井健次郎を追って来日。
1909年、恋愛は成就せず、イギリスに帰国。
1911年、レジナルド・ラグルスと結婚。
1914年、結婚無効の訴えを起こす。
1915年、サンガーに出会う。このとき既に『結婚愛』を執筆中。
1918年、ハンフリー・V・ロウと結婚。『結婚愛』を出版、ベストセラーとなる。続けて避妊をテーマとした『賢明な親』を出版、これもベストセラー。
1920年、『輝かしい母性』出版。
1921年、「母のクリニック」開設。「建設的バース・コントロールと種の向上のための協会」を発足させ、会長となる。 国王侍医ドーソン卿、バース・コントロールへの支持を表明。
1923年、『避妊――理論・歴史・実践』出版。イギリスで出版されていた、サンガー『家族制限』が警察に押収されるが、ストープスは無視。
1924年、国王拝謁に招待される
1925年、クリニック移転
1928年、『持続する情熱』出版。

3.バース・コントロールと堕胎
しかく避妊と堕胎の区別
サンガーとストープスは、バース・コントロール運動の覇権をめぐって対立したが、避妊と堕胎を区別しようとしたことは共通。 だが、堕胎を出産抑制の選択肢から排除することは女たちの現実からは大きく遊離。多くの女たちが堕胎に依存。

しかく中絶の合法化を目指したステラ・ブラウン(イギリス)
ブラウンは、避妊と堕胎とを切り離さず、どちらも女が自由に生きられるようになるための基本的権利と位置づける。女の現実を誠実に反映。
1929年、女性の生命が危険な場合のみ、中絶を合法とする。
1930年、労働党政権は、健康に害があると認められた既婚女性のみに避妊指導を許可。
1931年、ジャネット・チャンス『イギリスにおける道徳の代価』出版。
1936年、堕胎法改正協会が結成される。
議長、チャンス
副議長、ブラウン、ラッセル
以下、実行委員会はすべて女性。
1939年、バーケット委員会の報告書。

多くの堕胎が行われていることは認めたが「中絶は生命と健康を害するおそれがある」とし、中絶の自由化を容認せず。女に決定権を与えるべきでない。

ヨーロッパ全体が軍国主義へと傾斜していくなかで、国家にとっては国民を生み出すものとしての「母性」の確保が重要であった。
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第3章 科学の旗のもとに

1.バース・コントロールと医学
1920年代から1930年代 「バース・コントロール」という思潮が国際的な影響力をもって広がる

しかくサンガーと医学界
1920年、ディキンソンが全米婦人科学会会長に選ばれる
1923年、ディキンソンは「母性保健委員会」をつくり、避妊の臨床研究に乗り出すが難航
1.輸入しようとしたペッサリーがコムストック法によって差し押さえられる
2.臨床試験のための患者を確保できず
1923年、サンガー、2度目のクリニック開設。「バース・コントロール臨床研究所」
1924年、サンガーとディキンソンの提携計画、他の医師の反対によって挫折
1925年、バース・コントロール国際会議で、クリニックのハンナ・ストーンの報告を聞くために多くの医師が集まる。ディキンソンも出席。
1929年、市警察は、クリニックに手入れを行い、患者の医療記録を押収。これを医師の専門家としての権限の侵害とみなした医学界はサンガーを擁護。 市警察は訴えを取り下げ、公式謝罪。
1929年、ディキンソンは、エディンバラ大学のクルーを代表とする化学的避妊薬(主として殺精子剤)の研究を推進。しかし1932年、クルー研究室は計画から撤退。
1937年、全米医師会、避妊の重要性を認め、医学教育を呼びかける決議。
1938年、ベイカーら、殺精子剤ヴォルパーを発表(イギリス)

しかくピルの登場
1951年、サンガー、ピンカスの研究を後押し。史上初の経口ホルモン避妊薬エノヴィドを開発。
1960年、米国食品医薬品局が、ピルの発売を認可する
ピルは、初の権威ある科学研究の成果として、最初から医師たちの熱心な支持を受ける。医師が直接患者の性器に触れることなく処方でき、相当な利潤も期待できた。 ピルの登場は、世界の避妊地図を急速に書き換えてゆくことになる。

しかくストープスと医学界
ストープスは医学教育こそ受けたことはなかったものの、科学者としての自信をもっており、医学界に対して、終始攻撃的で敵対的な態度を取り続けた。
1922年、医師へのアンケート調査「どのような避妊法を用いているか」
医師の多くは、信頼のおける有効な避妊法を持っておらず、禁欲以外にないと回答。また、主要な医学校に問い合わせ、避妊教育がカリキュラムに含まれていないことを確認。
1923年、『避妊――理論・歴史・実践』の出版は、上記の医学界の無知を認識していたため。
医学界の主流は、主に道徳的見地から避妊は「不自然」だとか「有害」だと決めつけ、それを一見医学的な説明によって正当化しようとした。 ストープスと医学界の関係は最後まで好転しなかったが、1920年代ごろから医師も避妊の重要性を認めるようになった。
1.医師の権威を失いたくなければ、避妊を医学領域に取り込まざるを得なくなった
2.優生学の流行で「種の衛生」という観点から避妊普及に同意した

2.時代思潮としての優生学
1920年代以降、バース・コントロール運動と優生学は同盟関係を結ぶ。

しかく優生学
1883年、ゴルトン(イギリス)の造語「血統改善の科学」
「積極的または建設的優生学」
社会にとって価値のある親に多くの子どもを産ませることを目指す。
「禁絶的または制限的優生学」
社会的に無価値な親に子どもを産ませないようにすることを目指す。

1904年、民族衛生学会が結成される(ドイツ)
1907年、国民優生学研究所を創設 所長 ピアソン(イギリス)
1907年、優生教育学協会が創立(1926年、優生学会と改称)
1909年、『ユージェニクス・レビュー』創刊
1912年、フランス優生学会(フランス)
1920年から人間の優良家庭コンテストが流行

スペンサー
女への高等教育は女の身体にとってもっとも重要な生殖器官の発達を阻害する
ゴルトン
大学教育や政治活動は男を魅きつけるための女らしさを失わせる
優生主義フェミニスト
たとえ婚期が遅れ子どもの数が減ったとしても、質の点で優秀な子孫を増やすことになる。

3.バース・コントロールと優生学
1917年、エリス、バース・コントロール擁護論を展開。
1926年、優生学会は、バース・コントロールを優生学の一環と認める。

しかくストープスと階級
理性的でない「親になるのにふさわしくない者たち」に対する強制的断種の立法化を主張。
生きる種としてふさわしいのは「もっとも完全で神のような人間」のみ。
1921年以来、優生学会の終身会員(死後、優生学会にクリニックを寄贈)
1939年、ヒトラーに自作の詩集を贈呈。

しかくサンガーと優生学
サンガーは「劣等」とされる集団の産出には社会的要因が強く作用しているという環境説の立場。
1919年から「精神薄弱者、精神病者、および梅毒患者」の断種に個人的支持を表明。
1920年、『女と新しい種族』
女性の自由への欲求を「女性精神」と呼び、これが妨げられるとき、子殺しや捨て子、堕胎が起こると主張した。 女は階級や人種にかかわりなく誰もが本能的に優生主義者であると主張し、バース・コントロールの女性への普及を正当化し、 かつ優生思想と生殖における女の自決権を両立させようとした。
1922年『文明の中枢』出版 論調の変化
バース・コントロールを科学のレヴェルまで高める。サンガーの拠り処は優生学。「種の劣化」を防ぐ道はバース・コントロール以外にはありえないと主張。
1928年、『バース・コントロール・レビュー』で断種特集
強制ではなく自発的であることの重要性を強調して断種を支持。

cf. 渡部昇一が「神聖な義務」で展開した論理も「自発的断種」である。
http://www.livingroom.ne.jp/d/h003.htm

バース・コントロールは、自己の論理を補強し運動を展開するために優生学という「時代の科学」に接近し、それを吸収したことで、 その体質の一部に、人間を選別し「生きるに値しない生命」の絶滅を是認する論理を内面化することになった。
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第4章 性愛と結婚

1.ヴィクトリアン・セクシャリティから性科学へ
1920年代から1930年代、バース・コントロール運動は、専門家の協力と社会的な威信の獲得をめざして、医学と優生学に接近した。 その結果、特に下層階級の貧しい人々が、その生殖能力を科学に管理されるべき対象とされた。 中流階級の人々には、結婚内での素晴らしい性愛、特に妻にとっての性の快楽の追求という新しい達成目標を提供した。

しかくヴィクトリア期の性意識
労働者階級と中流階級を問わず、性や生殖について、まったく予備知識のないまま結婚し、 最初の子どもが生まれるまで赤ん坊がどこから出てくるのか知らない女性も少なくなかった。
1900年、ウィルコックス『倫理的結婚』
1902年、グリア『女よ汝自身を知れ――婦人病、その予防と治療』
禁欲を旨とし、性交渉はできるだけ控えることが望ましいと説くものが多かった。

当時のイギリスでは女の方が多く、結婚相手を得られない女性が少なくなかった。 フェミニズムはこうした「余り者」の女たちのために教育や職業の機会均等を求める運動という側面を持っていた。 やがて「オールド・メイド」と「栄光ある独身女性」の区別が出てくる。

しかく性科学からの反論
1897年〜1910年 エリス『性心理学研究』6巻
1906年、ブロッホ『現代の性生活』
女性の性欲の肯定。女の人生が性愛の一点を中心に回転している。性科学者の考えはフェミニズムにとって両刃の剣。 「性欲不在の神話」から解放したが、女は男との性関係、生殖役割によってのみ規定された。男の目と解釈を通して作り上げられた定義であった。

しかく第1次世界大戦とジェンダー
戦時中、女たちは男たちのいなくなった職場に進出し、それまでに経験しなかった心身の自由を味わった。服装も変化し、コルセットは脱ぎ捨てられ、ズボンをはく女性も登場した。 戦後、多くの国で参政権が認められた。 大戦は男たちに精神的な痛手をも負わせ、女たちの「貞操」に対する疑惑が強まった。「元気な女たち」「うちのめされた男たち」という対照を生み出した。

2.ストープスと異性愛の神話
1918年、『結婚愛』出版
ストープスは、安定した国家の基礎は、男女のロマンティック・ラヴにもとづく幸福な家庭にあるという「近代家族」の信奉者であった。 女には定期的な性欲のリズムがあると考え、女の性欲における「規則的反復の法則」と名づけた。性交のさいに男女が同時にクライマックスに達することの重要性と、 女のオーガズムの権利を強調。おそらくイギリス初のセックスカウンセラー。

しかくストープスによる「正しいセックス」
1.男女間の膣・ペニス性交以外のヴァリエーションは示さず
2.未婚者や婚姻外の性的関係は、すべて「不道徳」の範疇

しかくその後のストープス
1938年、恋人をもつ自由を認めた「白紙委任状」を夫・ロウに書かせる。ロウは誠実に約束を守る。
1949年、ロウ、ひっそりと死去。
1952年、72歳のストープスは35歳年下のエイブロ・マンハッタンを恋人にする。
1958年、ストープス、進行した乳がんのため、78歳目前に死去。

3.サンガーと「結婚の幸福」
サンガーはウィリアムとの結婚中およびそれ以後に十指にのぼる数の男性との親密な交際があった。 ハヴロック・エリスとの「師弟」恋愛は有名だが、「本命」はむしろロレンゾ・ボルテット。
1926年『結婚の幸福』出版
10代の若い時期から正しい性の知識を持つことが重要として、性教育を勧めている。

しかくセックスは「芸術(アート)」
男の役割
強い自制心を駆使して女という楽器から隠された音楽を引き出す作曲家
女の役割
「受け身の能動」受け身でいながら主導権を握る

しかくサンガー、ストープスからのメッセージと功績
1.女の性衝動と性への欲求の正面からの肯定。
2.性愛を楽しむために避妊の実行は前提条件である。
3.避妊のネガティヴなイメージをぬぐいさり、議論を陽のあたる場所に引き出す。

しかくオーガズムという目標
サンガー、ストープスは、性愛の完全さをオーガズムの達成に求めた。 妻は性交渉を行うかどうかの決定においては主導権を握ったが、性行為自体のなかでは受動的な存在に留まった。

しかく「感じさせる男/感じさせてもらう女」という異性愛の公式
1.オーガズムに導く夫という、新しい「男らしさ」を提供する反面、妻/女を感じさせることができるのかという夫/男の側の不安を反映する。
2.敏感に反応する「官能的な妻」という新しい規範を生み出した。オーガズムは女にとって権利であると同時に果たすべき義務となった。 「本当の」オーガズムを味わっていないのではないかという不安や焦りにも付きまとわれるようになる。
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現代への遺産

しかくバース・コントロール運動がもたらした負の遺産
1.女の身体に対する自決権の放棄
医学や優生学に接近した結果、生殖コントロールの領域に科学者が参入し、生殖を管理する主体が女から男に移った。
2.優生思想の浸透
a.南北問題
南北に使用される避妊法に差異が見られる
b.優生思想の内面化
健康で優秀あること=幸福=善という等式の内面化

しかく「健康」や「正常」の中身を問わない
排除のカテゴリーを生み出す。生殖コントロールという思考自体のなかに、既に選別と排除の肯定の論理が横すべりしていく準備。

しかく女と健康運動
「女のからだは女のもの」というスローガンのもと、バース・コントロール運動の出発点に戻る。
1994年、国際人口・開発会議に筆者(荻野)出席
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しかく書評

北村 健太郎
本書は、ジェンダーの視点から、現代の避妊という考え方や行動がどのような歴史的文脈のもとに形成されてきたのかをたどり、 それらと現代の性と生殖をめぐる諸問題の関連について考察した1冊である。 「生殖という現象は歴史的、社会的、文化的に変化してきたものであり、その変化や多様性のなかには、つねに人間社会の多層的な権力関係」があるという、 筆者の問題関心が本書を貫いている。
全体の構成は、4章からなっている。第1章「『静かな革命』のはじまり」で、避妊/堕胎の始まりを当時の道徳規範と絡めながら論じ、 第2章「バース・コントロールの時代」で、マーガレット・サンガーとマリー・ストープスという代表的な運動家の軌跡を通じて、 バース・コントロール運動の登場とその展開を述べている。 第3章「科学の旗のもとに」では一転して、バース・コントロール運動と当時発言力を持ち始めていた医学と優生学との関わりを述べ、 第4章「性愛と結婚」で、再びサンガーとストープスに戻り、セクシャリティの意識の変化を論じている。
本書を織物にたとえるならば、サンガーとストープスの自伝的要素という糸と、医学と優生学の言説という糸を織り込んでいくことによって、 「フェミニズムとバース・コントロール」というタペストリーを見事に描き出している。しかし、忘れてはならない糸がもう一本ある。 それは「女の身体に対する自決権」という糸である。これは先のふたつに比べると目立ちにくいが、読み進めていくと本書を貫く重要なテーマであると分かる。
例えば、19世紀半ばから急増したといわれる堕胎について、筆者は多くの国が禁止していた堕胎がなぜ減らなかったのかと問う。 そして、堕胎は「自分のからだを管理したいと願う女にとって開かれた重要な選択肢」であったと述べる。 また、バース・コントロール運動が、運動拡大の戦略として医学と優生学に接近したことは、 結果として「生殖を管理する主体がはっきりと女から男へ移ったことを意味した」として、「女の身体に対する自決権の放棄」の問題を指摘する。
全体として、サンガーとストープスのエピソードがかなり詳しいが、決してそれらの記述に埋没していない。 あくまでも冷静な筆致で2人のエピソードを書き、それを通して当時の社会的背景を説明している。ミクロからマクロへ無理なく話が展開するので、とても分かりやすく読みやすい。 本書を評価するにあたって、私は2つの立場があり得ると考える。ひとつは、言うまでもなく専門的な「研究書」としての評価である。 もうひとつは、一般的な「読み物」としての評価である。前述した本書の読みやすさが「読み物」としての評価を可能にしている。
まず、研究書としては、限られた紙幅の中にバース・コントロール運動に関わるエッセンスを収めたことは評価できる。 ただ、筆者も認めているが、「欧米のバース・コントロール運動と日本の産児制限運動のかかわり」がそれほど書かれていないなど、やや物足りない点があることは否めない。 個人的には、中絶の合法化を主張したステラ・ブラウンらについての記述がもう少し欲しかった。研究書としてみた場合、あっさりし過ぎている点があると思われる。 一方、読み物としては、私を含めて今までバース・コントロール運動などに触れたことのなかった読者をぐいぐいと引き込んで、 最後まで読ませてしまう面白い読み物であると評価できる。全体的に軽快な筆致でありながら、サンガーとストープスの自伝的要素が一般的な読者を飽きさせない。 ただ、読み物とすれば、専門的な部分の説明が充分であるかどうかは評価の割れるところであろう。
どちらにしても、論の運びの丁寧さ、表現の簡明さは評価されるものであり、私も学びたい点である。
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しかく言及

だいやまーく北村 健太郎 20100320 「子育ての政治社会学――子育てをめぐる論点の概括」
『研究紀要』33:37-54.姫路日ノ本短期大学,63p.

しかく引用・紹介



*作成:北村 健太郎
UP:20040608 REV:20160612
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