last update: 20200929
■しかく報告内容
0 報告の概要と構成
本報告では、障害者の「性の多様性」に関する議論を広げるため、障害者とセクシュアル・マイノリティの交差的経験を考察する。LGBT運動が行われている台湾社会の文脈において、身体障害をもつ男性同性愛者は、どんな性的抑圧と差別に対面しているのか、抑圧と差別とどう闘っているのかについて明らかにする。また、マイノリティの内部におけるさらなる差別の存在をも検討する。
本報告の構成について、まずは障害者のセクシュアリティをめぐる問題を検討する。次に、身体障害をもつ男性同性愛者であるVincentさんにインタビューを行ない、Vincentさんがセクシュアリティを探求してきた過程、そしてそこで直面した抑圧と差別の状況を考察し、それをまとめた後、今後の展望を提示する。
1 障害者のセクシュアリティをめぐる問題
近代において障害者は「生殖にふさわしくない身体」の持ち主として、そのセクシュアリティが否定されてきた(上野 2009)。McRuerとMollowによれば、障害者とセックスの関係性は大衆の想像力において、反対するほどではないとしても、不調和なものであると認識されている(McRuer and Mollow 2012)。安積は「障害者は『無性』と位置づけられた」、「障害を持つ人は自らの性について考えることを拒まれ、口に出すことさえ怖くできなくさせられている」と指摘する(安積 2009: 83-4)。
90年以後、障害者運動や障害者権利条約の成立の影響で、障害者の性に光が当てられるようになった契機のひとつに「性」のノーマライゼーションという考え方がある。そして、障害者の性的欲求、性へのサポートに関する議論もされてきた(谷口 1998,河合 2004)。一方、倉本は障害者を「性的弱者」に押し留める四つの障壁として、?@出会いの機会が少なく、?Aコミュニケーションが難しく、?B外見の可変性が低く、?C性欲な主体と見られてこなかった歴史を持つことを挙げている(倉本 2005: 20-6)。恋愛(=異性愛)と性が結婚に結び付けられ、それを「自然」で「常識」だと捉える場合、障害者の性は問題になる(松波 2005: 45-6)。異性愛的な枠組みの強制に苦しむ障害者が存在することを提示したのは、脳性まひという機能障害を持つ男性同性愛者である花田実である。花田は障害学研究会関東部会第18回研究会でこう述べている。
これまでの障害者と性の課題は、この社会の前提としているヘテロセクシズムの上にのっかった形で展開しています。障害者は恋愛や結婚は、一人の人間として当然であると主張してきました。この主張は、ある意味で正しいと言えます。しかしそのことだけに目を向けてきたところに問題があります。何故なら、それは障害者がいかにしてヘテロセクシズムを権利として獲得するのか、といった話でしかないからです。そのような一方的・一面的な見方ではなく、障害者がいかにしてヘテロセクシズムの陥穽にはまることなく自分らしい生き方を選択することができるのか、といった見方も必要です(花田 2001)。
障害者の身体がセクシュアル化されるとき、「正常」または「普通」と規定されるのは異性愛規範であり、それ以外の多様なセクシュアリティ(性自認、性的指向、性実践など)は見落とされてしまう傾向にある。障害者における多様なセクシュアリティを見落とすことで、異性愛規範に従ってない障害者をコミュニティから排除してしまうことになる。
障害とセクシュアル・マイノリティの交差(intersection)についての議論は、欧米のフェミニズム、クィア理論、障害学の中で展開されてきた(McRuer 2003,Kafer 2013)。 McRuerが提示したクリップ理論(Crip Theory)によれば、障害学とクィア理論の両者に共通する問題として「正常性normalcy」の問題がある。健常者主義と異性愛主義の規範に強制される社会のなかで、障害とクィアは規範から排除される逸脱的な存在である(McRuer 2006)。Kaferは障害者運動とフェミニズム運動、LGBT運動の共同的実践が不可欠であると指摘している(Kafer 2013: 149-69)。90年代から展開されてきた台湾のLGBT運動は、「性の多様性」を求め、自分の性を自由に選択できる社会に変えていくための、さまざまな「制度化」を求めてきたが(Huang 2011, 鈴木 2017)、この運動において障害のある性的少数者の問題にも初めて光が当てられることになる。
2 調査概要
本報告では、筆者が単独でおこなったインタビュー調査を取り上げる。前述した台湾のLGBT運動に積極的に参加している身体障害をもつ男性同性愛者であるVincentさんに中国語でインタビューを実施した。
Vincentさんは1960年代にラオスの裕福な華人家庭で6人兄弟の長男として生まれた。歩くようになった直後に急性灰白髄炎(ポリオ)を罹患し、両手は動かせるものの、下肢の機能を喪失した。Vincentさんが8歳になるまで、母はありとあらゆる治療を試したという。1975年にインドシナ三国といわれるベトナム・ラオス・カンボジアは相次いで社会主義体制に移行すると、Vincentさん一家は台湾に移住し、そこでVincentさんは小学5年生から中学3年生までの5年間を障害者施設で過ごした。高校を卒業した後、家族に負担をかけないよう、仕事を見つけ、自立生活を送るようになった。また、メディア放送の専門技術を習得し、新聞社とラジオ放送の仕事を長期間していた。現在はパートナーと一緒に障害のある性的少数者の活動を企画し、当事者団体を発足させ、グループのリーダーとして台湾のLGBT運動と障害者運動で活躍している。
3 身体障害をもつ男性同性愛者の語りから
3.1セクシュアリティを自覚する
Vincentさんは中学時代、思春期の男の子たちが身体の変化や性の悩みの話で盛り上がっているとき、自分が近づくと、皆の話が急に止むという経験をしたという。「なぜこの話題に参加させてくれないの」と聞くと、みんなは「きみにはこの話はわからないし、必要もないだろう。きみにどう話をすればいいかもわからない」と言われたそうである。また、5年間を過ごした障害者施設では、性教育がなかったどころか、セクシュアリティはタブー視されていた。
やがてVincentさんは女性と付き合うことになった。そのとき、女性に性的衝動を抱かないのは、ジェントルマンになるように教えてきた母のしつけのおかげだと認識していた。アジアの伝統的な家庭と同じように、Vincentさんは両親から性教育を受けることがなかった。自分は男であるから女性と結婚するのがあたりまえであるとも考えていた。
29歳までは、人生のすべてが障害に対する恐怖と不安に支配されていたので、自分の性的指向について考える余裕がなかった。そして、障害者であることを肯定的にとらえてから、ある日、僕は同僚の男性が好きになったことに気付いた。
自分が性的存在ではないと思いこまされている障害者は、性欲を抑圧されている状態に置かれている。しかも、異性愛中心の社会構造の中では、異性愛者であるべきだとする周囲の期待に応えなければならない。障害者はみずからのセクシュアリティを自覚するまでに多重の障壁があることがVincentさんの経験談から明らかになった。
3.2ハッテン場の体験について
90年代初めの台湾社会は同性愛に対してまだ保守的で、当時は「相手探し」の方法も非常に少なかった。特に、Vincentさんの周りにはカミングアウトしているゲイの友達もいなかったので、自分の足で相手を探さねばならない状況にあった。Vincentさんは台湾で有名なハッテン場である新公園に行った。当時、夜の新公園が同性愛者のハッテン場であることは不名誉だと社会的に非難されていた。また同性愛者のコミュニティ内部からも、性行為のために公園で活動を行うことに対する蔑視があったという指摘もある(呉 1998)。このような二重の差別がある状況の中で、Vincentさんはさらに障害者であることで他の同性愛者とは異なる経験もしてきた。いわば、Vincentさんは新公園において「普通」とみなさる二重の差別の状況を撹乱する存在だったとも言える。Vincentさんはこう述べている。
同性愛者の世界が僕を受け入れてくれるだろうか。おしゃれで、自信満々のイケメンたちを前にして、三十歳で醜い身体の僕は、車から出る勇気がなった。それで僕はいつも車に座ったまま、足のキャリパーを外し、それを松葉杖と一緒に車の後ろに隠した。男たちは僕が障害者であることを気付かず車に入ってくる。しかし、彼らは僕の体を触ると僕の足が変なことがすぐに分かる。時に、何も言わずにやった後すぐに車から出ていく人がいる。あるいは、終わった後で、「きみ、かわいそうだね。足がこんなことになってしまって」と言う人もいる。また、僕の足を触って逃げた人もいる。
Vincentさんはブログ「追愛無障礙:拐進了新公園(障害のない愛を求めて:新公園へ)」(残 2016)にこう書いている。引用文は記事原文を筆者が翻訳したものである。
ある青年が僕のほうに歩いて来た......
「えっと......きみは足にけがをしたの?」やっと声をかけてくれたが、この青年とは話をしないほうがよかったと思った。
「ううん、けがではないよ。僕が生まれた頃はポリオが流行して......」と僕は真面目に答えたが、青年の身体を触りたくなっている。
「かわいそうに!セックスができなくなってしまったんだね!」と青年が言う。
なんだって!僕はこの言葉に驚愕した!なんで僕はセックスができないと勝手に決めつけているの?セックスはもちろんできるよ。僕は"1"(タチ)なんだよ!と弁解しようと思ったが、青年はさっさと僕のそばから離れて行った。
このような経験が何度もあった。正直、僕の容姿が醜いからセックスをしたくないと思われていたのなら、これは残念だけどしょうがない。しかし、セックスができないと判断されるのは本当に許せない。これは侮辱だ!こういうとき反撃として僕は相手を挑発するように「信じてないなら、やってみようよ!」と言うけれど、相手は何もかも冗談と受け取って笑うだけだ。
Vincentさんは、好みの問題でセックスを拒否されるのは理解できるが、足の障害を理由にセックスができないと判断されるのは侮辱だと感じた。また、想像もできないような、答えられない質問をされることもあったという。
新公園で僕がナンパしたある男性にこう聞かれた。「障害のせいで、女性は誰もきみと結婚しないから、同性愛になったんだろう?」
「僕たちがこうしているのは、きみとセックスをしてくれる女性がいなかったからなの?」と僕は答えた。
「障害のせいで結婚できないので同性愛に変わったの?」と聞かれたこともある。同性愛者からこんなふうに聞かれることはあまりないが、異性愛者はよくこういう質問をする。
みんなが僕に"同性愛になった理由"を聞きたがるのはなぜだろう? 僕に対する好意的な関心と考えられるものなのか? あるいは彼らが期待している異性愛の障害者像と僕がずれていただけなのか?
新公園でのVincentさんの活動は、社会で無視されてきた障害者の性についての探求を深め、自らの性的自由を獲得しようとする「生の実践」であったと言える。そこではハッテン場としての公園の空間は、障害者が性行動の主体になる可能性を提供する空間へと転換している。しかし、公園では身体の障害は他者の目にとまりやすく、そのせいで、障害者に対する嫌感や同情のこもった人々の態度を繰り返し目にしてきたVincentさんは、しばしば疎外感を抱くことがあった。身体障害をもつ男性同性愛者が性行動の主体になるには、どれほどの困難がともなうのか、Vincentさんの語りはその苦労をも語っている。
4 結論
Vincentさんの経験談から、障害者がみずからのセクシュアリティを自覚するまでに多重の障壁があり、性行動の主体になるにはたくさんの困難が存在することが見えてきた。
社会や文化が「健常者ではない身体をもつ人間」を「障害者」にしていくのである(稲原 2020: 156)。そして、障害者もまた自らを性的存在ではないと思いこむことで、性欲が抑圧された状態に置かれることになる。しかも、異性愛中心の社会構造の中では、障害者のセクシュアリティが問題になる時、異性愛者でなくとも、異性愛者として振舞わなければならない。Vincentさんも自分の性的指向を自覚するまで、「異性愛の障害者になる」という過程をくぐりぬけてきた。
身体障害を持つ男性同性愛者が自らの性的抑圧を解放しようとすると、多重な差別を受けることになる。「健常性とヘテロセクシュアリティが相互に絡み合いながら規範化した社会」(McRuer 2006: 2)が生み出す「健常な異性愛者」という社会的規範。それが社会的マイノリティである障害者と同性愛者に対しては、「異性愛である障害者」や「健常な男性同性愛者」という二重の規範として働き、Vincentさんはその規範に自らの身体でもって撹乱をもたらそうとしている。交差性を持つ障害のある性的少数者の行動が顕在化することで、これまでマイノリティの内部におけるさらなるマイノリティに対する差別が自覚され、コミュニティの中に存在する規範が問い直され、立て直される契機になるだろう。
*謝辞
本研究は日本学術振興会「特別研究員奨励費(20J21415)」の支援を受けていた。記して感謝申し上げる。
参考文献
- 安積遊歩,2009,「癒しいのセクシー・トリップ」天野正子ほか編集委員『セクシュアリティ(新編日本のフェミニズム6)』岩波書店,83-8.
- 殘酷禪(=Vincent),2016,「追愛無障礙――拐進了新公園」,AGE OF QUEER,2016年4月14日,(2019年11月24日取得,http://ageofqueer.com/archiVes/9478)
- Egner, Justine E, 2018, "Hegemonic or Queer? A Comparative Analysis of Five LGBTQIA/Disability Intersectional Social Movement Organizations," Humanity & Society, 43 (2): 140-78.
- Kafer, Alison, 2013, Feminist, Queer, Crip, Indiana University Press.
- 倉本智明編,2005,『セクシュアリティの障害学』明石書店.
- 花田実,2001,「セクシュアル・マイノリティ――特に障害を持つゲイから見た社会」障害学研究会関東部会第18回研究会.
- 稲原美苗,2020,「障害はどのような経験なのか――生きづらさのフェミニスト現象学」稲原美苗・川崎唯史・中澤瞳・宮原優編『フェミニスト現象学入門』ナカニシヤ出版,155-66.
- Huang, Tao-Ming, 2011, Queer Politics and Sexual Modernity in Taiwan, Hong Kong University Press.
- 河合香織,2004,『セックスボランティア』新潮社.
- 松波めぐみ,2005,「あるいは呪縛としてのロマンチッククラブ・イデオロギー」倉本智明編『セクシュアリティの障害学』明石書店,40-92.
- McRuer, Robert, 2003, Desiring Disability: Queer Theory Meets Disability Studies, Duke University Press.
- ――――, 2006, Crip Theory: Cultural Signs of Queerness and Disability, NYU Press.
- McRuer, Robert. and Anna Mollow, 2012, Sex and Disability. Duke University Press.
- 鈴木賢,2017,「台湾における性的マイノリティ『制度化』の進展と展望」『比較法研究』78: 231-46.
- 谷口明広編,1998,『障害をもつ人たちの性――性のノーマライゼーションをめざして』明石書店.
- 上野千鶴子,2009,「『セクシュアリティの近代』を超えて」天野正子ほか編集委員『セクシュアリティ(新編日本のフェミニズム6)』岩波書店,1-39.
- 呉瑞元,1998,「孽子的印記――臺灣近代男性「同性戀」的浮現(1970−1990)」台湾国立中央大学歴史研究所中華民国87年度修士論文.
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■しかく質疑応答
※(注記)報告掲載次第、9月19日まで、本報告に対する質疑応答をここで行ないます。質問・意見ある人は
tae01303@nifty.ne.jp(立岩)までメールしてください→報告者に知らせます→報告者は応答してください。宛先は同じく
tae01303@nifty.ne.jpとします。いただいたものをここに貼りつけていきます。
※(注記)質疑は基本障害学会の会員によるものとします。学会入会手続き中の人は可能です。→
http://jsds-org.sakura.ne.jp/category/入会方法 名前は特段の事情ない限り知らせていただきます(記載します)。所属等をここに記す人はメールに記載してください。
◆だいやまーく2020年09月02日 立岩真也
これは報告者に対する質問というよりは、ご存じの方いればということなのですが、
報告中もに出てくる花田実さん、2002年に亡くなられたとのことですが
http://www.arsvi.com/w/hm03.htm
にある情報以外になにかご存知のことあれば教えていただけますとありがたいです。
http://www.arsvi.com/2020/20200919os.htm#qa
と
http://www.arsvi.com/2020/20200919os.htm
に掲載させていだたきます。
◆だいやまーく2020年09月04日 欧陽珊珊
花田実氏に関する質問は、今のところ手に入れる資料を生存学ページで掲載しています。
一つ資料文献の補足になりますが、花田実氏と伏見憲明氏の対談「障害者のゲイ」という文章は、『変態(クィア)入門』ちくま文庫(伏見憲明, 2003)にも収録されています。
また花田実氏が主宰した障害者プランチの活動は大阪市淀川区で展開したことがありますが、それ以上詳しい情報を見つかりませんでした。
どなか様がこの活動をご存知したら、教えていただければと幸いです。
◆だいやまーく2020年09月09日 竹田恵子
「健常な異性愛者」という社会的規範は、同性愛の障害者に対して、「異性愛である障害者」や「健常な男性同性愛者」という二重の規範として働くことがよくわかりました。そして、Vincentさんが、その規範に自らの身体で撹乱をもたらせるかもしれないことは、インタビューならではの説得力から伝わってきました。
ご報告を拝読し、一つ気になったことがあります。Vincentさんがある青年に「(君は)セックスできない」と否定されたときに、「僕は"1"(タチ)なんだよ!」と言おうとしたことです。「ウケ」ではなく「タチ」であることを強調したかったということは、Vincentさんが今のゲイ社会(つまり、「健常な男性同性愛者」の社会)で有能かつ積極的な一員になれることを主張したかったように思えます。つまり、Vincentさんは、自分を排除するゲイ社会の規範と、男性優位のジェンダー規範を強く内面化しているのではないでしょうか(もちろん実際には、「ウケ」が「タチ」よりも従属的というわけではないようですが)。
同性愛である障害者のVincentさんは、自らの身体をもって外部から社会的規範へ挑戦する存在であるとともに、そんな社会的規範を内面化してしまっている社会構成員としての自分とも向き合わねばならないように思います。性的マイノリティである障害者は、戦うべき相手が外にも内にもいることになる。とても複雑で難しい立場にあることがわかりました。
以上は質問というほどのものではありませんが、このような気づきに対して、何かコメントをいただけるようでしたら有り難いです。
◆だいやまーく2020年09月17日 欧陽珊珊
ご質問をいただきありがとうございます。報告で述べた通り、「性的マイノリティである障害者は、戦うべき相手が外にも内にもいることになる、とても複雑で難しい立場にある」と考えます。
Vincentさんの語りのなかで「僕は"1"(タチ)なんだよ!」という表現は、竹田様が「Vincentさんは自分を排除するゲイ社会の規範と、男性優位のジェンダー規範を強く内面化しているのではないでしょうか」と考えていますが、確かにこうした分析ができるかもしれません。しかし、当時Vincentさんは、"1"であること、またはペニスを押入する行為に対する認識が、男性優位のジェンダー規範を【強く内面化している】ことを表現しているのかについて、もっと厳密な考察を行う必要があると思います。特に、このあとにVincentさんはLGBT運動に参加して、そこからまたいろいろな影響を受けていたと思います。
今後この点について丁寧に見ていきたいです。
◆だいやまーく2020年09月18日 欧陽珊珊
欧陽さんの発表に対してコメントと質問, そして竹田恵子さんがされたコメントに対して批判があります.
研究のテーマから, 欧陽さん自身がいだいている問いや思っていること (の真偽を確かめたい) というような, 研究に対する欧陽さん自身の立場や位置というものが省かれているように感じました. それもあって研究からは,「『障害者』と『セクシュアル・マイノリティ』という属性に合致した, という理由だけでVincentさんを対象に選び, 語りやあり方を既存の理論に適合させて解釈して, 極端に普遍的な結論 (マイノリティのライフストーリーには抑圧の影響や困難が存在する) へと導いていく」ような印象を感じました. インタビューの対象者個人や, 研究対象とされたマイノリティ集団に対しては, そういうアプローチの対象とされてしまうということ自体が, disablingな影響をもたらしはしないでしょうか.
そしてまた, 特定の「身体障害をもつ同性愛者 [sic]」個人を,「自らの身体でもって撹乱をもたらそうとしている」といった役柄や「契機」として配していくというのは, あまりにも安易で (また正しくもない) ステレオタイプへと対象者の存在や軌跡を落とし込んでいるように思います.
質問:
?@ 欧陽さんはどのような目標, 主張, 問いなどを持って, Vincentさんを選びインタビューを行いましたか? あるいは, 欧陽さんはVincentさんとインタビューをすることで, どのように目標, 主張, 問いなどに影響を受けたと思いますか?
?A Vincentさんは調査を介して特にどんなことを世の中に示したかった, 伝えたかったのだと思いますか?
?B 欧陽さんは今回の研究や発表において, Vincentさんにはどんな成果を返したり報告したりする予定ですか?
?C 発表では, フェミニズムとの連関 (が大切であるということ) について触れられています. 川添もそれに強く同意します (ただそれは新しく協同するようなものではなく既に周縁としてあったと思います) が, 欧陽さんの研究にそれを適用した時にどのように自身の研究を位置付けますか? 例えば, セクシャリティに対しての政治の積み重ねにおいては, 偏ってシスジェンダー, ゲイ男性, 自立生活者, 有職者, パートナー志向者, 大都市圏のコミュニティ, (行政に親和的, 法制化志向の) 運動団体のリーダー, 等々々がモデルとして運動や研究で取り扱われがちであったことに対して, 以前からずっと批判がありましたよね.
あと, 2020年09月09日に竹田恵子さんがされたコメントに対して批判します.
コメントでは「『タチ』であることを強調したかったということは、(略) Vincentさんは、自分を排除するゲイ社会の規範と、男性優位のジェンダー規範を強く内面化しているのではないでしょうか」とあります.
調査対象者が性的なあり方や願望を開示した時に, それに対して超越的で一方的に安全な位置から,「調査対象者 (の欲望) には規範の内面化が含まれているのではないか」などと仮説を論じたり検討すること, そのような精神分析めいた行為や「研究」はハラスメントです. またそれに接続して「Vincentさんは (略) そんな社会的規範を内面化してしまっている社会構成員としての自分とも向き合わねばならない」などと (自身やマジョリティや社会への問い返しすら省いて) 規定的に提言することもです.
そういったコメントが飛び交い, (それが学問の場で容認される) こと自体, 調査対象者 (およびそれに似た方) の現実のセクシュアリティそのものに対して, 今まさに強烈な抑圧をもたらしています.
川添 睡 (かわぞえ ねむる)
◆だいやまーく2020年09月18日 竹田恵子
川添 睡様
ご意見をありがとうございます。大きな反省と、いくつかの新しい疑問を持ったので、これについて述べたいと思います。
調査協力者が性的なあり方や願望を開示したときに、超越的で一方的に安全な位置から仮説を論じたり、精神分析めいた検討をしたりすることはハラスメントであるとのご指摘に目が開かれた思いがします。常々、超越的な神のごとき視点から物事を見て、解決を図ろうとする研究者の傲慢さに意識的であろうとしていたにも拘わらず、その戒めを失念していたことを反省しています。
ただし、先に「Vincentさんは (略)そんな社会的規範を内面化してしまっている社会構成員としての自分とも向き合わねばならない」とコメントしましたが、これはマイノリティであるVincentさんが被るマジョリティの社会的規範の影響力の大きさへ思いを巡らせたことによるものでした。このような逡巡をも否定されるべきでしょうか。
川添さんは、Vincentさんの言葉から、マジョリティの規範やそれが支配する今の社会のあり方を問い直すことを重視されているようにお見受けしました。そのような姿勢に私も共感しますし、賛成します。
しかし、同様の問題意識がある私は、マジョリティの社会的規範が及ぼすマイノリティの心理へ関心が向いてしまいます。なぜならば、Vincentさんの周囲には、マイノリティに抑圧的なマジョリティ社会があり、その影響をVincentさんは否応なく受けているように思えるからです。「Vincentさんは(略) そんな社会的規範を内面化してしまっている社会構成員としての自分とも向き合わねばならない」としたのも、このような関心と視点があったからであり、私自身やマジョリティ社会への問い返しをあっさり抜かして、規定的な提言をしたつもりではありませんでした。むしろ、マジョリティの規範を問い直し、再意識したうえでの発言であったことを強調したいです(コメントにそれを明確に表せなかったことは未熟の至りです)。そして、今回の欧陽珊珊さんのご報告も、Vincentさんの話に表れるVincentさんの心理を通して、マイノリティ社会の抑圧性を指摘しようとしているのだと、私は理解しました(欧陽珊珊さんの意図は違うかもしれませんが)。
もちろん、このようなアプローチは、同じ大きさでもって、マジョリティら(二項対立にも問題があるように思えましたので、あえて「マジョリティら」としました)にも向けられるべきではないかと思います。そして、関係者の心理を超越的に検討するという学術界の特権性や、ハラスメントという実害についても反省すべきかと思います。
しかしその一方で、「そういったコメントが飛び交い,(それが学問の場で容認される) こと自体, 調査対象者 (およびそれに似た方)の現実のセクシュアリティそのものに対して,今まさに強烈な抑圧をもたらしてい」るとの指摘がもたらす効果についても自覚的であって欲しいと思いました。差別や偏見、ハラスメントを強烈に指摘されることによって、相手は萎縮し、発言しなくなってしまいます。これではいつまで経っても問題解決に至りません。
問題は山積ですが、私は議論こそが問題解決と理解の第一歩だと思っていますので、あえてこのような疑問を表しました。未熟な点が多いと自覚しながらの返信ですので、忌憚ないご意見をいただけますように。
◆だいやまーく2020年09月18日 倉本智明
欧陽珊珊さんのご報告「障害者のセクシュアリティに関する考察――身体障害をもつ男性同性愛者の経験を中心に」、強い関心をもって読ませていただきました。
と記しつつ、以下は、表記の報告への質問ではなく、質疑応答の中で交わされたやりとりへのコメントです。
川添 睡さんがなされた下記の指摘は、学問倫理上のみならず、実践的な効果という点でもおろそかにできない問題提起を含んでいると考えます。
<ここより引用>
あと, 2020年09月09日に竹田恵子さんがされたコメントに対して批判します.コメントでは「『タチ』であることを強調したかったということは、(略) Vincentさんは、自分を排除するゲイ社会の規範と、男性優位のジェンダー規範を強く内面化しているのではないでしょうか」とあります.調査対象者が性的なあり方や願望を開示した時に, それに対して超越的で一方的に安全な位置から,「調査対象者 (の欲望) には規範の内面化が含まれているのではないか」などと仮説を論じたり検討すること, そのような精神分析めいた行為や「研究」はハラスメントです. またそれに接続して「Vincentさんは (略) そんな社会的規範を内面化してしまっている社会構成員としての自分とも向き合わねばならない」などと (自身やマジョリティや社会への問い返しすら省いて) 規定的に提言することもです.
そういったコメントが飛び交い, (それが学問の場で容認される) こと自体, 調査対象者 (およびそれに似た方) の現実のセクシュアリティそのものに対して, 今まさに強烈な抑圧をもたらしています.
<引用ここまで>
ここに露呈した事態は、直接言及されているセクシュアリティに関わる領域に限定された問題に留まらず、広く調査研究をめぐる言説空間と、これとさまざまなかたちで接点をもち、なにがしかの影響が予想されうる場や人びとにかかわりをもつ事柄かと思います。
できるなら、特定の報告への質疑応答という狭い場での議論に終わらせず、もっと多くの人が問題の存在を知り、対話に参加できるような機会を障害学会として設けることを望みます。
*欧陽珊珊さん、ご報告をされている横で別の議論を始めちゃってごめんなさい。申し訳ありません。
(2020年9月18日 倉本智明)
◆だいやまーく2020年09月19日 川添睡
竹田さん
川添です. ご返信と議論への応答に感謝を申し上げ「ません」.
はっきりと結論から申しますと,「萎縮していていただきたい」となります.
2020年09月18日のご主張は前半と後半が食い違っていますけれども, 正しいのは前半でお書きになられたことです. ご実践ください.
「強烈に指摘」とのことですが, それはその通りであったりします.
川添は自分や他者が指摘をしている場面をいろいろと経験しておりますが,
加害性を遠回しに指摘すると, なぜか指摘された側や議論は「自分はまだ加害をしてよいかもしれない」と言われたかのように解釈して, 指摘された加害を (時には自身で認めながら) やめない, という傾向があると思っているからです.
例えば,「貴重なご意見ありがとうございました」「未熟で申し訳ありません」「ご指摘によってより一層議論が深まりました」「これを機会により一層考察を深めていきたいと存じます」などと一方的に述べるなどして. それでは困ります. 川添は,
?@ 今なされた検討や分析行為自体が, 加害であり, 許されない.
?A ?@が仮に批判や指摘によって改められたとしても, 加害がなかったことになるわけではない. そのような加害が可能であるという議論という場における権力勾配の有害性が減じたわけでもない. そういう事を繰り返せる状態そのものも, 抑圧であり, 加害行為である.
つまりそれは加害でありだからやめてほしいという事を伝えているのです. 直截に「あなたが加害したのだ」「今すぐやめなさい」などという言い回しで指摘しなかった点に, 批判者の遠慮やself-tone policingが働いていたのかもしれない, 程度に受け止めておかれてはいかがでしょうか.
「問題は山積ですが、私は議論こそが問題解決と理解の第一歩だと思っています」と, 議論や対話を持続可能なもの, 益をもたらすものとして信じられるという事は, 議論や分析で "自分が切り刻まれる" ことをほとんど心配していないからではないのですか? それはご自身がこれまでに個人化してきた社会的な地位によって守られているからではないでしょうか? 「忌憚ないご意見を」と望みつつ,「強烈に指摘しては問題解決に至りません」と求める事が何故竹田さんの中で両立するのか, ご自身を再考なさってください. 山積の問題とは何を表しておられますか? 問題解決に至るとはだれにとっての何で, だれが行うものなのでしょうか? なぜ極めて偏って, 社会改良のための道具にマイノリティの生き方は「関心を持たれ」,「使われて」しまうのでしょうか?
川添の言いたいことは,「議論」「対話」を繰り返す仕組みを肯定していても, 特権的な研究者や無徴のマジョリティはそこからトータルでは受益していけるでしょうけれど, 同じ分だけより弱い立場の者が話を続けるリスクやコストを支払わされていく搾取のシステムであることを, 批判的に検討すべきだということです. 様々なことに関して,「しない」ことに可能性を開くべきです.
川添も相手の言動を引いて批判的に分析することもありますし, 川添の内にもその線引きはあるのでしょう. しかし現在それを開示しても, この文脈では「なになら相手に対してして良いのか」という, 研究するという結論ありきの欲望のメカニズムへと流れていくので, 議論いたしません. 今の場としては加害されたこと自体に向き合うことをしないといけないと思います. 萎縮なさるのも大切なことだと思いますし, もちろんただ沈黙するだけではなくするべきことも多いと思いますよ. これは欧陽さんもです.
*本件とは直接関係ありませんが, 参考としてフェミニズムの界隈で現在起こっていることを紹介します.「トランスジェンダー "を議論" する」という事自体の抑圧性を批判している記事です.
「トランスジェンダーとともに」コーナーの削除について
https://archive.is/xextB
【文献紹介】サラ・アーメッド「あなた達が私たちを抑圧しているのだ!」
https://archive.is/ItwS6
川添 睡 (かわぞえ ねむる)
◆だいやまーく2019年09月19日 竹田恵子
川添さん
川添さんが
?@ 今なされた検討や分析行為自体が, 加害であり, 許されない.
?A ?@が仮に批判や指摘によって改められたとしても, 加害がなかったことになるわけではない.
そのような加害が可能であるという議論という場における権力勾配の有害性が減じたわけでもない. そういう事を繰り返せる状態そのものも,
抑圧であり, 加害行為である.
とのご意見をお持ちだと言うことが、よくわかりました。
川添さんが示されたご意見は、正当だと思います。しかし、そのご意見は、すべてのマイノリティの方々に共有されたものなのでしょうか。特に欧陽さんの研究に協力されたVincentさんがどう思われているのかが置き去りにされたまま、議論されていることに大きな違和感を覚えます。
また、川添さんの「萎縮せよ」とのご命令は、マイノリティの方々をほんとうの意味で救うのでしょうか。
議論は閉じてしまったようですので、研究者と研究協力者の地位の勾配や搾取に関する難問ついては、自らの宿題といたします。
◆だいやまーく2020年09月19日 竹田恵子
欧陽さん
遅れましたが、コメントへの返答をありがとうございます。また、ご報告をめぐり、思いがけぬ勉強の機会にも恵まれました。今後のご研究の発展を心待ちにしております。
◆だいやまーく2020//09/25 欧陽珊珊
川添さま、倉本さま、竹田さま
ご指摘、ご意見ありがとうございます。私のまだ未熟な発表で沢山な議論をいただいて、大変勉強になりました。皆様に心から感謝いたします。
私はこの研究テーマで勉強する理由としては、先行研究は欧米の理論や事例を中心になっていますが、日本、台湾、中国の先行研究を読むと、障害者の多様なセクシュアリティについての議論があまりされておらず、障害をもつ性的少数者の人々の経験についての記述や考察がかなり少ないです。そして、台湾のLGBT運動のなかで障害をもつ性的少数者であるVincentさんが活躍している姿をみました。Vincentさんはどういう経緯でLGBT運動に参加してきたのか、Vincentさんの経験から障害者の多様なセクシュアリティについて何か議論できるのか、こういう問題意識を持ちましてインタビューをしました。今後Vincentさんご本人の要望に従って中国語で報告を行います。
Vincentさんの経験から「極端に普遍的な結論」をするつもりはありません。してはいけないと思います。あくまで1人の経験を取り上げ、これまで「省略」された声を聞き、問題を提示したいです。もし書き方や研究のやり方でこういうことをしてしまう可能性があったら、反省して指導教員と相談します。日本語で十分に表現できないこともありますが、勉強不足なことも沢山あります。今回いただいたご指摘を常に心をかけて、勉強をさせていただきます。
今後皆さまとVincentさんと一緒に議論ができる機会を強く望んですます。どうぞよろしくお願い申しあげます。
*頁作成:
安田 智博・
立岩 真也