暦Wiki
半昼夜分†
- 基準地における昼や夜の長さの半分を分単位で表したものを半昼夜分と呼びます。
- 1日=100刻=10000分、半昼分+半夜分=5000分=50刻です。
- 日の出時刻=半夜分=5000−半昼分、日の入時刻=5000+半昼分=10000−半夜分、日の出時刻+日の入り時刻=10000などが成り立ちます。
数学的な扱い†
- 球面三角法
- 高度方位変換式の第3式において高度 h = 0°とすると、cos H = - tan φ tan δ が得られます。この時角 H が半昼夜分となります。
- 冬至や夏至における太陽の赤緯=黄道傾斜角 ε ですから、cos H0 = - tan φ tan ε より、この時の半昼夜分 H0 を求めることができます。
- 緯度φは共通ですから、任意のδについては cos H : cos H0 = tan δ : tan ε の比例関係で求めることができます。
- 任意のδについての近似計算
- ΔH = π/2 - H を用いると、比例式は sin ΔH : sin ΔH0 = tan δ : tan ε と書けます。ここで、ΔHは1/4日=2500分と半昼夜分との差を表します。
- ΔHが小さければ sin ΔH〜ΔHとみなせますから、ΔH : ΔH0 = tan δ : tan ε という近似が成り立ちます。
- さらに、tan δ〜δとみなすこともできますので、ΔH : ΔH0 = δ : ε という近似も可能です。
- δは、
半昼分の比較
宣明暦の場合†
- 宣明暦では夜半定漏と呼ばれる定数が半夜分に相当します。
- 夜半定漏は夜明・日暮と夜半(正子)の間隔なので、半夜分より2刻半小さな値となります。
- 基準は陽城です。
- 陽城は現在の河南省登封市告成鎮に位置し、「周公測景台」と呼ばれる高さ8尺の圭表儀などがあります。
- 2010年、一連の建造物が「河南登封の文化財"天地之中"」として世界遺産に登録されました (UNESCO [外部サイト])。
- 陽城の北極出地は34.475度、すなわちおよそ北緯34°です。
- 二至の値については、
- 夏至と冬至の黄道去極度の差を2で割ってδ=23.90度、これをΔH0 = 5刻とε = 24度で比例配分して、ΔH = 418.25分が得られます。
- ただし、1刻=84分としています。これを1刻=100分の半昼分に換算すると、2002.08分となります。
- 球面三角法により逆算するとφ=35.2°、むしろ陽城より京都の緯度に近い値です。
- 二至の値は大衍暦も同じです。しかし、比べてみると大衍暦のほうが球面三角法に近いことがわかります。
- これは赤緯の値が異なるためで、確かに大衍暦の赤緯は球面三角法による値とほぼ合致します。
- 宣明暦の陽城日晷は一行の正接関数表から算出しただけのようですし*1、赤緯も不確かな日の出入り観測値*2をもとに逆算し、結果として悪化したのではないかと思われます。
赤緯の誤差
昼刻数の誤差
- 唐書に掲載されているのは二十四節気における値のみですが、毎度の値もλの2次式によりδを近似することで算出できます。
授時暦/大統暦の場合†
- 授時暦や大統暦のころには三角関数の概念はなく、弧背術や勾股術などを駆使して近似計算していました。
- 『授時暦儀』p.33では観測で定めるような書きぶりですが、『明史 巻三十三』p.82-85に詳細な算出方法が紹介されています。
- 数値のつじつまの合わない部分も若干あり、西村遠里が『授時解』で指摘しているように、計算と観測を総合して定めたのかもしれません。
- 二至の値は弧背術などを用いて算出しています。
授時暦二至昼夜分
- 毎度の値は概ね tan δ で比例配分しています。
授時暦毎度昼夜分
貞享暦の場合†
- 貞享改暦のころは十分な情報がなく、創意工夫をして求めていたようです。
- 二至の値は20/30刻に固定しています。
- 授時暦は大都〜現在の北京を基準としているので、そのまま同じ値を使う訳にはいきません。
- 冬至半昼20刻とδ=-23.9030度から球面三角法により逆算すると、φ=35.32°となります。
- 従来から使われるキリの良い値でもあり、支障なしと判断したのでしょう。
- 毎度の値はδで比例配分しています。ただし、δの値は授時暦より少し改善されています。
赤緯の改善
関孝和の場合†
宝暦暦/修正宝暦暦の場合†
- 享保五年(1720)の禁書令緩和により三角関数も伝来し、宝暦暦では球面三角法へ置き換わりました。
- 三角関数や球面三角法は、中国では明末に渡来したイエズス会宣教師から伝わり、時憲暦の成立につながりました。
- しかし、日本では時憲暦関連の書物はキリスト教絡みとされて禁書となったため、享保年間まで広く知られていなかったようです。
- とくに、『徳川実記抄録』(早稲田大学図書館 [外部サイト]) にも登場する、梅文鼎の『暦算全書』は大きな影響を与えました*3。
- 平三角挙要=平面三角法、弧三角挙要=球面三角法をはじめ、『崇禎暦書』で究めた西洋の暦学や数学が、中国のそれをふまえた形で論じられています。
- 享保十一年に伝来、吉宗の命で建部賢弘の手に渡り、中根元圭により訓点和訳されました。翌十二年には八線之表=三角関数表も取り寄せられています*4。
- 中根元圭『地径算法』(国文学研究資料館 [外部サイト]) では、三角関数を活用して、月までの距離を算出しています。
赤緯の改善
関連ページ†
曲安京, 一行の正接関数表(724AD), 数学史研究, 153, 日本数学史学会, (1997).->
本文(1)に戻る
時代は前後しますが『宋史律暦志九』皇祐漏刻のように、立春・雨水の昼刻がそれぞれ42刻台、44刻台になるようなもの?->
本文(2)に戻る
川原秀城, 日本に影響を与えた中国の天文暦学者伝(6)−梅文鼎, 天文月報 第82巻第12号 [外部サイト], (1989).->
本文(3)に戻る
小林龍彦, 享保12年伝来の『割円八線之表』をめぐって, 数学史研究, 129, 日本数学史学会, (1991).->
本文(4)に戻る
Last-modified: 2024年03月21日 (木) 17:33:07