「理の塔、技の塔」〜私説・戦後日本ダム建設の理論と実践〜(11)電力需要急増・河川一貫開発・河川法全面改正 3ページ - ダム便覧
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揚水発電とダム建設
高度経済成長期には火力発電の建設ラッシュが続き「コンビナート開発」が時代のことばとなった。だが火力発電は、設備や発電装置の特性上からピーク電力の供給源としては経済性が悪く、同時に急激な負荷変動の即時対応性に欠けるなど運転上の欠点が指摘されていた。この課題を克服するため基本的な供給力を火力発電で受持ち、ピーク供給力を水力で補う方式が摸索されるようになった。35年(1960)、科学技術庁(当時)資源調査会からエネルギー供給源の多様化を図る政策提言が出された。このうち「
揚水発電
の調査に関する勧告」では、火力・原子力発電と揚水発電をワンパッケージとする電源開発方式を確立するため、揚水発電地点の水力調査に関する調査促進の提言がなされた。全国の電力事業者も新たな立場で水力開発の促進を検討することになった。
その結果、海浜に相次いで建設される火力発電設備に対応して大規模な揚水システムが山間地に建設されるようになった。このシステムは、ダム下流の貯水を電力の余裕時にその電力を使って再度ポンプで揚水し、電力不足時にその河水を流下させて発電する仕組みである。中国電力の新成羽(ルビしんなりわ)川、東京電力の桂川・新高瀬川、電源開発の九頭竜川・手取川などで、地域開発と一体となった揚水発電建設が計画された。昭和45年ごろまでは、上流部貯水池への河水の流量も多く一般水力としても発電可能な「混合揚水発電所が」建設された。このシステムは上流貯水池に河川からの自然流入による水量が確保される
揚水式発電
方式である。電力需要の伸びが停滞する中で、平成期に入ってからは揚水式発電所の建設計画はおおかた延期か停止となった。
一方、48年の第一次、54年の第二次の二度にわたる「オイルショック」により、エネルギーの脱石油化が叫ばれるようになり、65年に「石油代替エネルギーの開発及び導入の促進に関する法律」が施行された。これにより原子力発電所の建設が積極推進されることになったが、その安全性には当初から疑問視する見解も出された。
ここで主な揚水発電ダムをあげてみる。高見ダム(上ダム)・静内ダム(下ダム)(北海道電力、静内川)、沼沢沼ダム・宮下ダム(東北電力、阿賀野川)、高瀬ダム・七倉ダム(東京電力、信濃川)、玉原ダム・藤原ダム(東京電力、利根川)、岩屋ダム・馬瀬川第二ダム(中部電力、木曽川)、川浦ダム・上大須ダム(中部電力、木曽川)、瀬戸ダム・旭ダム(関西電力、新宮川)、土用ダム・俣野川ダム(中国電力、俣野川)、稲村ダム・大橋ダム(四国電力、吉野川)、天山ダム・厳木ダム(九州電力、六角川・松浦川)、カッサダム・二居ダム(電源開発、信濃川)。
このうち最大出力は、川浦ダム・上大須ダムの1500メガワットである。揚水式発電用ダムは河川の自然な流れを妨げ、河川環境を破壊することにつながるとの指摘が出されていることを付言しておく。この時期以降、
水力発電
が日本のすべての電力発電に占める割合は10%から15%となる。
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