【小渋川総合開発計画は、すでに昭和24年長野県によって小渋川河水統制事業として計画立案されたものであるが、泰阜ダム対策を含む治水事業の一環として再びクローズアップされ、建設省直轄で昭和28年度予備調査に着手し、同36年度実施計画調査に入ったが、たまたま昭和36年6月梅雨前線豪雨により記録的大洪水に見舞われ、至る所破堤氾濫し、大災害を蒙った。その結果、従来の計画を再検討し、ダム地点の計画高水流量1500m3/sを1000m3/s調節し、 500m3/sの放流に抑える洪水調節と、竜東地区 785.8haのかんがい及び最大出力9500KWの発電を行う小渋川総合開発計画が樹立され、昭和38年度に着工以来、昭和43年度迄の6ケ年間を要し完成したものである。】
【当時ダムサイトは、工事用道路、仮設備、基礎掘削、仮排水隧道、引き続いて上流仮締切と各種工事が輻輳して、蜂の巣をつついたような現場で多忙な毎日であったが、これらの工事の中で一番苦労したのは上流仮締切工事であったと思う。この工事はダムサイトに設置されていた砂防堰堤に貯められていた厚さ20米に及ぶ堆積層に設けられたもので、この層に対するグラウトの止水効果が思わしくなく、止む得ず最長15米のシートパイルを2列に打込み、この間に薬液注入を行うことにより滲透水位を下げて、下流の掘削及び法面処理を行った。あの時点では次善の策として適当な措置であったと考えられ、良い経験をさせて頂いたものである。また、ダムサイト付近では急峻なしかも狭い谷であるため本体掘削の屑搬出が渉らず、途中でグローリーホールに切替えたりして苦労したのも思い出の一つであろう。】