[画像:今日の一言]ちょっと忙しい中、学校行事も忙しい。
3月と言えば卒業、そして年度末。
今日も学校で「6年生を送る会」がある。
6年生の親御さんたちはさしずめ「参観」だな。
しかも発表する子供たちを他の学年の親も見にきてくださいねーとのこと。
発表ってたった5分ほどやのにな。
あたしたちのころはそんなんに親が参加(?)しなかったと思うんだけど・・・?(・・;)。
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最近前にも書いた
(だからタイトルに「2」がつくの)
「超バカの壁」by養老孟司
を読んでる。
これをそのまま肯定するかどうかは別にして
多かれ少なかれこういうことはよくあることだ。
こういうことってのは・・・
どうしても通じない人には通じない
ってやつだ。
前にちらっと書いたことがある、これもそうだ。
いわゆる「住む世界が違う」とか
「価値観の違い」とかいうやつだな。
こういう話をするとさらに誤解が誤解をよんだりして大変だ。
その点について「超バカの壁」のまえがきで著者が言ってる、
これはまさにあたしはそのとおり!と思う。
なんと言ってるかというと
「こういう書物のむずかしさ」について書いてらっしゃるのだけど、
『小説みたいにしてしまえば、だれも実在の人物のこととは
思わない。でも小説ではないとすると、実在する人や組織
を例にとることになる。場合によっては、それは困ったこ
とになる可能性もないではない。私の批評がたとえ悪口に
聞こえたとしても、悪口ではない。悪意も利害関係もない
からである。「私は素直にそう思う」という例だと思って、
お許しいただければ幸いである。』
と。
ひとこと何か話しても
それを聞く人が100人居たら
100人とも違うようにとるだろう。
実はこれは「些細な違い」ではないと
養老氏は言う。
なぜなら人生とは、そうした「些細な」体験の繰り返しで
歳をとるにつれ、それは積もり積もっていくものだから。
積もり積もったときには
「大きな違い」となって現れる。
一見分かりにくい。
でもなんとなくわかる。
つまり聴衆100人の些細な理解のずれは
実はものすごく大きな違いであるというのだと思う。
それを聞いてどんな感想を持たれるかは
100人が100人とも違うはずだ。
だから、養老氏があとがきに書かれてることも
あたしはものすごく共感する。
『いくら本を書いても、
考えるのは私ではなく、読者である。』
そういうことなんだよね。
だから本読んでもっと考えなくちゃね。
勉強しよっと!(汗)←こちらをぽちっとして明日も応援してね(笑)
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しかも発表する子供たちを他の学年の親も見にきてくださいねーとのこと。
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これをそのまま肯定するかどうかは別にして
多かれ少なかれこういうことはよくあることだ。
こういうことってのは・・・
どうしても通じない人には通じない
ってやつだ。
前にちらっと書いたことがある、これもそうだ。
いわゆる「住む世界が違う」とか
「価値観の違い」とかいうやつだな。
こういう話をするとさらに誤解が誤解をよんだりして大変だ。
その点について「超バカの壁」のまえがきで著者が言ってる、
これはまさにあたしはそのとおり!と思う。
なんと言ってるかというと
「こういう書物のむずかしさ」について書いてらっしゃるのだけど、
『小説みたいにしてしまえば、だれも実在の人物のこととは
思わない。でも小説ではないとすると、実在する人や組織
を例にとることになる。場合によっては、それは困ったこ
とになる可能性もないではない。私の批評がたとえ悪口に
聞こえたとしても、悪口ではない。悪意も利害関係もない
からである。「私は素直にそう思う」という例だと思って、
お許しいただければ幸いである。』
と。
ひとこと何か話しても
それを聞く人が100人居たら
100人とも違うようにとるだろう。
実はこれは「些細な違い」ではないと
養老氏は言う。
なぜなら人生とは、そうした「些細な」体験の繰り返しで
歳をとるにつれ、それは積もり積もっていくものだから。
積もり積もったときには
「大きな違い」となって現れる。
一見分かりにくい。
でもなんとなくわかる。
つまり聴衆100人の些細な理解のずれは
実はものすごく大きな違いであるというのだと思う。
それを聞いてどんな感想を持たれるかは
100人が100人とも違うはずだ。
だから、養老氏があとがきに書かれてることも
あたしはものすごく共感する。
『いくら本を書いても、
考えるのは私ではなく、読者である。』
そういうことなんだよね。
だから本読んでもっと考えなくちゃね。
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