光化学オキシダントでコメの収穫量が減る新たな要因を解明—イネの穂の枝分かれが関与—
(筑波研究学園都市記者会、環境省記者クラブ同時配付)
国立研究開発法人国立環境研究所
生物・生態系環境研究センター
生態遺伝情報解析研究室 主任研究員
玉置 雅紀
オゾンによるイネの収量低下は、従来から提唱されていた葉の可視障害に伴う光合成の低下ではなく、穂の枝分かれを制御する遺伝子の機能低下によるものであることを初めて明らかにしました。 本研究成果は、日本時間2015年4月30日午前3時付けで、学術誌「PLOS ONE」のオンライン版に掲載されます。
1.背景
オゾンは光化学オキシダントの主要成分であり、東アジアを中心に年々増加している大気汚染物質です。オゾンの増加により中国の穀物生産は2020年には最大で40%減少するとの予測があります(文献1)。オゾンは植物の葉の表面にある気孔を介して取り込まれ、葉に白色や茶褐色の可視障害をもたらします(図1)。オゾンはこの過程で植物の光合成に重要なクロロフィルの働きを阻害するなどして、植物の光合成能力を低下させ、森林の衰退や作物の収量低下を引き起こしていると考えられています。一方で先行研究(文献2、図2)からイネの葉の可視障害の程度と収量低下とが必ずしも一致しないため、オゾンによるイネの収量低下には、可視障害による光合成能力の低下とは異なる未知の機構があると予想されていました。
そこで、本研究ではオゾンに対して異なる応答を示すイネ品種、ササニシキ(ジャポニカ型イネ、オゾンによる収量の変化なし)とハバタキ(インディカ型イネ、オゾンにより収量低下)を用いて、遺伝学的解析、分子生物学的解析及び生理学的解析を行いました。
上の写真にはオゾンの影響による茶褐色の病班がみられます。
2.方法
●くろまる オゾンによる収量低下に関わる遺伝子座の同定
●くろまる オゾンによる収量低下に関わる遺伝子の特定とその発現解析
遺伝的解析からイネの収量に影響のありそうな遺伝子を選定しました。次にゲノム全体がほぼササニシキであり、選定された遺伝子のみがハバタキに置換されている準同質遺伝子系統(※(注記)3)を入手し(文献3)、この遺伝子がオゾンによる収量低下に関与していることを確かめました。次に選定した遺伝子の構造をササニシキとハバタキにおいて比較すると共に、イネの各組織におけるこの遺伝子の発現量解析を行いました。
●くろまる 植物ホルモンの関与
オゾンによる葉の可視障害発現には植物ホルモンが大きく関与しています(文献4)。そこで、ササニシキ及びハバタキを用いてオゾンによる植物ホルモン量の変化の有無を調べました。
3.主な成果
●くろまる オゾンによる収量低下に関わる遺伝子座の同定
ハバタキでは、オゾン曝露による葉の可視障害は見られなかったものの、オゾン添加区で栽培したイネの穂の枝分かれは外気で栽培したイネに比べ17%少なく、収量も12〜19%少なくなっていました(図3)。一方でササニシキではオゾンによる葉の可視障害が顕著に見られましたが、2つの栽培条件の間で枝分かれ数、収量の違いは見られませんでした。そこで穂の枝分かれ及び収量を指標とし、染色体断片置換系統群を用いたQTL解析を行ったところ、オゾン添加によるハバタキにおける穂の枝分かれ及び、収量の減少に関与する遺伝子座は同じ場所に存在し、それはイネの第6番染色体上にあることがわかりました。この第6番染色体上の遺伝子座の近傍には、穂の枝分かれに関与していることが知られているABERRANT PANICLE ORGANIZATION 1 (APO1)遺伝子が見つかりました。
●くろまる オゾンによる収量低下に関わる遺伝子の特定とその発現解析
全ゲノムのほとんどがササニシキで、APO1遺伝子領域のみをハバタキのゲノムに置換した準同質遺伝子系統SHA422-1.1を入手しオゾンに曝露させたところ、ハバタキと同様に穂の枝分かれ及び、収量の有意な減少が認められました。このことから、APO1遺伝子がハバタキにおけるオゾンによる収量減少に関与していることが示されました。そこで、穂の枝分かれ時期に採取したイネの幼穂(出穂前23日)におけるAPO1遺伝子の発現解析を行ったところ、この遺伝子の発現はハバタキにおいてオゾンにより著しく低下する事が明らかになりました(図4)。
APO1遺伝子の発現が幼穂において沢山あると、穂の枝分かれが促進されることが知られていることから、ハバタキでは、オゾンの影響でAPO1遺伝子の発現量が幼穂の時期において低下することにより、穂の枝分かれが減少し、その結果、花(籾)の数も減少し収量が減ったと考えられました。
●くろまる 植物ホルモンの関与
ハバタキにおいて、オゾンによるAPO1遺伝子の発現量の減少がどのようなメカニズムで起きるのかについて明らかにする為に、葉及び幼穂を用いて植物ホルモン(オーキシン、サイトカイニン、ジベレリン、サリチル酸、ジャスモン酸、アブシジン酸)の測定を行いました。その結果、ジャスモン酸とアブシジン酸の量の変動が見られました。すなわち、ササニシキにおいて、これらのホルモン量はオゾンにより減少するのに対し、ハバタキでは増加していました(図5)。これらの植物ホルモンはオゾンによる葉の可視障害を軽減させることが知られており、これはハバタキで可視障害が見られないことと一致していました。さらに、これらの植物ホルモンのオゾンによる変化のしかたはAPO1遺伝子の変化のしかたと全く逆であったことから、ジャスモン酸及びアブシジン酸はAPO1遺伝子の働きをマイナス方向に制御している可能性が示唆されました。
4.まとめ
本研究により、従来から提唱されてきた、オゾンによる葉の可視障害に伴う光合成の低下とは異なる、新規なイネ収量低下機構が存在することを明らかにすることが出来ました。
得られた結果をまとめると図6のようになります。栄養成長期のハバタキではオゾンに曝露されると、葉でジャスモン酸やアブシジン酸が合成されます。これらの植物ホルモンの働きにより葉の可視障害が軽減されます。しかし、これらの植物ホルモンは生殖成長期になると幼穂に転流され、そこでAPO1遺伝子の働きを抑制させます。これにより、穂の枝分かれが減少し、花(籾)の数の減少を経て収量の減少が起きていると考えられます。
5.課題と展望
本研究により、従来から提唱されてきた、オゾンによる葉の可視障害に伴う光合成の低下とは異なる新規なイネ収量低下機構が存在することを明らかにし、ハバタキにおいては穂の枝分かれを促進するAPO1遺伝子の発現低下が、収量低下の要因であることを明らかにすることができました。オゾンが無い場合には、この遺伝子はハバタキの幼穂において旺盛に転写されており、ハバタキの多収性に寄与しています。したがって、今後この研究を進め、幼穂におけるAPO1遺伝子の転写量がオゾンの有無にかかわらず、高いレベルを維持できるような仕組みを解明することにより、オゾンによる収量影響を受けないインディカ系統のイネの作出に、寄与することが出来ると考えられます。これにより、特にオゾンによる大気汚染が深刻化している、東アジアを中心に栽培されているインディカ系統のイネについて、オゾンによる収量影響を軽減することができ、この地域での食料生産の安定化をはかることができると期待されます。
しかしながら、オゾンによるイネの収量低下の原因は他にも考えられ、例えば、我々が現在研究に使用している別の品種では、オゾンにより花粉稔性が低下することにより、収量が落ちる現象が見つかっています。したがって、本研究で見つかった遺伝子以外にも、オゾンによるイネの収量低下に関わる遺伝子がいくつかあると考えられるため、さらに本分野の研究を推進する必要があります。
6.問い合わせ先
国立研究開発法人 国立環境研究所 生物・生態系環境研究センター 主任研究員
玉置雅紀(たまおき まさのり)
電話:029-850-2466
e-mail: mtamaoki (末尾に@nies.go.jpをつけてください)
7.発表論文
Tsukahara K., Sawada H., Kohno Y., Matsuura T., Izumi C.M. Terao T, Ioki M. Tamaoki M. (in press) Ozone-induced rice grain yield loss is triggered via a change in panicle morphology that is controlled by ABERRANT PANICLE ORGANIZATION 1 gene.
PLOS ONE DOI:http://dx.plos.org/10.1371/journal.pone.0123308
関連文献:Tsukahara K, Sawada H, Matsumura H, Kohno Y, Tamaoki M. (2013) Quantitative trait locus analyses of ozone-induced grain yield reduction in rice. Environmental and Experimental Botany 88: 100–106.
8.参考文献
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1. Ashmore MR, Toet S, Emberson L. (2006) Ozone – a significant threat to future world food production? New Phytologist 170(2): 201–204.
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2. Sawada H, Kohno Y. (2009) Differential ozone sensitivity of rice cultivars as indicated by visible injury and grain yield. Plant Biology 11(Suppl 1): 70–75.
-
3. Terao T, Nagata K, Morino K, Hirose T. (2010) A gene controlling the number of primary rachis branches also controls the vascular bundle formation and hence is responsible to increase the harvest index and grain yield in rice. Theoretical and Applied Genetics 120(5): 875–893.
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4. Tamaoki M. (2008) The plant hormone signaling and cell death in ozone-exposed plants. Plant Signal. Behav.3 (3): 166-174.
9.共同研究者
国立研究開発法人国立環境研究所 生物・生態系環境研究センター
玉置雅紀(主任研究員)、塚原啓太(准特別研究員)、澤田寛子(JSPS研究員)、五百城幹英(共同研究員)
電力中央研究所
河野吉久(名誉研究アドバイザー)
国立研究開発法人農業・食品産業技術総合研究機構 中央農業総合研究センター 作物開発研究領域
寺尾富夫(上席研究員)
国立大学法人岡山大学 資源植物科学研究所
森泉(准教授)、松浦 恭和(技術職員)
10.研究助成
本研究は環境省環境研究総合推進費「気温とオゾン濃度上昇が水稲の生産性におよぼす複合影響評価と適応方策に関する研究(A-806)」、日本学術振興会「最先端研究開発戦略的強化費補助金」及び「岡山大学資源植物科学研究所における共同利用・共同研究拠点事業」の研究助成を受けて実施されました。
11.用語説明
※(注記)1.染色体断片置換系統群:任意の生物品種間(ここではササニシキとハバタキ)において、これらの交配によりつくられた雑種生物のゲノムのほとんどの領域は片方の親品種(ここではササニシキ)由来であるが、染色体の一部が片方の親品種(ここではハバタキ)に置換された系統を集め、これにより全ゲノム領域をカバーすることが出来るように組み合わせたものを総称して、染色体断片置換系統群とよびます。
※(注記)2.QTL解析:収量などの形質は量的形質とよばれ、複数の遺伝子の影響を受けることが知られています。このような形質を統計的に解析する方法をQTL解析といいます。この解析法では、染色体のどの部分に、目的とする形質に大きく影響を与える領域が存在するのかを知ることが出来ます。解析の数値はLODスコア(対数オッズスコア)として表されます。一般的にこの値が3以上であれば、統計学的に有意な連鎖(この場合は形質と遺伝子座との連鎖)をしていると見なされます。
※(注記)3.準同質遺伝子系統(NIL):任意の生物品種間(ここではササニシキとハバタキ)において、目的となる1つの遺伝子(ここではハバタキ由来のAPO1遺伝子)を除いて、他のゲノム領域がすべて他品種(ここではササニシキ)である系統を準同質遺伝子系統といいます。
10.写真
(撮影者:玉置雅紀)
2009年8月7日撮影
(撮影者:玉置雅紀)
2010年9月14日撮影
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