「意思能力を欠く者」をめぐる行政対応と法的課題
はしがき
第1部 総論:「意思能力を欠く者」に関する行政対応の現状と課題
第1章 「意思能力を欠く者」をめぐる行政対応と法的課題──本書の問題意識と行政法・行政法学への示唆[田中良弘]
I 本書の問題意識と概要
II 「意思能力を欠く者」をめぐる行政対応の現状と課題
III 「意思能力を欠く者」をめぐる法的課題
IV 包摂社会の実現に向けた行政法・行政法学のあり方
第2章 「意思能力を欠く者」に対する民法上の意思決定支援の現状と課題[上山泰]
I はじめに
II 意思決定支援と成年後見制度
III 意思決定支援を踏まえた後見事務のガイドライン
IV 結びにかえて
第3章 「意思能力を欠く者」に対する社会福祉の現状と課題[永野仁美]
I はじめに
II 福祉サービスの利用における法的関係
III 権利擁護のための意思決定支援
IV 支援を受けながらの自律(自立)
V おわりに
第2部 各論1:「意思能力を欠く者」に関する行政法の課題
第1章 「意思能力を欠く者」に対する行政の実体的配慮義務[釼持麻衣]
I 当然視できなくなる相手方の意思能力
II 意思能力を欠く者が表意者である場合
III 意思能力を欠く者が名あて人である場合
IV デジタル時代における立法的配慮義務
第2章 「意思能力を欠く者」に関する行政法の手続的課題──特別行政手続代理人の構想[北村喜宣]
I 看過できなくなる「不都合な真実」
II 不利益処分ができない現行法制度上の理由
III 不作為がもたらす状況の不合理
IV 民事訴訟法35条の特別代理人制度
V 行政手続法の特別法としての制度設計
VI 今後の課題と展望
第3章 「意思能力を欠く者」のために「事務を管理する」条例の草案[板垣勝彦]
I 問題意識
II 「行政による事務管理」という構成の難点
III 「事務を管理する」条例の制定の提案
IV まとめと今後の課題
第3部 各論2:「意思能力を欠く者」に関する学際的検討
第1章 「意思能力を欠く者」と裁判を受ける権利[尾形健]
I 憲法学からのアプローチ
II 「裁判を受ける権利」の意義
III 「裁判を受ける権利」の内実の究明と「審問請求権」保障
IV 「意思能力を欠く者」の権利保障と裁判制度上の配慮
第2章 「意思能力を欠く者」への裁判手続保障──アメリカ法の一側面から[尾形健]
I 適正手続保障と裁判
II 裁判手続における「意思能力を欠く者」への保障
III 「意思能力を欠く者」への裁判手続上の配慮──住宅紛争を例に
IV アメリカ法からの示唆
V 「意思能力を欠く者」への制度的配慮にむけて
第3章 「意思能力を欠く者」のした遺言の効力──遺言の形成過程と生前の効力確認の可能性[橋口祐介]
I はじめに
II 遺言能力の意義
III 遺言能力の判断構造
IV 遺言者の生存中における遺言の効力の確認の訴え
V 結びにかえて
第4部 各論3:「意思能力を欠く者」に関する行政実務の現状と課題
第1章 「意思能力を欠く者」をめぐる行政実務の現状と課題──行政実務家の視点から[寺崎邦秀]
I 「意思能力を欠く者」と行政実務
II 取手市における高齢化の状況等
III 「意思能力を欠く者」の発見・支援をめぐる現状と課題
IV 「意思能力を欠く者」の死後事務をめぐる現状と課題
V おわりに
第2章 「意思能力を欠く者」への支援と行政の役割──専門職成年後見人の立場から[千葉真理子]
I 意思能力を欠く者と成年後見制度の課題─本稿の視点─
II 成年後見制度における行政の役割と実務上の課題(その1)
III 成年後見制度における行政の役割と実務上の課題(その2)
IV 住所地をめぐる諸問題
V 結びにかえて
第3章 「意思能力を欠く者」についての情報共有・連携と個人情報保護──公私協働論の観点から[宮森征司]
I 地域福祉分野における情報共有・連携と個人情報保護─本稿の問題意識─
II 一般的制度としての個人情報保護法
III 地域福祉分野における情報連携に係る法制度─支援会議と守秘義務の仕組み─
IV 若干の考察─地域福祉分野における情報共有・連携と個人情報保護のあり方─
第5部 東アジアにおける現状と課題
第1章 韓国における「意思能力を欠く者」に関する法制度の現状と課題[金炅徳]
I 本稿の目的と構成
II 韓国の高齢化の状況と認知症等有病率の推移
III 韓国における「意思能力を欠く者」に関する法整備の状況
IV 韓国行政基本法と「意思能力を欠く者」
V 結びにかえて
第2章 台湾の終末医療における「意思能力を欠く者」の取扱い──安寧緩和医療法及び患者自主権利法[王萱琳]
I 台湾における人口動態と法律面からの対応
II 障害者権利条約と台湾における成年後見制度
III 安寧緩和医療法及び患者自主権利法の制定
IV 安寧緩和医療法
V 患者自主権利法
VI 台湾法の現状と課題及び日本への示唆
第3章 中国における「意思能力を欠く者」に関する法制度の現状と課題──成年後見制度における行政の役割に着目して[周家礼奈]
I 中国における高齢化と認知症有病者の現状
II 中国における成年後見制度の概要
III 中国における成年後見制度と行政の役割
IV 結びにかえて──「意思能力を欠く者」に関する法制度のあり方
事項索引
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はしがき
現在の行政法理論、そして、行政法制度は、その相手となる者に意思能力があることを、暗黙かつ当然の前提にしている。
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しかし、現実は、必ずしもそうはなっていないのではないか。2015年を過ぎた頃にこのような疑問を抱いた私は、いくつかの予備調査をするなかで、行政は意思能力を有しない、あるいは、意思能力が不十分である者(本書では、両者をあわせて「意思能力を欠く者」という)に対して、現実の事案処理の必要性から、あたかもそうではないかのように対応している行政実務状況が少なからずある事実を知るようになった。さらに、行政が「意思能力を欠く者」であることを認識している相手方への対応にあたって、かなり苦しい理屈づけでその活動の根拠を捻出している行政実務状況にも接するようになった。この実情を行政法学としてどのように受け止めるべきだろうか。そのような人たちの数が当面は増加する現実に鑑みれば、学問的にもこれを放置することはできない。
そこで、行政法学以外の法学者および実務家にも呼びかけて研究グループを組織したうえで、JSPS科研費(挑戦的研究(萌芽)「意思能力等に欠ける者への行政対応に関する基礎的研究:理論的・実務的課題の抽出」、基盤研究(B)「意思能力等に欠ける者への行政対応に関する基礎的研究:法制度改革に向けた課題の抽出」)を獲得し、「意思能力研」と称して、2022年度から研究を開始した。
研究が半ばを過ぎた2024年には、日本公共政策学会において、「超高齢社会と公共政策:法学の観点から」と題するセッションのなかで、その時点での研究状況を報告した。その際には、意思能力研メンバー以外の研究者にも参加していただき、それぞれの専門の観点からの報告・コメントをいただいた。日本との比較研究をするべく、大韓民国および中華民国への海外調査も実施した。そして、両国においても、日本と同じような状況にあることを知った。
本書は、上記各科研費(課題番号22K18517、23K22055)の助成を受けて実施した意思能力研の5年間の研究活動の成果である。なお、本書の刊行にあたっては、プロジェクトメンバーのほか、橋口祐介甲南大学教授、宮森征司新潟大学准教授、金炅徳東国大学兼任教授、王萱琳中国文化大学准教授、周家礼奈久留米大学教授(執筆順)に、貴重なご論考を寄稿していただいた。この場を借りて感謝申し上げる。
意思能力については、その「欠ける程度」に個体差がある。そうした人々に対して、社会はその自己決定権を尊重しつつどのように対応すべきなのか。国際的な潮流のなかで、現行の民事法制度の適切性が問われている。本書は、そうした動きにも配意しつつ、行政対応に関する法理論・実務が抱える課題を多角的に検討したものである。まとまった形での出版は、本書が本邦初であろう。東アジア初であるかもしれない。
勁草書房は、これまでも本書の問題意識につながる書籍を出版されていた。また、同社には、私の旧知の編集者・中東小百合さんがおいでになった。そこで、本書の企画を相談したところ、ご快諾いただき、このたびの出版に漕ぎ着けた。中東さんの精緻なお仕事により、各論文の内容は、随分と洗練されたものになった。寄稿者一同、厚く感謝する次第である。
本書は、日本社会に対して、一石を投じるつもりで出版された。その波紋が、法学の世界を超えて各分野に拡がり、自己決定権の尊重と公益の実現の両者を睨んだ実践的な議論がされるきっかけになることを期待したい。
2026年初夏 編者を代表して 北村喜宣
第1章 「意思能力を欠く者」をめぐる行政対応と法的課題──本書の問題意識と行政法・行政法学への示唆
田中良弘
I 本書の問題意識と概要
急増する「意思能力を欠く者」に、果たして行政や社会は十分に対応できているのか。本書は、このような問題意識に基づき、JSPS科学研究費助成事業の助成を受けて実施された研究プロジェクト(以下「本プロジェクト」という)の成果である。
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超高齢社会の到来に伴う認知症高齢者の急激な増加は、各種の行政活動や行政サービスの相手方が十分な意思能力を有しているという従来の行政実務・行政法学における暗黙の前提を揺るがすものであり、「意思能力を欠く者」を念頭において従来の行政法の仕組みや理論を再構築することは、世界でも特に高齢化が進行しているわが国の直面する喫緊の課題であるといえる。
もとより、このような再構築の必要性は、行政法に限らず、他の法領域についても同様である。そこで、本プロジェクトでは、行政法研究者に加えて、関連の深い法領域である憲法・民法・社会保障法の研究者と、地方公共団体の職員や専門職後見人の経験を有する法曹実務家からなる研究組織を構築し、全国の行政機関や社会福祉協議会、医療機関、専門職団体等にヒアリング調査を実施して現行制度の下での理論的・実務的課題を抽出するとともに、認知症高齢者をはじめとする「意思能力を欠く者」をめぐる行政対応の課題について、日本の研究者・実務家等との意見交換を重ね、その成果を論文や学会報告等において公表してきた。
本書は、これらの調査結果や中間的な成果を踏まえつつ、本プロジェクトのメンバー9名に加えて、韓国法・台湾法・中国法を含む関連法領域について知見を有する研究者5名を執筆者に招き、上述した問題意識に基づき執筆されたものである。
1 本書における共通認識:「意思能力を欠く者」の意味
検討に先立ち、本書における「意思能力を欠く者」の意味について確認しておきたい。民法は、「意思能力」に関していくつかの規定を設けているが、「事理を弁識する能力」とは異なり、「意思能力を有し」ない者(3条の2、98条の2本文、526条)や「意思能力を喪失」した者(97条3項)について規定するにとどまり、意思能力を部分的に有する者についての規定を設けていない。このことは、他の法律においても同様である(小切手法33条、刑事訴訟法28条、刑事事件における第三者所有物の没収手続に関する応急措置法9条2項)。
しかしながら、法律行為の効力が問題となりうる場面としては、当事者が意思能力を完全に有しない場合のみならず、意思能力を部分的にのみ有している場合や、大部分の時間は意思能力を有していないが一時的に回復することがある場合など、多様なケースがありうる。そのため、意思能力を有しない、あるいは意思能力が不十分である者をめぐる行政対応のあり方やその前提となる法的課題について検討するにあたっては、それらの者を包摂する概念を用いる必要がある。そこで、本書においては、意思能力を有しない、または意思能力が恒常的もしくは一時的に不十分である者を包摂する概念として「意思能力を欠く者」を用いることとした上で、必要に応じ、意思能力を完全に有しない者を「意思能力を有しない者」、意思能力を部分的にのみ有している者を「意思能力が不十分である者」と表記して区別する。
ところで、本プロジェクトにおいて実施したヒアリングや意見交換においては、たびたび、認知症高齢者を念頭に、意思能力(本稿では、事理弁識能力や判断能力と区別せず用いる)を完全に有しないとはいえないのではないか、といった疑問や、意思能力の有無や程度については判断が困難であるといった意見が寄せられた。もとより、本書の問題意識の背景には、高齢化の進行に伴う認知症有病者の増加という社会現象が存在するが、「意思能力を欠く者」の中には、いわゆる脳死状態にある者のように、意思能力を完全に喪失しており、かつ、そのことが客観的に明白である者も含まれる。また、意思能力の有無や程度についての判断が困難であるからといって、制度的・理論的な検討が不要であるということにはならない。したがって、本書においては、上述した概念を共通認識とし、認知症高齢者に限らず、「意思能力を欠く者」をめぐる行政対応の現状と法的課題について検討することとした。
2 問題の背景:認知症有病者の増加と社会構造の変化
わが国は、2025年時点における高齢化率(総人口に占める65歳以上人口の割合)が29%を超えて「超高齢社会」に突入しており、2060年には、高齢化率が約38%に達すると予想されている。これに伴い、認知症有病率も上昇しており、2022年における認知症高齢者数は約443万人、軽度認知障害(Mild Cognitive Impairment: MCI)を有する高齢者数は約559万人であり、2060年には、認知症高齢者数が約645万人、軽度認知障害の高齢者数が約632万人に達すると推計されている。ちなみに、2060年のわが国の総人口は約9,600万人(うち15歳未満人口約893万人)と予測されており、同年には、15歳以上の人口のうち、約14人に1人が認知症高齢者となり、軽度認知障害を有する高齢者を合わせると約6.8人に1人が認知機能に何らかの障害を有していることが予想される。
また、核家族化や非婚化といった家族形態の変化に伴い、1980年には全体の約10.7%にとどまっていた単身世帯の高齢者は、2024年には全体の約32.7%となり、高齢者世帯の中で最も多い割合となっている。また、夫婦のみの世帯の高齢者の割合も、1980年には約16.2%であったのが、2024年には約31.8%に上昇したのに対し、三世代世帯で暮らす高齢者は、1980年には全体の約50.1%であったのが、2024年には、約20.4%まで低下している。
さらに、上述した高齢化の進行に伴い、1980年には88万人であった独居高齢者数は、2020年には約672万人まで増加し、同年の総人口約1.26億人の約5.3%を占めるに至っている。このような独居高齢者の増加傾向は今後も継続することが予想され、2050年には、総人口の10%以上にあたる約1,084万人が独居高齢者となると推計されている(図1参照)。
3 本書の問題意識と構成
(1)本書の問題意識
上記のように、高齢化の進行に伴い認知症高齢者を中心とする「意思能力を欠く者」が急増しており、2060年には、15歳以上人口の約14人に1人が認知症高齢者となると予測されている。このことは、社会の構成員の一定割合が認知機能に障害を有することを示すものであり、相手方が意思能力を備えていることを前提とする行政法の仕組みや運用が見直しを必要としつつあることを意味するものといえる。また、近年の家族形態の変化に伴う独居高齢者の増加は、家族による支援を受けられず、行政や地域コミュニティによる支援が必要となる高齢者の増加を示すものにとどまらず、旧来の家族形態の存在を前提とする各種の行政の仕組みが、社会の実情に沿わないものとなっていることを示すものと評価することができる。
本書の各論考は、上記のような問題意識に基づき、行政法上の課題を軸として、関連法領域や韓国・台湾・中国の法制度の知見を有する執筆者が、それぞれの関心に即し、「意思能力を欠く者」をめぐる法的課題について論じるものである。
(2)本書の構成と各論文の位置付け
本書は、まず、第1部(総論)において、「意思能力を欠く者」をめぐる行政対応や意思決定支援、社会福祉の現状と課題について論じる。次に、第2部において、行政法学の観点から、「意思能力を欠く者」に対する行政の実体的配慮義務(第1章)や行政手続上の課題(第2章)、条例による対応策(第3章)について検討を試みる。さらに、第3部では、憲法学や民法学の観点から、「意思能力を欠く者」の裁判を受ける権利(第1・2章)や「意思能力を欠く者」がした遺言の効力(第3章)について論じる。そして、第4部においては、高齢者福祉に直接・間接に携わる行政実務家(第1章)および専門職成年後見人(第2章)の視点や、公私協働論(第3章)の観点から、「意思能力を欠く者」をめぐる課題について問題提起を行う。最後に、第5部では、わが国と文化的・法制度的な共通点を有する韓国・台湾・中国について、問題の背景となる高齢化や認知症有病率の状況を紹介した上で、「意思能力を欠く者」をめぐる法的課題について論じる。
以下、本書を構成する各論考の概要と本書の問題意識との関係について、簡潔に紹介する(ただし、各論考の要約や位置付けは筆者の主観によるものである)。なお、2026年6月に成年後見制度の見直しを内容とする改正民法が成立したが、本書刊行時点で未施行のため、各論考とも、特に断りのない限り、2026年改正前の民法の規定を前提としている。
1第1部(総論:「意思能力を欠く者」に関する行政対応の現状と課題)
第1部は、田中良弘「『意思能力を欠く者』をめぐる行政対応と法的課題─本書の問題意識と行政法・行政法学への示唆」(第1章)、上山泰「『意思能力を欠く者』に対する民法上の意思決定支援の現状と課題」(第2章)、永野仁美「『意思能力を欠く者』に対する社会福祉の現状と課題」(第3章)で構成される。
田中論文(本章)は、わが国における認知症有病者の増加や社会構造の変化について統計資料を用いて指摘した上で、「意思能力を欠く者」をめぐる行政対応やその根拠となる法制度の問題点を指摘し、行政法の仕組みやその背景にある法理論について、「意思能力を欠く者」を念頭において再検討する必要性を論ずるものである。
上山論文(第2章)は、「意思能力を欠く者」を念頭に、障害者権利条約の要請する「支援付き意思決定」の仕組みとわが国の成年後見制度、特に法定後見制度との関係を分析し、同制度の下での意思決定支援のあり方について論じるものである。同論文では、意思決定支援概念の民法への受容に焦点が当てられているが、「意思能力を欠く者」への行政対応やそれに関する法制度のあり方を検討する上でも示唆に富む。
永野論文(第3章)は、1990年代以降の社会福祉基礎構造改革や、2006年に国連において採択された障害者権利条約を踏まえ、「意思能力を欠く者」に対する社会福祉の課題を論じるものである。現在の契約を基礎とする社会福祉サービスや申請主義を採用する支援の仕組みは、「意思能力を欠く者」に必ずしも十分に対応できているとはいえない。社会福祉の分野においても、意思決定支援の考え方に基づき「意思能力を欠く者」を念頭においた法整備を行うことが求められる。
2第2部(各論1:「意思能力を欠く者」に関する行政法の課題)
第2部は、釼持麻衣「『意思能力を欠く者』に対する行政の実体的配慮義務」(第1章)、北村喜宣「『意思能力を欠く者』に関する行政法の手続的課題─特別行政手続代理人の構想」(第2章)、板垣勝彦「『意思能力を欠く者』のために『事務を管理する』条例の草案」(第3章)で構成される。
釼持論文(第1章)は、高齢化の進行に伴う認知症高齢者の増加を踏まえ、行政が相手方等の意思能力の有無を確認し配慮する義務を負うかについて、関連する判例や学説を踏まえつつ具体的な検討を行うものである。本論文は、相手方等が「意思能力を欠く者」であることが具体的蓋然性をもって疑われる場合には、行政の確認義務や配慮義務が発生しうることを指摘する一方で、「意思能力を欠く者」の保護と行政運営の安定性の確保のバランスに配慮した立法措置の必要性を指摘しており、法的対応を含む行政対応のあり方について有益な示唆を提供する。
北村論文(第2章)は、「意思能力を欠く者」について「見なかった」ことにしてきた従来の行政対応を踏まえ、現行の行政手続法が「意思能力を欠く者」に対応していないことを指摘し、これらの課題を克服するための仕組みとして、民事訴訟法に基づく特別代理人制度を参考に、「特別行政手続代理人」を導入することを具体的な制度設計とともに提案する。かかる仕組みは、行政手続に関して、後述する成年後見制度の転用問題を解消しうる点においても重要な意義を有している。
板垣論文(第3章)は、後見等の開始の審判が申し立てられてから成年後見人等が選任されるまでの間に一定期間を要することを指摘した上で、その間の「意思能力を欠く者」の支援等について、一部の地方公共団体が採用する行政上の事務管理による対応の問題点を指摘し、条例の根拠に基づく行政対応を可能とするための「事務を管理する条例」について、具体的な条例案を提案するものである。かかる条例の制定は、現行法の不備を解消するための政策法務(立法法務)と位置付けることができ、地方公共団体による対応策として参考になる。
3第3部(各論2:「意思能力を欠く者」に関する学際的検討)
第3部は、尾形健「『意思能力を欠く者』と裁判を受ける権利」(第1章)、同「『意思能力を欠く者』への裁判手続保障─アメリカ法の一側面から」(第2章)、橋口祐介「『意思能力を欠く者』のした遺言の効力─遺言の形成過程と生前の効力確認の可能性」(第3章)で構成される。
尾形論文(第1・2章)は、「意思能力を欠く者」をめぐる行政対応に関する法的課題として、紛争解決のために司法手続が用いられる場面に焦点をあて、憲法学の視点から、「意思能力を欠く者」の裁判を受ける権利について論じるものである。本論文は、前篇(第1章)において、日本国憲法32条が保障する「裁判を受ける権利」の意義や内容について、憲法学説や判例を踏まえて丁寧に分析を行った後、後篇(第2章)において、アメリカ合衆国憲法における裁判へのアクセスや適正手続保障について概説した上で、「意思能力を欠く者」の裁判手続保障の例として、ニューヨーク州の制度の背景や具体的な規定、裁判例を紹介し、わが国においても、裁判制度に特化した「意思能力を欠く者」に配慮する仕組みを検討する必要性を指摘する。
橋口論文(第3章)は、「意思能力を欠く者」のした遺言の効力に着目し、民法学の視点から、遺言者の生存中における遺言の効力の確認の訴えの可能性について論じるものである。そのような訴えは認められないというのが判例の立場であるが、意思能力が不十分である者にとっては、自らの遺言の効力を生前に確認したいと考えることも十分に想定できる。構成員の一定割合が「意思能力を欠く者」となる社会の到来を見据え、そのような訴えの可否について解釈論や立法論の観点から再検討することが求められる。
4第4部(各論3:「意思能力を欠く者」に関する行政実務の現状と課題)
第4部は、寺崎邦秀「『意思能力を欠く者』をめぐる行政実務の現状と課題」(第1章)、千葉真理子「『意思能力を欠く者』への支援と行政の役割─専門職成年後見人の立場から」(第2章)、宮森征司「『意思能力を欠く者』についての情報共有・連携と個人情報保護─公私協働論の観点から」(第3章)で構成される。
寺崎論文(第1章)は、地方公共団体の現場で高齢者福祉に携わる行政職員の立場から、「意思能力を欠く者」をめぐる行政実務上の課題について論じるものである。本論文は、著者が実際に経験した複数の事例を素材に「意思能力を欠く者」の発見・支援や死後事務における行政の役割について分析し、「意思能力を欠く者」を念頭においた法整備の必要性を指摘する。また、家族の存在を前提とする現行法の仕組みの限界を指摘する点は、千葉論文においても同様であり、実務的な視点からの問題提起として示唆に富む。
千葉論文(第2章)は、市町村長申立てによるものを含む多くの専門職成年後見人の経験を有する法曹実務家の立場から、「意思能力を欠く者」をめぐる実務上の課題について論じるものである。本論文も、寺崎論文と同様、著者が実際に経験した複数の事例を題材に法制度上や運用上の課題について分析を行い、高齢化の進行や家族形態の変化、認知症有病者の増加といった社会情勢の変化を踏まえた法制度改革の必要性を指摘する。
宮森論文(第3章)は、「意思能力を欠く者」を念頭に、公私協働論の観点から、地域コミュニティにおける情報の共有・連携と個人情報保護について論じるものである。近年、少子高齢化や人口減少を背景として地域福祉分野における公私協働の重要性が増しているが、地域福祉に関する情報の共有・連携にあたっては、本人同意の原則のように、「意思能力を欠く者」について、いかにして個人情報保護法の規律を遵守すべきかが明らかでないものも存在し、「意思能力を欠く者」をめぐる行政対応上の課題となっている。
5第5部(東アジアにおける現状と課題)
第5部は、金炅徳「韓国における『意思能力を欠く者』に関する法制度の現状と課題」(第1章)、王萱琳「台湾の終末医療における『意思能力を欠く者』の取扱い─安寧緩和医療法及び患者自主権利法」(第2章)、周家礼奈「中国における『意思能力を欠く者』に関する法制度の現状と課題─成年後見制度における行政の役割に着目して」(第3章)で構成される。なお、各論文とも、冒頭において、それぞれの地域における高齢化の状況や認知症有病者数の推移が紹介されている。
金論文(第1章)は、韓国においても、日本と同様に、民事法や刑事法においては「意思能力を欠く者」がした行為の法的効果や「意思能力を欠く者」の訴訟行為について通則規定が設けられているのに対し、行政法分野ではそのような規定が設けられていないことを指摘した上で、2022年に制定された行政基本法において、解釈上、「意思能力を欠く者」をどのように位置付けることができるかについて検討し、いくつかの具体的な条文に関し、「意思能力を欠く者」を意識した見直しの必要とその方向性を提示する。なお、韓国では、日本と異なり、民法の規定において地方公共団体の長が後見開始の審判を申し立てることが出来る旨が明記されており、わが国の法制度のあり方を検討する上で参考になる。
王論文(第2章)は、2000年制定の安寧緩和医療法(「安寧緩和醫療條例」)や2016年制定の患者自主権利法(「病人自主權利法」)を中心に、台湾における終末期医療についての患者の意思決定に関する規律について論じるものである。これらの法律は、尊厳死を含む終末期医療に関する意思決定についての法的仕組みを定めるものである。また、台湾では、行政手続法(「行政程序法」)に、行政手続に関する行為能力についての明文規定(22条)が設けられている点も興味深い。
周家論文(第3章)は、中国の成年後見制度について定める民法や高齢者権益保障法の沿革や概要について紹介した上で、中国の成年後見制度における行政の役割について論じている。中国では、法定後見人の選任や解任のほか、「意思能力を欠く者」の生活ケアについて、行政機関や自治組織が直接関与する仕組みが設けられている一方で、本人による後見等開始の審判の申立てが認められていないなど、日本の成年後見制度とは異なる特徴を有している。
(以下、本文つづく。図と注は割愛しました)
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