公害の四大裁判が公害健康被害者の救済に重要な役割を果たしたといわれますが、それは、どのような裁判ですか。
戦後の日本経済は急速な成長を遂げましたが、一方では工場等が排出するばい煙、汚水等により環境の汚染が進み、とりわけ公害による健康被害の発生は重大な社会問題となりました。
これらの公害健康被害の深刻さを如実に物語る裁判として有名なものが、1971(昭和46)年6月のイタイイタイ病裁判をはじめとして、46年9月の新潟水俣病裁判、イタイイタイ病控訴審裁判、1972(昭和47)年7月の四日市公害裁判、そして、1973(昭和48)年3月の熊本水俣病裁判へと続くいわゆる四大公害裁判です。
これらの四大公害裁判は、その公害による被害者が多数に及び、また、その被害も人命に及ぶなど悲惨なものがあったという点で、大きな社会的関心を呼んだものです。四大公害裁判において裁判所が下した判決は、いずれも原告が勝訴し、公害の原因企業に対し損害賠償の支払を命じるとともに、厳しく企業の責任を追及するものでした。
この四大公害裁判のうち、公害健康被害補償制度に特に関係の深いものは、1972(昭和47)年7月24日に判決が下された四日市公害訴訟です。この訴訟は、1967(昭和42)年9月1日に三重県四日市市磯津地区の住民が、隣接して四日市石油コンビナートを形成している6社を相手に、6社の操業により排出されたばい煙によってぜん息などの健康被害を受けたことに対して損害の賠償を請求したものです。
この訴訟は、他の公害訴訟がいずれも単一の企業が起こした公害が問題とされたのと異なり、コンビナートを形成している複数の工場から排出されたばい煙による公害健康被害が問題とされたため、審理の中では、このような大気汚染による被害に対して工場等が共同して責任を負うこととなるのかどうかが大きな争点となりました。
これに対して、判決では、各種の疫学調査結果等をもとに磯津地区での原告らのぜん息等とばい煙による大気汚染との因果関係を認め、さらに、被告工場6社が順次隣接し合って集団的に立地し、だいたい時を同じくして操業を行っていることなどを認定したうえ、各工場ごとに排出した煙がどれだけずつ寄与したのかを問わず、共同して賠償責任を負うものとされました。
このような四大公害裁判の結果を背景に、公害健康被害者の迅速かつ公正な保護を図るために、1974(昭和49)年9月より公害健康被害補償制度が施行されることとなったものです。