陽だまりから

寿命について
広島県弁護士会会員 廣島 敦隆

私は本年二月八日満六七歳となった。
職場の法廷で会う裁判官(簡裁を除く)のすべての人が円熟された立派な風采の人も含めて自分より年下だと思うと未だ稚気が抜けない私には妙な感じである。
残り何年の寿命があるか分からないが、そう永くない様だ。そこで寿命について折にふれ断片的に感じた事を少しまとめてみようと思う。

一、夭逝について

夭逝を一応三〇代までに亡くなった人とすると、私には親しい人で夭逝の人が多い。弟が二七歳で交通事故死したのを初め、研修所の同期同クラスのK君が三二歳で病死した。受験生仲間のHさんは三七歳で癌死した。さらに山仲間のNさんが山で事故死したのは三五歳であった。誰も人並み以上の気力、体力、知力に恵まれていて、長生きすれば必ずやその分野で相当な活躍をすることを自他共に認めていた人達だ。
これらの悲しい体験は私に平均寿命など何のあてにもならず、いつ思いがけず死のお迎えが訪れるか知れないという人生の暗い影を見せつけられた。もう一つ痛感した事は、寿命の不平等性である。人は与えられた寿命という舞台の上で正に生きるのであるから、その舞台が普通の人より短いことは人生にとって致命的に不利な条件である。本人にとっては勿論のこと、その人と親しい者にとってもその喪失は大きな痛手である。そして、この不平等のわけを納得させる理由は見あたらない。結局のところ、宗教に救いを求めるか、寿命は各自の人生が不可避的に持っている影の部分であると諦めるしかないようだ。

二、寿命と業績

私が中学生の時、父が五〇代で病死した。その頃から死について気にかかるようになった。同時期頃から小説に親しむ様になっていた。そのころ有名な作家で早死の人が多いことに気付いた。例えば、石川啄木が二七歳、宮沢賢治が三八歳、夏目漱石が五〇歳など。当時私は十代の少年だったので啄木の亡くなった年になるまでもかなりの余裕があった。その間に何か実績をあげたいものと思った。その後、高校、大学に進んでも、この有名作家の死亡した年齢に自分がなるまでに何か社会的に意義ある業績(例えば優れた小説など)を挙げんとの思いは持続した。しかし、その業績は一向に挙げられなかった。五〇歳になったとき「漱石忌 同い年にて 迎へけり」という俳句を作ったのを最後にこの目標は自然消滅した。
この経験は、寿命が永いこと、すなわち時間があることは結果を出す為の必要条件であるが、決して十分条件でないという極めて平凡な真理を改めて私に教えてくれたのである。

三、楽天的考え方(まとめに代えて)

?@親しい夭逝の人と別れるとき
その人が潜在的に持っていた寿命を自ら引き継ごう。そうすると自分は彼の命も一緒に生きることになり結果として長命となる。
?A死の恐怖を免れる方法
寿命が尽きて死が正に現実のものとなった時は実は苦痛や悲しみを感じる器官は存在しない。だからその直前まで死んだあとの取越し苦労などしないで人生を楽しむのが賢明である。
陽だまり 2012 No.40より

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