日時:平成26年4月21日(月)14時〜15時
会場:中央合同庁舎第4号館共用620会議室
講師 小佐々 洌子氏(犯罪被害者遺族・公益社団法人被害者支援センターとちぎ 相談補助員)
テーマ 「私の体験と支援に求めること」
皆様こんにちは。
御紹介いただきました小佐々洌子と申します。
本日は、こういう場でお話する機会を与えていただきまして、大変ありがとうございます。
まとまった話はできないかと思いますけれども、私自身が事件に遭う前とその後、天と地がひっくり返ってしまったような、現状のほんのわずかではありますけれども、お話しさせていただきますので、ぜひ、皆様の施策の参考にしていただければありがたいと思っています。それでは、よろしくお願いいたします。
夫は、当時、57歳でした。鹿沼市環境クリーンセンターに勤めていまして、役職は参事でした。
事件は、平成13年10月31日、夕方です。6時ごろ退庁したそうですけれども、その後、忽然と姿を消してしまいました。
ですから、もう12年半たっておりますけれども、まだまだ私の脳裏にははっきりと焼きついたままですし、それを思い出すと非常につらいことがたくさんあります。
その日夫が帰ってこなかったものですから、一晩中、携帯に電話をかけ続けたのですが、一度もつながることはありませんでした。
翌日、知らせを受けまして、環境クリーンセンターに勤務していましたから、郊外なのですけれども、田んぼの中に夫の自転車、鞄、そのほか夫の荷物が散乱していました。職場から200mから300mの距離でした。しかも夫の姿はどこにもありませんでした。
息子と一緒に必死に探しましたけれども、手がかりになるようなものも、荷物だけしかないわけです。血痕も道路上にありませんでした。自転車も車とぶつかったような痕跡は全くありませんでした。
結局、その足でクリーンセンターの事務所に駆け込みまして、警察に届けていただいたのですけれども、目撃情報もほとんどありませんでした。110番通報もありませんでした。
ということは、夫は残念ながら、犯罪被害者ではないわけです。警察の皆さんは、いつも「これは事件ですよね」と私が尋ねますと、「多分、五分五分くらいで犯罪に巻き込まれたと思います」。
そういう返事ばかりでした。
その警察の皆さんはといいますと、一市職員が、命にかかわるような危険な仕事があるのだろうか、そこが何ともわからなかったようです。
私自身は、非常に必死で焦っていたのですけれども、当日、最初にお見えになった警察の方たちは「みずから失踪したのではないか」と感じる受け答えがたくさんでして「悩みごとはなかっただろうか」「健康状態はどうだったろうか」「借金でもあったのではないか」、その中の1人が「女でもいたのではないのか」と、簡単におっしゃるわけです。
ですから、多分、その当日、午前中来ていただいた警察の方たちは、まさか事件にかかわっているとは思わなかったのかもしれません。田んぼの中に落ちていた夫の持ち物、鞄と、ほかの荷物。「はいご苦労さん、何かあったらまた連絡します」と言われてその日、返していただきました。
では、市役所はといいますと、市長は「全面的に捜査に協力する」とおっしゃっていたそうですけれども、職員の皆さんは「トラブルはなかった。心当たりはない」と言い続けたそうです。
その後、警察の捜査員の方がおっしゃるには「市役所は箝口令が出てしまったのではないか。誰も何も話してくれない」と非常に戸惑っていたようです。
逆に、余りにも皆さん口を揃えて「何も心当たりがない」と言い続けたものですから、警察としては、逆に何かあるのではないか、何か隠しているのではないかと、見てとっていたようです。
では、どうしてかと言いますと、裁判とかで明らかになりましたのは、市の最高幹部の1人が主犯の業者と不適切な関係、飲食を共にするような関係があったそうで、主犯の業者は、市役所から便宜を受けていたそうです。癒着があることを職員の皆さんもわかっていた。その嫌な部分が明るみに出るのを非常に恐れていたようです。
そうこうしているうちに、時間だけはどんどんたっていくのですけれども、残念ながら、夫の生死がどうなのか、それさえもはっきりしないわけです。
非常にきつい状態でした。しかも、そういう状態が長く続いていまして、ふと我に返りましたら、夫が市役所の職員としての身分はどうなってしまうのだろう、またそこで心配が出てしまいました。
でもありがたいことに、行方がわからなくなってから約2か月近くは、年次休暇でしたが、その後、議会の承認を得て、定年まで休職扱いにしていただきました。
私たちにとって、ほっとできる状態になったわけです。
ただ、管理職手当もなくなりました。休職ということで、いただくお給料は、当時の高校生の初任給ぐらいで、私たち家族は夫を探して歩いて沢山費用がかかっていましたので、どんどん蓄えが減っていく心細さを感じていたのも事実です。
それでもなお、私たちは休みになると、夫を探し続けていました。
最初の4か月ほどは、御近所の方たちも、ボランティアで手弁当で一緒に探してくださっていました。
でも、残念ながら何の手がかりもありませんでした。
1年後、今度は情報提供を呼びかけるチラシをつくることになりました。
最初は、私自身が自分でつくろうと思っていたのですけれども、市役所の皆さんに私がやろうとしていることがわかってしまい、ありがたいことに、皆さんにカンパしていただきました。
それででき上がったのが、よくいろいろな場所に張ってあるのと同じようなこのチラシです。
発送なども皆さんがやってくださいました。私が友人や親戚の者と発送しようとしていたことを代わりにやっていただいて、それは非常に今でも感謝しています。
当時の私たちの家族の健康はといいますと、まず、事件から9か月後、私自身が倒れました。この左手、現在はほとんど不自由もなく生活できるようになったのですけれども、10円玉も持てないような状態になってしまいました。脳疾患でした。2週間入院することになってしまいましたけれども、私は夫を必死に探している最中でしたから、院長先生の前で泣きわめきました。「家へ帰らせてください。夫を探しているのですから、私、入院する時間の余裕は全くないのです」、そう院長先生にお話ししたのです。そのあと婦長さんがお見えになって、「小佐々さん、これは神様があなたに与えてくれた特別休暇よ。大切にしましょう」とおっしゃいました。
それで、即入院する決心をしましたけれども、入院して、非常に病院は居心地の良い場所でした。名前も明かされずに済みました。事件のことを興味深そうに問いただしてくる方もいませんでした。非常にありがたかったです。
逆に、2週間を過ぎて退院するときに、家に帰ってまた現実に戻されるのが嫌だと思ったくらいです。
息子と娘が私にはおりますけれども、2人ともだんだんPTSDのような症状が出てきまして、息子は、夜遅く仕事から帰ってきましても、夕食が食べられないわけです。お風呂にも入れないのです。
次の朝、起こしに行って、やっと起きるのですけれども、食事もしないで、コーヒーかお茶を飲んで仕事に行きます。そんな状態で、きちんとした仕事ができるはずがなかったと思います。
結局、ミスをしてしまいました。
それを会社の方たちに非常に責められたそうです。ずたずたにされた心身の状態等全く理解されませんでした。仕事も失いましたし、人間不信だけが残ってしまったようです。
娘も半年ちょっと過ぎたころから、顔が半分けいれんしてしまいました。
おかげさまで、今は回復していますけれども、精神的な部分では、2人ともまだ事件前の状態ではないと思います。
特に娘は精神のバランスを崩してしまいました。
今でも、精神科の医師で被害者支援に専門的にかかわってくださっている先生のカウンセリングを受け続けています。
夫を捜し歩くことをずっと続けていまして、1年3か月たったときです。警察の署長さんが家に来てくださいまして、犯人を逮捕、夫は殺害されているという知らせをいただきました。
その平成15年2月6日という日が、生きていれば夫の59歳の誕生日でした。私たち家族にとって、一生忘れることのできない、つらいつらい夫の誕生日でもあるわけです。
やっと犯罪被害者、そう呼ばれる状況になったわけですけれども、加害者が5名いました。殺害を依頼した主犯は、市内の廃棄物処理運搬業者です。違法な廃棄物処理とか、搬入を続けていたものですから、市役所は行政指導をしていたそうです。その他にも、許認可問題でトラブルを起こし、その責任者が夫だったために、業者から逆恨みを受けていたそうです。「市役所の小佐々はうるさい。じゃまだ」と従業員に話したこともあるそうです。
ところが、その主犯の業者は、逮捕状が出ていたと聞きましたが行方をくらましてしまって、自殺体で発見されました。私たち家族にとって、こんなつらい悲しいことはないのです。
やはり、法に触れることをやったなら、きちんと身柄を確保して、証拠をきちんと揃えていただいて、法廷に立たせてほしかったのです。
それができない悔しさ、今でも思い出すと、いらいらすることがあります。
殺害を実行した人間が3名おります。元暴力団関係者だそうです。
最初は500万で請け負ったそうですが、最終的には、1,500万円近くのお金が動いているそうです。
では、どんなふうにして犯行が行われたかと言いますと、職場近くで拉致されました。クリーンセンターから、ほんの200mか300mしか離れていない場所です。
そちらから約3キロほど離れた東北道の鹿沼インターに入り、埼玉県の実行犯の1人の事務所まで連れていかれました。そこで目隠しをされ、体はガムテープでぐるぐるに緊縛されたそうです。
そして、今度は別の車に乗り換えて、埼玉県から国道17号線を通りまして、群馬県の山中まで連れていかれ、拉致されてからちょうど9時間ぐらいたっていたそうですけれども、車から降ろされて、犯人たちが持っていたひもで夫の首に2重にまいたそうです。両側から2人が引っ張ったわけです。裁判で実行犯の1人が「小佐々さんの首がかくんと落ちた」そう言っていました。
ですから、私はそれでもう命はなかったのではないかと思っているのですが、やはり息を吹き返しては困るという思いも実行犯の中にはあったのかもしれません。
リーダー格の人間が拳銃を持っていました。とどめはその一発の拳銃だそうです。
しかも、山中の高いところから崖下に落とされてしまったものですから、残念ながら、今も遺体が見つかっていない、そういう状況です。それに、主犯と殺害を実行した3人を仲介する人間がひとりいます。主犯の業者の下請けをしていた人間です。
私たちは、約2年間、群馬県に通い続けましたけれども、警察でさえ未だに場所の特定もできていないということです。
では二次被害についてお話しさせていただきます。
これが非常に多過ぎまして、やはり被害者は傷つくことが多いです。元の生活に戻る。なかなかそれができない状況にあると思います。私自身は外に出られませんでした。良くないうわさ話が沢山聞こえてきましたから、人の目が怖くて怖くて、皆さんの好奇の目ですね。それが非常に怖くて、外に出られませんでした。
ですから、犬の散歩もできなかったです。結局、私自身は4年間必要以外には外に出ることがほとんどない引きこもりの生活を続けてしまいました。
食料品の買い物も地元では当時ずっとしていませんでした。隣接する宇都宮市まで行って、一週間分ぐらいのまとめ買いをしていました。マスコミの取材も大変でした。
朝、車庫のシャッターを開けますと、もう記者さんがいる、そんなことも何度もありました。夜の10時半、11時に電話取材を申し込まれたことも何度もありました。
また身内とか、親戚とかの言動は意外と傷つきます。
私たち残された家族3人でも、考え方は全くばらばらなわけですから、そこに親戚、身内、同じ考えをしているわけはないのです。
それをああしなさい、こうしなさいと言われ続けたものですから、私は非常に傷を深くしていったと思います。また、電話での夫の遺棄場所を教えるとの金銭の要求、これもたくさんありました。
人の不幸につけこんで、お金をもうけたい。そういう人がたくさんいることも経験してしまいました。また、極限の状態が続いていますと、私たちはあちらこちら体の具合が悪くなることが多くなりまして、地元の総合病院に行きます。そこで名前を呼ばれるとすぐにわかってしまうのです。ざわざわしていた待合室が一瞬しーんと静まりかえるのです。
私のほうに視線が来るのです。それで、あの人が市役所の小佐々さんの奥さんね。お気の毒ねという顔はするのですけれども、誰ひとり私に声をかけてくださる人はなかったです。
娘も同じ病院ですけれども、看護師さんに名前を呼ばれたそうです。
そのとき、その看護師さんが「もしかして、市役所の殺された小佐々さんの娘さん?」、皆さんの前でたずねたそうです、娘は泣いて帰ってきました。
今でしたら、名前を呼ばれない方法もあることがきちんとわかっていますけれども、当時はそんなことを考えるすべもなかったです。
しかも、孤独、孤立した状態を嫌というほど味わいました。私の友人とか、御近所の方たち、親戚などに支えられて、非常にありがたかったのですけれども、逆に珍しそうに、怖いもの見たさに眺めている人々がほとんどでした。
そこの中には、残念ながら市役所も含まれています。
事務連絡に来てくださる2人の方は指定されていましたから時々我が家にみえました。夫はスポーツをいろいろやっていましたから、仲間がたくさんいると思っていたのですけれども、たった一人、いちばん仲のよかった友人が訪ねてきてくださるだけでした。あとは一切電話もいただいたことはなかったです。
何なのだろう。これは何なのだろう。いつも疑問に思っていました。
捜査員の方に話をしますと「やはり公務員なのだから、いろいろあるのだから、我慢してやりなよ」と慰められていました。
でも、何か変だ。いつも思っていました。
多くの市職員は傍観者でしかなかったわけです。今でも思い出したくないです。
逆に、知人から「元気にしている。食事きちんととれてる。一緒に御主人の帰り待っているからね」と、そんな声かけが非常にありがたくて、ぼろぼろ泣いたこともたくさんありました。
では私自身ができないこと、お話します。市役所本庁舎に今でも行けません。我が家から歩いて7、8分の距離ですし、市役所の施設の中で、一番本庁舎が近いところなのですけれども、中に入れません。
ということは、現在までに、印鑑証明だったり、戸籍謄本や、抄本であったり、いろいろ必要なことがたくさんあったのですけれども、何人かの方に頭を下げて、委任状を書いて、代理でとってもらっていました。
快く引き受けてくださった方たちには感謝の念に絶えませんけれども、知り合いの市の職員の方に、お願いしたことがあるのです。
そうしましたら、その方には、自分の仕事ではないですからとやんわりと断られてしまいました。
それが一人でできるようになったのは、本庁舎は今でもだめなのですけれども、コミュニティセンターと呼ばれて、職員が4、5人しかいない事務所ではありますが実に事件から8年半かかりました。今ではそちらに1人で行くことができますから、それで良しとしなければいけないのですけれども、本庁舎に用事があるときは、どうしよう、今でも思っています。
では、どうして私はそこにこだわっているのかよく考えてみますと、職員の皆さんがトラブルがあったことや、主犯の業者が事務所に怒鳴り込んできていたことを隠し通していた。そんな状況が裁判などで明らかになってきたものですから、夫は職員の皆さんに見捨てられてしまったのではないか。いろいろ世間に知られては困る嫌な部分を隠そうとしていたのではないか。そう想像してしまいましたから、今でも市役所に対して不信感を持ち続けているわけです。
これらがきっと影響しているのかと思います。
残念ながら、今でも市役所とは良い関係ができているとは思っていません。市役所という言葉に拒否反応を起こしてしまうことが今でも続いています。
夫が勤めておりました環境クリーンセンター、そちらの煙突を見ることが今でもできません。
車を走らせていて、平らなところを走っていますと、結構煙突が見えてしまうのですけれども、そのときは、煙突のほうには、なるべく目を向けないようにして、反対側を見たり、真っ直ぐ前を見たりして車を運転しています。
拉致された現場、夫がいなくなった翌日、息子と行ったきり、まだそちらに足を運ぶことができないでいます。そのクリーンセンターの隣に、現在、新しい鹿沼警察署の建物があるものですから、そちらに用事がある時はどうしよう。いつもそう思っています。
そのときは、被害者支援センターとちぎの直接支援をお願いするしかないのかな。今では真面目に思っています。
事件前に行っていたスーパーにも、あまり行くことがありません。当時、何回かそのスーパーには行っていましたけれども、前方から知り合いの方が歩いてきます。私がいるとわかりますと、相手の方は私にどんな声をかけていいのか、きっと戸惑っているのだろうと思います。Uターンしてどこかへ行ってしまうのです。
そういうことを何度も経験しますと、私がそのスーパーに行かないほうがいいのではないかと思ってしまって、現在でも余り地元のスーパーで買い物をするということはありません。宇都宮市内の被害者支援センターに行くことが多いものですから、センターの近くで買い物をして帰ってきます。それが12年以上たった今でも続いています。
息子と娘の帰宅時間が遅くなりますと、もうパニックです。また何かよくないことが起きてしまったのかもしれない。すぐにそこに結びついてしまいます。2人の携帯がつながらなくても、やはり不安で不安で落ち着きません。これは同じような被害を受けた皆さんが感じることではないかと思います。
夫の事件では、4人の方が亡くなっています。尊い命です。
まず夫が亡くなりました。主犯の業者が自殺してしまいました。実行犯の1人が刑が確定して収監されてすぐ亡くなっています。夫の殺害に加わった時点では、重篤な病気だとわかっていたそうです。それでもなお、お金のためには犯行に加わったわけです。
もう一人、夫の前任者です。裁判などでわかってきたことですけれども、業者と癒着があったとされる最高幹部の一人のブレーンだったそうです。
業者と飲食を共にしていたり、業者の事務所に出入りしていたそうです。
やはり、裁判で明らかになったのは、違法なごみ処理とか、搬入もその主犯の業者の車は、素通りさせていたそうです。とんでもない便宜を与えていたわけです。
その前任者が犯人逮捕の報を受けた5日後に、市役所の5階から飛び降り自殺を図ってしまいました。
それも非常にショックでした。
市役所が体面ばかり気にせず、警察に早い段階から情報を提供してくれていれば、人の命のことを最優先に考えてくれていれば、救えた命もあったと今でも思っています。
もしかしたら、夫の遺体も見つかっていたかもしれません、それを思うとやはり悔しいです。
しかも、何人も亡くなってしまっていますから、事件の全容解明もほど遠いものになってしまいました。
結局、一度歪められてしまった行政を元に戻そうとすると、とんでもない犠牲が生じる。それが夫の事件かと思っています。
夫が事件に巻き込まれたことで、市役所はいろいろ知られたくない部分が明るみになること、警察の手が入ることを恐れていたのかもしれません。必死に組織を守ろうとしていたように私には映ってしまいました。
当時、まだ犯罪被害者等基本法も基本計画もできる前でした。被害者支援センターとちぎも平成17年の設立でしたから、夫や私たち家族が犯罪被害者だという認識は、当時の市役所には全く無かったように思います。
現在の被害者支援とはほど遠かったわけです。
ただ、被害者支援センターとちぎの事務局長の話によりますと、現在の鹿沼市の被害者支援は、県内でも積極的な取り組みをしてくれている自治体だそうです。
「他市町の見本になるものがたくさんあります」そう言ってくれています。
私もひと安心、ああよかった。夫の犠牲も無駄ではなかったかもしれない。そう思っているところです。
では、被害者になってみて感じたこと、今後、皆様方にもより一層支援していただきたいことを少しお話しさせていただきます。
被害者になって、一番最初に接するのは警察官と思っています。
私は、当時、最初にお会いした警察の方たちに、いろいろなことを言われています。「家出人は1日に何人もいるんですよね。なかなかそれ全部調べてられないのです」、最初がこのことばでした。先ほども申し上げましたように「女でもいたのではないの。奥さん、御主人と仲良かったのですか」、そこまで言われますと、もしかしたら、私を犯人と思っているのかもと、逆に考えてしまいました。言葉を選んで話してほしいと思います。最初に二次被害を受けたのは警察官からでした。
私が必死になって話していることを、全て否定する警察官もいました。私の考えが警察の常識とはずれているのだそうです。
非常に傷つくものです。警察の皆さんは、被害者に接するのは日常茶飯事、当たり前なのかもしれません。
でも、私たち一般市民は、犯罪被害に遭うというのは、一生に一度あるかないかだと思います。
「また何か起きたか」そんな態度はとらないでいただきたいと思います。警察と被害者との信頼関係がなくなります。
ただ、捜査一課の皆さんは、被害者支援の必要性を感じていたのでしょうか、私に寄り添ってくださっていました。ひとつお話しますと10月末の事件でしたから、どんどん寒くなって、曇りで余り晴れない日もありました。そんな日は、私は非常に落ち込むのですけれども、捜査員の一人、私の家に来てくださるのです。「何も報告することはありません。怒られに来ました。お茶を飲ませてください」と言って、私と話をして、2時間くらいいてくださるのです。
夫がなかなかみつからない私の怒りに弁解もしません。本当によく私に付き合ってくださいました。ありがたかったです。
しかも、地元署のひとりが5年間、私の担当をしてくださいました。私と警察署の連絡役をしてくれていたわけです。私の一番つらい時期、いつも近くにいてくれていました。
私のぐちの聞き役、37回あった地裁の裁判傍聴の付き添いもしてくれました。現在の被害者支援を警察がやってくださったわけです。
その方は年に2、3度、線香をあげに、今でも来てくださっています。ありがたいです。
息子と娘のことですけれども、当時、社会人になっていました。でも、2人の会社は、被害者のおかれている心身状態など、全く理解してくださらないところでした。息子は上司に「親父さんの分まで頑張れ。いろいろ良くないうわさも飛んでいるけれども、見返してやれ。一生懸命仕事をするように、でも仕事はミスするな。」と激励なのか何かわかりませんけれども、頑張れ、頑張れと言われ続けたそうです。
結局、息子は仕事でミスをしましたから、能無し呼ばわりされました。母親の私にも抗議の電話が上司からありました。
謝るしか私自身もなかったです。裁判の傍聴や群馬県内の大規模な捜索にも休みが取りづらくて、足を運ぶことがあまりできませんでした。
娘もそうです。体調が悪くても、休みをとることができませんでした。早退もできなかったそうです。まして、2、3日続けて休みをとる、そんなことは絶対会社に言えなかったと言っています。
有給休暇は、2人ともたくさんあったのですけれども、そのたった1日の休みでもとりづらかった現実、それでも休みを取ろうとすると自分から退職願を書くか、解雇されるしかなかった。2人はとてもつらかったようです。
厚労省で被害者に対する休暇に御尽力いただいているとはお聞きしていますけれども、多くの犯罪被害者が仕事をやめざるを得ない現状があることも確かです。法的にきちんと休暇制度を望んでいる被害者もたくさんいるかと思います。
たくさんある有給休暇でも、休むことができないなら、やはり、きちんとした法整備が必要ではないかと思っています。
パンフレットも厚労省にあるそうですけれども、企業に対しても、積極的な働きかけをぜひお願いしていただきたいです。
出費もたくさん嵩みました。先ほどお見せしたのは、市の職員の皆さんによるカンパで作成したチラシですけれども、最初は、家族が自分たちでつくって、コピーをして、いろいろなところにお願いして歩いていたのですけれども、それも費用がかかりました。
加害者2人が東京高裁に控訴しましたから、その旅費もばかになりませんでした。家族が次々と体調を崩しているわけですから、入院費用とか、医療費もかかりました。
蓄えがどんどん減っていく心細さ、嫌というほど味わいました。しかも、いろいろな方たちが差し入れをしてくださったり、ボランティアで捜索にかかわってくださったりしていたものですから、その後、一段落したときに、お礼と共にお礼状をつくって皆さんにお届けしました。ご好意に甘えても良かったのですが皆さんに感謝の気持を伝えるために私には必要なものでした。その費用もばかになりませんでした。
被害を受けても、私たちは自分の力で生きていかなければならないのです。路頭に迷うこともたくさんあるわけです。被害者に対する低利の貸し付け制度も必要かと考えます。
被害者支援に対する広報の必要性も感じています。
私は平成18年から被害者支援センターとちぎとかかわらせていただいていますから、被害者支援の必要性を伝えてきています。でも、支援センターの存在さえ知らない方が多くいます。
しかも、30代、40代のサラリーマン、働き盛りの皆さんは「関係ない」と言い捨てる人たちがたくさんいらしています。
パンフレットを配布しても、ごみ箱に捨てられていることもありまして、非常にがっかりして拾ったりします。
いつ、どこで、だれもが犯罪被害に遭うかもしれない。そのことをもう少し市民の皆さんが自覚していただきたいと思います。
決して他人事ではないわけです。今まで以上に広報活動を続けていかないと、悲しい思いをする犯罪被害者は減らないのではないでしょうか。
次に、犯罪被害者を出さない努力をお願いしたいと思います。
私たちのように、つらい思いをする人たちをこれ以上、ふやさないためにも、被害者支援と並行して被害者を出さない努力だと思います。国や警察、各自治体、専門分野の皆様だけに任せて良いものではないはずです。私たち一人一人が担うべきものだと思います。
犯罪被害者を少なくすれば結局、加害者も出さないで済むということではないでしょうか。
もっともっと皆様に被害者の置かれている現状をアピールしていただけるとありがたいなと思っています。
最後になりますけれども、夫は、ある日突然、人の手によって命を奪われてしまいました。
このつらい悲しみ、決してほかの人には味わってほしくないと思っています。
毎日、元気にして生きていられること、当たり前ではないわけです。いつものように、朝を迎えられるこの幸せを私たちはもっともっと大切にしなければいけないと思います。ご自分のためにも、ご家族のためにも、社会のためにも、安全に暮らせる世の中であってほしいと願っています。
夫は、群馬県の雪の下で13回目の冬を迎えてやっと少し暖かくなって木の芽も膨らんできた山中に今でも眠っているわけです。
お彼岸のときに、私は1人で群馬県の山中を歩いてきましたけれども「お父さん、今日私は来ているのよ、今日なら、私、助けられるのだから、母ちゃん、俺はここにいるから助けてくれ、そう言ってくれれば助けられるのよ」ぶつぶつ一人で言いながら、山中を2時間ぐらい話しかけてきました。残念ながら、何にも答えてくれないのです。
でも、12年半たった今でも、私は夫をこの手に抱きしめることだけは諦めるつもりはありません。遺体をしっかりこの手に抱いて、「おかえりなさい、つらかったでしょう」と言ってやりたい。毎日毎日そう思っています。
皆様も、夫が我が家に戻ってきてくれることを見守っていただければ幸せです。
まとまりのない話をしてしまいましたけれども、時間が来ましたので、この辺で失礼させていただきます。
本日はどうもありがとうございました。
- 【参考】
- 認定NPO法人全国被害者ネットワークホームページ
被害者の声を聞いてください平成24年度4人の手記 - 「犯罪被害者」という名の社会的弱者
公益社団法人被害者支援センターとちぎ 小佐々寛子
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