明治5年
3月3日、茨城県真壁郡下館町(現・下館市)に父増太郎、母宇多の三男として生まれる。
本名 嘉七。
20年
上京。
22年
東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科入学。岡倉天心、高村光雲らに学ぶ。
27年
東京美術学校卒業。
28年
鈴木まると結婚。
29年
石川県工業学校(現・石川県立工業高等学校)彫刻科主任教諭として金沢に赴任。
36年
石川県立工業高校教諭を辞職、上京。東京高等工業学校(現・東京工業大学)窯業科嘱託となる。東京府北豊島郡滝野川村田端(現・北区田端)に住居と工房を建立、移住。郷里の筑波山にちなんで波山と号す。
37年
三方炊口の倒焔式丸窯を築き始める。(資金不足のため1年3ヵ月を要す)
39年
初窯を焚き好成績を得る。
40年
「磁製金紫文結晶釉花瓶」が東京勧業博覧会で三等賞受賞。
43年
石川県小松出身の現田市松が轆轤(ろくろ)を担当、終生助手を務める。
大正2年
東京高等工業学校嘱託を辞任、作陶に専念。
3年
葆光彩磁完成。
昭和2年
新設の帝展第4部(美術工芸)委員就任。陶芸家が芸術家として名実ともに認められるようになる。
東陶会(関東在住の陶芸家団体)結成、会長に推挙される。
茨城工芸会結成、会長就任。
4年
工芸家として初の帝国美術院会員。
8年
このころより、郷里の高齢者に鳩杖を制作・寄贈、以後続行。
13年
郷里の日中戦争戦没者遺族に観音像や香炉を制作・寄贈し慰霊、以後続行。
20年
空襲により住居・工房ともに全焼、下館の生家に疎開。
21年
筑波郡菅間村洞下(現・つくば市)にある作業場を借りて制作続行、焚窯。
25年
田端に工房再建。
26年
下館町名誉町民。
28年
陶芸家として初の文化勲章受章。
29年
横山大観とともに茨城県名誉県民。
33年
妻まる死去。
35年
重要無形文化財保持者に推挙されるが辞退。
37年
育英資金として下館の邸宅と500万円を基金に財団設立を決意。
38年
現田市松、交通事故により死亡。
財団法人波山先生記念会設立。
10月10日、直腸がんのため死去(享年91歳)。田端大龍寺に埋葬、下館妙法寺に分骨埋葬。