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地震地震
2020年11月20日
取材・文/藤崎慎吾(作家・サイエンスライター)
2011年3月11日からしばらくの間、テレビ画面に映るのは逆巻く黒い波と、押し流される家や車ばかりでした。直接、被災地を見ていなくても、その映像だけで大きなストレスを抱えた人は多いでしょう。
私は震災から約1ヶ月後に宮城県亘理町で、津波の爪痕を目の当たりにしました。まだ余震が活発に続いており、空気が禍々しく張りつめている中で、恐怖に鼓動が高まったのを覚えています。津波警報を聞き逃さないために、現場ではラジオをずっとつけっぱなしにしていました。
単に波が大きかったというだけで、あの大惨事がもたらされたわけではありません。三陸のリアス式海岸から仙台平野に至る広域の浸水には、地震の起きかたや波の性質など、様々な要因が関わっています。今回はその詳細と、津波被害の軽減を目指す研究の一つを紹介します。
民俗学者の柳田國男(1875〜1962年)は、岩手県遠野地方の伝承を集めた『遠野物語』の中で、次のようなエピソード(第99話)を紹介しています。
1896年6月15日に起きた明治三陸地震の津波で、妻と子供を失ってしまった福二(ふくじ)という男が、残された子供2人とともに海岸の小屋で暮らしていました。そこは、もともと自分の屋敷があった場所(現在の岩手県山田町田の浜地区)でした。いったんは逃げたのでしょうが、あえて戻ってきたわけです。
小屋をかけて1年ほどが過ぎた初夏、ある月夜の晩に福二は渚を歩いて便所(おそらく共同便所)へ向かいました。すると霧の中から男女の二人連れが近づいてきます。見ると女のほうは亡くなったはずの妻でした。
思わず跡をつけて福二は声をかけます。すると女は振り返って、にこりと笑いました。男のほうは、やはり津波で亡くなった同じ村の人です。女が福二と結婚する前、互いに深く心を通わせていた相手だと聞かされていました。
「今はこの人と夫婦になっています」と女が言うので「子供は、かわいくないのか」と福二が返すと、女は少し顔色を変えて泣きだしました。福二のほうも情けなくなってうつむいているうちに、二人は足早にそこを立ち去ってしまいます。以下、原文を引用しましょう。
「追ひかけて見たりしがふと死したる者なりしと心付き、夜明まで道中(みちなか)に立ちて考へ、朝になりて帰りたり。其後(そのご)久しく煩(わずら)ひたりと云へり」
少し追いかけてみましたが、相手は死んだ人なのにと気づいてやめ、夜明けまで道に立ちつくしてあれこれ考え、朝になって帰りました。その後しばらく(心を)病んでいたといいます。
名著の誉れ高い『遠野物語』の中でも、とりわけ味わい深いエピソードの一つです。福二は実在の人物で、柳田に遠野の伝承を語り聞かせた作家、佐々木喜善(1886〜1933年)の大叔父に当たります。この生々しい話は、実体験として福二から佐々木へ直接、伝えられたのではないでしょうか。
福二の子孫は今でも、山田町で暮らしているようです。毎日新聞(2012年3月11日)や朝日新聞(2018年4月23日〜5月1日)の報道によると、ひ孫に当たる人は、東北地方太平洋沖地震(以下、東北沖地震)の津波で母親を亡くしました。父親や祖母が『遠野物語』のことをあまり話したがらなかった一方、母親は「先祖のことだから、しっかり覚えておけ」と本を買うように勧めてくれたことがあったそうです。
その母親が津波で亡くなった。何という巡り合わせでしょうか。その残酷さというか、やるせなさには、福二の縁者でなくとも嘆息せざるをえません。
三陸沿岸は、このように度々、津波の被害を受けてきました。近年になってからだけでも、明治三陸地震の後は1933年の昭和三陸地震、1960年のチリ地震、そして2011年の東北沖地震と続きます。ただ、これらの地震と、それが引き起こした津波には、それぞれ顕著なちがいがあります。チリ地震は南米で起きたので当然ですが、明治三陸、昭和三陸、東北沖の三つは同じ日本海溝周辺で起きながら性質が異なっていました。
中でもよく比較されるのは、明治三陸と東北沖です。明治三陸の津波は、陸を駆け上がった高さ(遡上高)が最大で38.2mに達し、約2万2000人の死者と約4400人の負傷者を出しました。一方、東北沖の津波の遡上高は最大で40.5m、死者と行方不明者を合わせた数が約2万2000人、負傷者が約6200人です。これだけを見ると、両者はよく似ています。
しかし明治三陸のマグニチュード(M)は8.2、震度は最大でも4程度でした。東北沖はM9.0と約16倍の規模で、最大震度は7です。そして明治三陸の死者が岩手県では約1万8000人、宮城県では約3500人である一方、東北沖の死者・行方不明者は岩手県で約6000人、宮城県で約1万2000人と逆転しています。こうしたちがいは、いったい何によって生じたのでしょうか?
今回、津波について色々とお話をうかがったのは、海洋研究開発機構(JAMSTEC)海域地震火山部門地震津波予測研究開発センター副主任研究員の今井健太郎さんです。東北沖地震が起きた当時、今井さんは東北大学の助教でした。研究員をしていた東京大学から移って、半年ほど経ったころだといいます。
その今井さんをまず襲ったのは3月9日の前震でした。第2回で触れた通りM7.3でしたが、研究室が11階という高さにあったせいか、けっこう揺れて、本棚の中身が全部、落ちてしまったそうです。津波も少し出たので調査に行こうかと上司に相談しましたが、その必要はないと反対されました。もし反対されずに沿岸へ出かけていたら、2日後の本震で命を落としたかもしれません。
当時は「貞観(じょうがん)地震」という、平安時代前期の869年に東北沖で発生したとされる巨大地震が話題になり始めていました。『日本三代実録』(901年)という歴史書には記されているのですが、事実かどうかはっきりしていなかったところ、過去の津波堆積物の調査などによって、ほんとうに起きたらしいとわかってきたのです。
それを知っていた今井さんですが、3月9日の前震が起きた日は「1000年に1回、巨大地震が起きると言っているけど、まあ僕らは見られないだろうな」と思っていたそうです。そして3月11日、研究室で本震に襲われました。せっかく片づけた本棚ですが、中身が落ちるどころか、それ自体が倒れてしまったそうです。
1週間後、今井さんは北上市を拠点にしながら、三陸沿岸を視察しました。「大槌は大量の瓦礫が打ち上がって、津波火災とかも出ていました。一方で陸前高田は鉄筋コンクリートの建物は残っていますけど、それ以外はほとんど残っていなかったんです。津波の戻り流れで、瓦礫は全部、海に流されて、もうほんとうに廃墟でした。そういう状況を見てわいたのは、悲しいという感情より先に、驚きでしかなかった」と振り返っています。
今井健太郎(いまい・けんたろう)
1976年、東京都生まれ。秋田大学大学院工学資源学研究科生産・建設工学専攻修了。博士(工学)。専門は津波工学。2020年より現職。基本的には陸上の津波の 振る舞いに関心があり、学生時代は主に室内実験を中心とした研究を進めていたが、最近では過去の津波履歴調査など野外での調査が中心になりつつある。現在は日本中世の戦乱時に起きた地震津波災害に興味があり、特に1495年明応関東地震の全貌を暴くための方法を考えると夜も眠れない(のであまり考えずに寝ている)。
撮影/藤崎慎吾
ここで改めて「津波」とは何かをおさらいしてみましょう。「津」は「港」という意味です。例えばチリ地震による津波の場合、沖合ではせいぜい数cmの高さしかありませんでした。だから見ていても気づきません。しかし港に近づくと数mの高さになりました。「港に来てやっと大きくなる、という意味で津波なんですよ」と今井さんは言います。
津波は地すべりや火山の噴火、隕石の衝突などによっても起きますが、ほとんどの原因は地震です。地震による断層のすべりで海底が短時間に隆起したり、沈降したりすると、その上の海水も動かされます。お風呂の中で手を大きく上下に動かすと、水面も盛り上がったり、へこんだりしますが、それと同じことです。
海面の盛り上がりやへこみは、津波となって周囲に伝わっていきます。この時、海面から海底に至る全ての海水が移動しています。このような波は波長(波の山から山、または谷から谷の長さ)が数十kmから数百kmもあります。また周期(一つの波の山が来て、次の波の山が来るまでの時間)も数分から数十分と長くなります。
津波の移動速度は水深によって変わります。深いところほど速く、浅いところほどゆっくり進むのです。海溝付近の例えば水深5000mで発生した津波は旅客機並みの速度ですが、陸に向かって浅い方へ進んでいくと、次第に遅くなります。港の直前では、原動機付自転車や短距離走選手くらいの速度です。
先を走る波が遅くなっていくと、後続の波が追いついてきます。すると、どんどん押し上げられるようにして波は高くなっていきます。こうして最初は数cmしかなかったのが、港に近づくと数mになったりするのです。
津波が陸上に到達すると、周期が長いので数分から数十分も海水は押し寄せ続けます。見た目にはもはや波というより「流れ」でしょう。海面から海底までの海水全部が動いていますから、その水の量と勢いは膨大です。そして時には内陸へ何kmも広がるのです。
一方で普通の波浪は風によって起こされます。お風呂で水面に息を吹きかけた時にできるさざ波と同じです。この場合は表面の水だけが動いています。波浪の波長は数mから数百mと短く、周期も長くて数十秒です。たとえ何mという高さの波が港に打ち寄せたとしても、すぐに引いてしまうため、広域な被害をもたらすことはありません。また表面の水だけなので、勢いも弱いと言えます。
さて東北沖地震では、どんな津波が起きたのでしょう。岩手県釜石沖約76km、水深約1600mに設置されていた津波計の記録からは、非常に特徴的な波形が得られています。
地震発生後しばらくして到達した津波は、ゆっくりと大きくなって5分後くらいには2m近くの高さに達しました。水深1600mで2mですから、これだけでも驚きます。チリ地震の時には数cmだったことを思いだしてください。しかも、これが4分くらい続いた後、急激に3mほども高さを増したのです。合計すれば5mです。しかし、この状態は長く続かず2分弱で2mくらいに戻り、また2、3分でさらに低くなっていきました。
つまり東北沖地震の津波は2段階でやってきました。高さ2mくらいのゆったりした波と、高さ3mくらいの鋭い波という二つの「成分」があったためです。前者は波長の長い長周期の波、後者は波長の短い短周期の波とも言えます。二つの波が合わさって、一時的には5mに達しました。それぞれの波は、どのように生じたのでしょうか。
あくまでもたとえ話ですが、お風呂の縁に腰かけて足を蹴り上げたとします。すると初めは膝から脛あたりに押し上げられて、水面は大きく、ゆったりと盛り上がります。そして最後に足先を跳ね上げると、小さな水柱が立つのではないでしょうか。東北沖地震の津波も、初めは幅200kmという広大な震源域全体が持ち上がることで長周期の成分が生まれ、次に海溝軸付近の狭い範囲が急激に大きく動くことで短周期の成分が生じたと考えられています。
長周期と短周期、それぞれの津波は、陸へ到達した時のふるまいに共通点と異なる点があります。水深が浅くなると高くなるのは、どちらも同じす。また直線的で平らな海岸より、入江や湾の多い複雑な海岸で、より高くなるところも同じです。これは例えばV字型をした湾に波が押し寄せたところを想像していただければ、直感的にわかるかと思います。次第に狭くなっていく地形の中心に水が集まってきて、勢いも増すため高くなるわけです。
ただ同じV字型の湾に長周期の波と短周期の波が押し寄せた場合、短周期の波のほうがさらに高くなる傾向があります。これは直感的にはわかりにくいのですが、湾の中の水が一回、揺れるのにかかる時間(固有周期)に関係しています。
例えば水を張った洗面器を横からたたくと中の水が揺れます。そのたたきかたによっては、水が洗面器の中を行ったり来たりして、なかなか揺れがおさまりません。その行ったり来たりの時間が、洗面器の固有周期です。湾にも大きさによって、それぞれの固有周期があり、その周期に近い津波が入ってくると、一種の共鳴を起こして波が高くなってしまうのです。
宮城県の仙台平野は、直線的で平らな海岸です。東北沖地震での浸水範囲は、青森県から千葉県までの合計で約560平方kmですが、このうち宮城県だけで約330平方km、さらにそのうちの仙台平野を含む市町(石巻市、東松島市、多賀城市、仙台市、岩沼市、亘理町、山元町)だけで約280平方kmでした。つまり浸水域の半分が仙台平野だったわけです。
このような広域の被害をもたらしたのは、主に長周期の津波だったと考えられます。短周期の非常に高い津波は来なかったか、来ても数分で引いていったでしょう。しかし長周期の波は10分以上も押し寄せ続け、5km以上も内陸に広がりました。
一方、岩手県から宮城県北部の三陸沿岸では、過去の経験から比較的、高い堤防を築いていました。中には「万里の長城」とも呼ばれた10mの堤防もありました。長周期の津波だけだったら、おそらくこの堤防を越えることはできなかったでしょう。しかし短周期の津波は楽々とこれを乗り越え、壊滅的な被害をもたらしてしまいました。
明治三陸地震は、東北沖地震と同じプレート境界型地震でしたが、地下深くでは断層が比較的ゆっくりすべったらしく、あまり大きな揺れは発生しませんでした。しかし海溝軸付近では、なぜか大きく海底が動いたようです。それで短周期の高い津波が発生し、三陸沿岸に大きな被害をもたらしました。しかし長周期の津波はなかったため、仙台平野の被害は限定的だったのです。
東北沖地震では短周期と長周期、両方の津波がいっぺんに来てしまったため、三陸でも仙台平野でも、大きな被害が出てしまったと考えられます。
三陸で15mの堤防を築いていた村が被害を免れたこともあり、東北沖地震後は各地で10m以上に堤防をかさ上げする動きが相次ぎました。しかし景観を損ねるなどの問題もあり、今でも是非の議論は続いています。
ところで今井さんが現在、研究を進めているのは、津波が陸上に上がった後のことです。「東北沖地震の津波の被害ですごく特徴的だったのは、インフラ被害というのは、もちろんそうなんですけど、瓦礫と津波火災だと思うんですよね」と今井さんは言います。
大量の瓦礫が押し流されていく様子は、確かに何度もテレビで見ました。しかし火災となると私の記憶には、あまりはっきりと残っていません。むしろ阪神淡路大震災の時の、街が真っ赤に燃えている映像を思い浮かべてしまいます。6000人以上の死者を出した阪神淡路でしたが、このうち12.8%が焼死でした。
とはいえ東日本大震災でも火事は決して少なくありませんでした。とくに三陸では多かったようです。約2万2000人という死者・行方不明者の92.4%は津波による溺死でしたが、焼死も1.1%を占めています。つまり200人以上が火事で亡くなったわけで、無視できる数字ではありません。
「これまでの津波でも、火災は度々発生していました。例えば1993年の北海道南西沖地震(M7.8)による津波です。2011年の東北沖地震ではその影響範囲が広域であったことから、津波火災も各地で発生しました。火災の主な原因は何かを考えた時に、やっぱり第一は木造家屋などの木質瓦礫なんですね。これが燃え種(もえくさ)となる。それに引火性のLPガスや灯油、重油などがうまく混合すると、すごく火がつきやすくなります」と今井さんは言います。「もう一つのポイントは、海水ってことなんですね。洪水で火災があったという話は、あまり聞きません。でも高潮とか津波だと火災が起きるんです。この一つの原因は、たぶん海水の電気伝導率でしょう。これは火種の話だと思いますけど、漏電しやすくて火がつくんです」
電気伝導率は電流を流す能力のことで、単位については省略しますが、河川水では30〜400μS/cm、海水では2万〜5万μS/cmですから、圧倒的に海水のほうが高いと言えます。
この記事の冒頭に掲げた明治三陸地震の錦絵でも火災が発生しています。実は、この絵は横長のパノラマで、左半分には近海から沖の様子が描かれています。そこでは電信柱が流されており、千切れた電線が宙に躍っています。火災の原因は漏電なのかもしれません。あえてこのように描かれているのは、明治のころから津波に火災はつきものだったのでしょう。
このような火災を防ぐために、まず今井さんが取り組んでいるのは「燃え種」となる瓦礫が津波でどれくらい発生し、どこに溜まるかの予測です。スーパーコンピューターなどでシミュレーションはできるかもしれませんが、今は簡単な数学モデルで解けないかを検討しています。簡単とはいっても数字の苦手な私にはちんぷんかんぷんですが、その中に集落の形や密度、そして津波がどこまで入ったかといった情報を入れて計算するのです。
岩手県の山田町、大槌町、大船渡市を対象として、実際に航空測量で得られた瓦礫の分布と、計算による瓦礫の分布予測とを比べたところ、おおむね合っていることがわかりました。今後は、こうしたモデルの精度を上げて、火災の予測にもつなげていきたいと今井さんは考えています。
『遠野物語』を出版してから10年後、柳田國男は仙台から八戸まで、三陸沿岸を徒歩で旅しました。その紀行文は新聞に連載され、後に『雪国の春』(1928年)に収録されました。同書には「二十五箇年後」と題した一文があります。明治三陸地震から25年後という意味です。宮城県の気仙沼湾に面した「宿」という集落を訪れ、40戸足らずだった家が津波で1戸しか残らなかったというような話をした後、柳田は次の一節を書いています。
「智慧のある人は臆病になってしまったという。もとの屋敷を見捨てて高みへ上った者は、それゆえにもうよほど以前から後悔をしている。これに反してつとに経験を忘れ、またはそれよりも食うが大事だと、ずんずん浜辺近く出た者は、漁業にも商売にも大きな便宜を得ている」
『遠野物語』の福二も、妻と子供を失ったにもかかわらず、自分の屋敷があった浜へ戻ってきました。その子孫も、やはり津波の被害にあいましたが、同じ町で暮らし続けています。様々な事情はあるでしょうが、人と土地との結びつきには強いものがあるようです。火災の防止も含めて、津波の跡に戻ってきた人々が、速やかに生活を立て直せるような対策が求められているのではないでしょうか。(次回に続く)
藤崎慎吾(ふじさき・しんご)
1962年、東京都生まれ。米メリーランド大学海洋・河口部環境科学専攻修士課程修了。科学雑誌の編集者や記者、映像ソフトのプロデューサーなどを経て、99年『クリスタルサイレンス』(朝日ソノラマ)でデビュー。同書は早川書房「ベストSF1999」国内篇第1位となる。現在はフリーランスの立場で、小説のほか科学関係の記事やノンフィクションなどを執筆している。近著に《深海大戦 Abyssal Wars》シリーズ(KADOKAWA)、『風待町医院 異星人科』(光文社)、『我々は生命を創れるのか』(講談社ブルーバックス)など。ノンフィクションには他に『深海のパイロット』、『辺境生物探訪記』(いずれも共著、光文社)などがある。