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地震地震
2020年10月19日
取材・文/藤崎慎吾(作家・サイエンスライター)
岩手県釜石市、宮城県亘理町、福島県浪江町――東日本大震災の被災地3ヵ所を、私は2011年4月から今日までの間に2回ずつ訪れています。ぐにゃりと曲がった電柱、旅館の屋根に転がったミニバン、土台だけが残る住宅街......地震と津波にみまわれて間もないころの、すさまじい光景は、今でも網膜に焼きついたままです。
でも何年かが過ぎて同じ場所に立ち、人けのない茫漠とした風景を眺めた時のやるせない気持は、それ以上に忘れることができません。そうした体験を、小説などに反映させてはきました。
一方で私は、あの地震や津波が何だったのか、どうして「想定外」と言われたのか、深く調べようとはしてきませんでした。今回、この連載記事を書く機会が与えられたのは「やり残していることを終わらせなさい」というメッセージのような気もします。
震災を引き起こした東北地方太平洋沖地震(以下、東北沖地震)は、それを予測できなかった研究者たちにも大きな驚きと自信喪失をもたらしました。あれから10年、ショックから立ち直った彼らは、どこまで巨大地震の真相に迫っているでしょう。精力的に調査研究を続けてきた海洋研究開発機構(JAMSTEC)と東北大学を訪ね、その最新成果を10回にわたってレポートします。
「自分の人生で、あれだけ揺れたのは初めてでした」と、JAMSTEC海域地震火山部門部門長の小平秀一さんは振り返ります。東北沖地震の発生は、2011年3月11日(金)14時46分ごろ――その時、小平さんは東京にある文部科学省の高層ビルにいて、予定している研究航海の打ち合わせをしていました。都心は震度5強。まるで船に乗っているような、ゆっくりとした揺れでした。
かなり大きな地震だったので、最初は南海トラフで起きたのだろうと小平さんは考えました。「トラフ」は「舟状海盆」とも訳されます。東海地方から紀伊半島、四国の沖合海底に走る、延長約700kmの細長い溝です。そこでは150年に1度、大きな地震が起きると言われています。前回が約70年前(昭和東南海地震と昭和南海地震)だったので「周期的に少し早いけれど、来てしまったんだ」と小平さんは思いました。
しかし、それはまちがっていました。
小平秀一(こだいら・しゅういち)
1963年、長野県生まれ。専門は海域地球物理学。北海道大学理学研究科地球物理学専攻で博士(理学)。2019年より現職。海域地球物理観測によりプレート境界での地震、火山などプレート変動現象とそれらに起因するハザードに関する研究を進めている。一連の研究業績により2014年米国地球物理学会フェロー、2017年BenoGutenberg Lectureを受賞。学生時代より様々な国の研究船による調査航海に参加してきたが、ここ数年、立場上、観測参加機会が減っている。なんとか一年一航海を目指したいと思っている。
提供/小平秀一 氏
同じ日の同時刻、東北大学大学院理学研究科教授の松澤暢さんは、宮城県仙台市にある大学の研究室で普段通りに仕事をしていました。キャンパスがある地域は震度6弱。後ろの棚に置かれた本や書類が、滝のように崩れ落ちてきました。幸い怪我はありませんでした。1978年に起きた宮城県沖地震の再来が心配されていたので、松澤さんは同じようなマグニチュード*(M)7クラスの地震が、宮城県沖で起きたのだと最初は考えました。
*「マグニチュード」という単位には、いくつか種類があり、それによって値も多少異なる。本連載記事ではとくに断らない限り、研究者によく使われる「モーメントマグニチュード」を採用する。
しかし、それも正しくはありませんでした。2度、3度と揺れが続く中で「これは普通の宮城沖じゃないな」と松澤さんは思い始めました。
松澤暢(まつざわ・とおる)
1958年、新潟県生まれ。東北大学大学院博士課程修了。東北大学理学部助手、東京大学地震研究所助教授などを経て、2008年、東北大学大学院理学研究科教授、現在に至る。地震発生に至る過程についての研究をライフワークとして進めている。現在、地震調査研究推進本部地震調査委員会委員、地震予知連絡会副会長などを務めている。
提供/松澤暢 氏
実際の東北沖地震はM9.0。三陸沖から福島沖に至る広大な領域で起きていました。M7の震源域(断層がすべって破壊された領域)が佐渡島くらいの大きさだとすると、M8では宮城県や岩手県くらい、そしてM9だと、まさに東北地方全域くらいの大きさになります。そしてM7とM9では、地震のエネルギーが1000倍もちがいます。宮城県沖が中心ではあったものの、78年の地震とは全く別物だったのです。
M9.0というのは、日本では観測史上(20世紀以降)最大ですが、世界ではチリ地震(1960年、M9.5)、アラスカ地震(1964年、M9.2)、スマトラ島沖地震(2004年、M9.1)に次ぐ4番目です。しかし東北沖地震は他の巨大地震にはない稀有な特徴を、いくつも備えていました。それが世界中の研究者たちに驚愕と混乱をもたらし、いまだに多くの謎を突きつけているようです。
小平さんや松澤さんが最初にかんちがいしたのも、その特徴のせいでした。いったい東北沖地震の何が、それほど変わっていたのでしょう? 一言で説明するのは難しいので、ちょっと長くなりますが、おつきあいください。
地震というと私たちは、まず「揺れ」のことを思い浮かべるのではないでしょうか。でも、それは最終的な結果でしかありません。研究者が「地震」と聞けば、まず断層(地層や岩石の割れ目)の一部が破壊されて一定方向にすべり、そこから「地震波」と呼ばれる波が生じて周辺に広がり、ある場所の地面を揺らすという、一連の過程をイメージするようです。
日本は国土面積が世界の0.25%しかないのに、M6以上の地震は世界の20%を占めています。M6以上の地震が5回起きたら、そのうちの1回は日本で起きているのです。なぜそれほど我が国は地震が多いのでしょう? それは「プレートテクトニクス」と関係があります。
地球の表面は十数枚の「プレート」と呼ばれる岩板で覆われています。各プレートは厚さ数十kmから100kmくらいあります。それらの相互作用で地震や火山活動が起きているという学説が、プレートテクトニクスです。日本は「プレート収束帯」とも呼ばれており、多くのプレートが集まって相互作用している場所なので、地震や火山が多いのです。
日本列島のうち東日本は「北米プレート」、西日本は「ユーラシアプレート」と呼ばれる大陸プレートの上にあります*。その下に日本海溝や伊豆小笠原海溝から「太平洋プレート」、南海トラフや南西諸島海溝から「フィリピン海プレート」と呼ばれる海洋プレートが沈みこんでいます。
* 最近は、プレートはもっと細かく分割されており、東日本は「オホーツクプレート」、西日本は「アムールプレート」に属しているという学説が支持を集めつつある。
一般に大陸プレートより海洋プレートのほうが重たいので、両者がぶつかると海洋プレートが沈みこむのです。このような場所を「沈みこみ帯」と呼びます。沈みこみ帯は日本周辺ばかりでなく、世界のあちこちにあります。
カムチャッカ半島からアラスカにかけても、北米プレートの下に太平洋プレートが沈みこんでいます。また太平洋を隔てた反対側、南米チリの沖では「南米プレート」という大陸プレートの下に、「ナスカプレート」という海洋プレートが沈みこんでいます。インドネシア・スマトラ島の南西沿岸では、ユーラシアプレートの下に「オーストラリアプレート」という海洋プレートが沈みこんでいます。
ただ沈みこみ帯は、どこでも同じというわけではありません。隣り合った日本海溝と南海トラフでも大きく異なります。日本海溝に沈みこんでいる海洋プレートは古くて冷たい一方、南海トラフに沈みこんでいる海洋プレートは新しくて温かいのです。
一般に海洋プレートは「中央海嶺」と呼ばれる海底の大山脈で誕生し、髪の毛や爪が伸びる程度の速度でゆっくりと移動していきます。その移動時間が長い(1〜2億年)と海水に冷やされてずっしり重たくなり、短い(1000〜2000万年)とあまり重くなりません。やがて大陸プレートにぶつかると、地球の内部へ沈みこんでいくわけですが、その角度がちがってきます。
古い海洋プレートは、自分の重さで急角度に折れ曲がりながら沈んでいきます。テーブルクロスをテーブルの端からあまり長く垂らすと、勝手に滑り落ちてしまうのに似ています。プレートが動くメカニズムは他にも考えられますが、日本海溝では「テーブルクロス効果」が大きいようです。そのような沈みこみ帯では、大陸プレートと海洋プレートの間の固着(くっつき具合)は、あまり強くないと考えられていました。
一方で新しい海洋プレートは大陸プレートにぶつかっても、まだ軽いために、なかなかスムーズには沈みこめません。折れ曲がりの角度が浅く、テーブルクロス効果以外のメカニズムによって無理やり押しこまれはするのですが、大陸プレートとべったりくっついた状態になっていると予想されます。南海トラフのような沈みこみ帯では、このような意味で固着が強いと考えられているのです。
大陸プレートと海洋プレートの境界は、巨大な断層とみなすことができます。そして一般に大きな地震は、固着の強い断層で起きやすいとされてきました。固着が弱い断層は小さな地震をいくつも起こしはしますが、基本的にいつもずるずる滑っているだけだと思われていたのです。
四角いレンガを二つ重ねて、手でずらすことを考えてみてください。ただ重ねただけなら、多少ごりごりした震動は伝わってくるでしょうが、そのまま滑っていくでしょう。しかし重ねて押しつけながらずらそうとすると、容易には動きません。だんだん力を加えていくうちに、突然、勢いよく滑るのではないでしょうか。これがプレート境界で起きる巨大地震に当たります。
このような考えは研究者たちの間で広く信じられており、それこそ教科書にも載っているくらいでした。実際に2010年までの時点では、知られているM9クラスの地震全てが、おおむね1億年より若い海洋プレートの沈みこむ場所――つまり固着が強いと思われる場所で起きていたのです。また、そのような場所では普段、ほとんど地震が起きていない一方、固着の弱い沈みこみ帯では、小さな地震がしょっちゅう起きているという観測事実もありました。これが予断を生んだのです。
残念ながら東北沖地震が起きたのは、固着が弱いとされていた日本海溝のプレート境界でした。震源の深さは24km、震源域は長さ約500km、幅約200kmと広大で、海溝のすぐ近くでは50m以上も海底がすべっていました。そして巨大津波が発生し、2万人以上の犠牲者が出たのです。
2011年3月11日のその時、小平さんがまず南海トラフでの地震を疑ったのは、周期の問題もありますが、そこが固着の強いとされている沈みこみ帯だからでした。
そして松澤さんが当初、地震の規模を過小評価したのは、固着の弱い日本海溝でM9の地震が起きるなど、夢にも思っていなかったからです。後から事実を知った松澤さんは「我々の常識がくつがえったと思って、その時はもう(頭の中が)がらがらと崩れ落ちるような衝撃を受けました」と語っていました。おそらく世界中の研究者が同じ気持だったことでしょう。
ただ、これには無理もない面があります。M9クラスの地震が起きるのは、数百年から1000年に1度くらいです。これに対して近代的な地震の観測データは100年分くらいしかありません。そして1900年以降に世界でM9以上の地震が起きたのは、東北沖地震を入れてもたったの5回です。これで傾向を語るのは、本来、難しいのではないでしょうか。
ただ固着に関する定説が「あまりに理にかなっていて納得しやすかったため、頭から信じこんでいた」と松澤さんは振り返ります。一方で定説とは言っても、巨大地震が固着の弱い場所では「起きにくい」としているだけで、そこで「起きない」と断言してはいませんでした。さらに後から考えてみれば、東北沖地震が起きる前にも、その「定説」を否定するような事実や議論が出始めているところではあったのです。それを語る松澤さんは、いかにも悔しげでした。
東北沖地震が世界中の研究者を驚かせた理由は、他にもあります。それは次回以降に触れていくことになるでしょう。また東北沖地震が、なぜ定説を裏切って発生したかについても、これから取材を進めていくつもりです。
その前に、東北沖地震の発生後、JAMSTECや東北大学がどのような調査や研究を行ってきたか、概略を振り返っておきましょう。
東北沖地震が発生した3月11日、JAMSTECの深海調査研究船「かいれい」は、小笠原諸島の父島近海にいました。しばらく前に、そこで比較的大きな地震が起きていたからです。その時に動いた断層を調べていました。しかし「全てのJAMSTEC船舶は横須賀に戻れ」という指令が出たため調査を中断し、翌日には帰途につきました。
3月14日、「かいれい」は横須賀に到着しました。しかし同日、東北沖地震の緊急調査をするため、すぐに東北へ向けて出航しました。普通、調査航海に出るときは、必要な機材を用意して積みこむなど、事前の準備に1週間から10日ほどかかります。ですが、たまたまこの時は小笠原で地震や断層に関する調査をしていたため、全ての人材と機材が船上に揃っていたのです。
とはいえ福島第一原子力発電所で事故が起きていたため、すんなり出航を決めたわけではないようです。議論の末「福島と東京が離れているくらいの距離を遠まわりして行けばよいだろう」という判断で「かいれい」は東北に向かいました。
3月15日には銚子沖で、16日からは東北沖で、「かいれい」はさっそく海底地震計(OBS)の設置を始めました。直径50cmくらいの耐圧ガラス球に、センサーや記録器、時計、電池などを納めてあるのがOBSです。これを船から海底に沈め、一定期間(2週間〜3カ月)地震を記録させるのです。回収する時は超音波で信号を送り、自動的に浮上させます。
3月22日からは反射法地震探査(MCS)も始めました。これは海底下のレントゲン写真、あるいはCT(コンピュータ断層撮影)を撮るようなシステムです。レントゲンやCTではX線を使いますが、MCSでは海面近くで発した大きな音(衝撃波)を使います。これが海底下に入ると、地層の境界や断層ではね返ってきます。その「反射波」をとらえて、断層がどこにあり、どういう形をしているかを浮き上がらせていくのです。
この時、衝撃波を出すエアガンという装置と、反射波をとらえるストリーマーケーブル(水中マイクを内蔵した3000〜6000mのケーブル)を、船の後ろに引いていきます。しかし地震直後は、津波で陸上からさらわれた無数の漂流物が海面を覆っていました。一軒の家らしきものさえ漂っていたといいます。そうした漂流物とぶつからないようにするのはもちろん、データが影響を受けないように、いつもより装置を深く沈めるなどの工夫が必要でした。
一方、海底地震計の設置や反射法地震探査と並行して、海底の地形も記録していきました。これにはマルチビーム音響測深機(ソーナー)が使われます。基本的には魚群探知機と同じで、船の底から音波を発し、それが海底からはね返ってくるまでの時間で深さを計測するのです。ただマルチビーム測深では複数の音波を左右に発射し、扇状に広げながら船を航行させます。これによって海底地形を帯状に、隙間なくとらえることができます。
地震の直後にも、津波や地震の記録から、日本海溝付近で50mくらい海底がすべった可能性があると指摘はされていました。ですが、あくまでも陸上や海岸で得られたデータからの推定なので、200km離れた沖合の出来事については不確実です。そこで「かいれい」による調査が役立ちました。
実は東北沖地震が起きる前にも、「かいれい」は東北沖で反射法地震探査や海底地形の調査を行っていました。したがって地震後に同じ場所で同じ調査をすれば、両方の結果を比べることで海底がどれだけ動いたかがわかりそうです。それが緊急調査を行う目的の一つでした。
そして簡単ではありませんでしたが、目論見通り、海溝付近が50m以上も動いていることを確認できたのです。小平さんはそれを知って「地球上でほんとうにこんなことが起きるんだ、というくらい衝撃を受けた」と語っていました。
一方で東北大学もまた東北沖地震の前から海底の動きを観測する装置を沖合に設置しており、陸上で得られたデータと合わせて、やはり30m以上動いたことを確認しています。こうした成果については、次回で詳しくお伝えします。
海底地震計の設置や回収は「かいれい」による緊急調査の後も、継続して広範囲に行われました。深海潜水調査船支援母船「よこすか」や海洋調査船「かいよう」(2016年退役)といった船も使われました。目的の一つは余震を観測するためです。
すると東北沖地震の前と後とで、小さい地震の起きかたが全く変わってしまったのが見えてきました。また「アウターライズ」と呼ばれる、海溝より沖側の盛り上がった場所でも、地震が活発化しているとわかりました。こうした成果についても、次回以降で詳しくお伝えします。
東北沖地震発生から1年余りの間に行われた調査で、おそらく最も大がかりだったのが地球深部探査船「ちきゅう」による震源域の掘削でしょう。「ちきゅう」による調査活動は「国際深海科学掘削計画」という国際的なプログラムによって実施されているため、通常は何年も前から計画し、厳しい審査を経て承認されなければなりません。でも、この時は特例で審査を早め、緊急掘削を行ったのです。
なぜ急いだかというと、滑ったプレート境界の断層から岩石のサンプルを採取するとともに、その場所の温度を測りたかったからです。地震で断層がすべると摩擦熱が生じます。その温度は、断層の摩擦力が大きい(すべりにくい)場合には高く、摩擦力が小さい(すべりやすい)場合には低いと予想できます。つまり摩擦熱の余熱を計測すれば、地震時に断層がどれだけすべりやすかったを推定できるのです。ただ時間が経って断層が冷えれば冷えるほど、その推定は難しくなっていきます。
後で温度計を回収する無人探査機「かいこう7000II」の性能や、技術的な制約などにより、この時は「海面から海底までが7000m以内、海底から断層までが1000m以内」でなければ掘削できないという厳しい条件がありました。小平さんらは何とかその条件に見合う場所を探しだして、無事にサンプル採取と温度計測を成功させました。その結果、断層は非常にすべりやすかったことがわかりました。これも詳細については次回以降になります。
最初の1年余りが過ぎて以降も、今日に至るまでJAMSTECと東北大学は連携しながら、東北沖の調査と研究を続けてきました。反射法地震探査や海底地形の調査をした場所も増えました。「ピストンコア」と呼ばれる長い筒のような装置で、海底の堆積物もあちこちで採取しました。コンピュータによる津波のシミュレーションもくり返されています。そのおかげで、どんどん新たな事実が浮かび上がってきました。
研究者たちの「思いこみ」を容赦なく打ち砕いた自然の秘密が、今また少しずつ解き明かされようとしているのです。(次回に続く)
藤崎慎吾(ふじさき・しんご)
1962年、東京都生まれ。米メリーランド大学海洋・河口部環境科学専攻修士課程修了。科学雑誌の編集者や記者、映像ソフトのプロデューサーなどを経て、99年『クリスタルサイレンス』(朝日ソノラマ)でデビュー。同書は早川書房「ベストSF1999」国内篇第1位となる。現在はフリーランスの立場で、小説のほか科学関係の記事やノンフィクションなどを執筆している。近著に《深海大戦 Abyssal Wars》シリーズ(KADOKAWA)、『風待町医院 異星人科』(光文社)、『我々は生命を創れるのか』(講談社ブルーバックス)など。ノンフィクションには他に『深海のパイロット』、『辺境生物探訪記』(いずれも共著、光文社)などがある。