北前船
隠岐は江戸時代の半ばから明治30年頃まで、北前船の寄港地として栄えました。北前船とは、大阪を出て西回りで瀬戸内から日本海を航行し、寄港する港々で商品を売り買いしながら北海道まで往復していた船の呼び名です。
北前船が隠岐へ頻繁に寄港するようになったのは、18世紀の中頃に大阪で繊維技術が発達し、1785年に丈夫な帆が開発されてからです。それまでは、帆が弱く、強い風に耐えられなかったため、日本列島の海岸沿いを小刻みに帆走することしかできませんでした。
このため、年間に大阪と北海道を1往復しか出来ませんでしたが、丈夫な帆を使用するようになってからは、下関-隠岐-佐渡という沖乗りルートとなり、風待ちや物資の補給基地として隠岐島内の各港が利用され、年間2往復が可能となりました。多い年では、年間4500隻の船が隠岐の各港に停泊し賑わいました。
また、北前船は売り買いをする商品だけではなく、全国各地の民謡も隠岐へ運んできました。「隠岐は民謡の宝庫」とも言われていますが、中でも新潟県柏崎の盆歌が元歌となっている「隠岐しげさ節」や、荷物の積み下ろしの時に歌われたといわれる「どっさり節」は隠岐民謡の代表格として現在も歌い継がれています。
北前船の寄港地として栄えた当時の隠岐は、情報も物も集まる先進地のひとつとなっていました。明治時代に隠岐を訪れた文人(ラフカディオ・ハーン)は西郷の食堂で洋食が出せると言われて驚いたエピソードを紀行文に綴っています。