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戦国の世を波乱万丈に生きた明智光秀とは
新着情報
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日本の歴史上最大の下克上といわれる「本能寺の変」で、主君の織田信長を討ったとされている明智光秀。その波乱に満ちた生涯の多くは、いまだ謎に包まれています。武人、知将としてだけではなく、領民に慕われた統治者として、また、教養に長けた文化人として戦国の世を生きた光秀の軌跡を辿りながら、その魅力をご紹介します。
5年に及ぶ攻略戦を制し、丹波平定を成し遂げた明智光秀。信長から『天下の面目をほどこし候』と絶賛され、織田家家臣のトップに躍り出ることになります。
拠点となった亀山城を始め、ゆかりの名所・旧跡を巡ることで、亀山攻略の足跡と丹波平定の地盤固め、優れた軍功を垣間見ることができます。
丹波亀山城跡
日本の歴史史上最も有名な事変「本能寺の変」。なぜ明智光秀は織田信長を討たねばならなかったのか。謀反か、それとも誠実さゆえの行為だったのか、その真相のほどは明らかではありません。また、光秀は事前に信長を討つことを伝えた際に、家来が逃げ出した場合はその家来を討つように伝えていましたが、誰一人として本能寺に向かう陣から離れようとはしなかったといわれています。
谷性寺 光秀公首塚
領民に愛され、名君として称えられた明智光秀。人心を掌握した抜擢人事、秩序や規律に基づいた管理術、亀岡の街並みの基礎を築いた都市計画など、現代に通じるものもあるかもしれません。
丹州亀山城図(四国中央市教育委員会所蔵)
武将であり統治者でもある光秀は、「教養人」としても知られています。心優しき武人としての隠れたエピソード、さらに父と同じく波瀾の生涯を送ることとなった娘の「細川ガラシャ」など、光秀と関わりの深い人物についてご紹介します。
谷性寺 光秀公首塚
明智光秀の出生や家系については数々の説があり、織田信長に仕えるまでの半生は謎に包まれています。そんな光秀の半生を支え、共に歩んだ正室、煕子。光秀は煕子が存命中は側室を置くことなく、仲睦まじく夫婦生活を送ったと言われています。
明智光秀画像愛宕神社(本徳寺蔵・大阪府岸和田市)