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Feature01大仏の全て

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東大寺大仏 -盧舎那仏とは-

聖武天皇は、災害や政変、反乱などが相次ぐ当時の社会不安を、仏法の力によって解消しようと(鎮護国家思想)、全国に国分寺の創建を推進する一方、大仏造立を発願。 東大寺の本尊として世界最大の金銅仏、盧舎那仏(るしゃなぶつ)の造営が始まり、天平勝宝4年(752年)に開眼法会が盛大に行われました。

◇ 盧舎那(ルシャナ)・毘盧遮那(ビルシャナ)=いずれもサンスクリット語のヴァイローチャナの音訳で、光明があまねく照らすという意味の「光明遍照」と漢訳される、華厳経の教主です。平安時代の密教で宇宙の根本仏とされる大日如来は、ビルシャナ仏から展開した仏です。

◇ 大仏さまと大仏殿の造立には当時人口の約半分、のべ260万人もの人々が協力しました。

東大寺の大仏

奈良の大仏、その大きさ

大仏の頭3.2m、体15m、台座3m
座高 1,498cm
顔の長さ 413cm
顔の幅 320cm
目の長さ 102cm
鼻の幅 98cm
鼻の高さ 50cm
口の長さ 133cm
耳の長さ 254cm
手のひらの長さ 148cm
中指の長さ 108cm

足長(左足)

374cm
ひざの厚さ 223cm
銅座の高さ 304cm
石座の高さ 252cm〜258cm

仏教伝来 -どのようにして仏教が伝わったか-

仏教は、紀元前6世紀(紀元前5世紀説も有)に、インド、ネパール国境付近のシャカ(釈迦)族の王子として生まれた釈尊の教えです。 釈尊は青年時代に、人の生・老・病・死などの苦悩に深い思いをいたし出家。 約6年間にわたる苦行や瞑想により、仏陀(覚者)となられ、 悟りの内容や、だれもが覚者となれる可能性があることなど、その教えを広めました。 日本ではまだ縄文時代で、竪穴式住居に住み、狩りや植物などの採集などで生活していました。 その後、ガンダーラやバーミヤンからシルクロードの長い旅をして、

552年(538年という説もある)に百済から日本に伝わったとされています。

  • ◇ 釈迦(しゃか)族=ヒマラヤ山麓の小国、ネパール南西部に部族国家を形成した。釈尊の生誕地はルンビニ
  • ◇ 釈尊(しゃくそん)=釈迦牟尼世尊の略(釈迦族の聖者)、本名はゴータマ・シッダールタ
  • ◇ 仏陀(ぶっだ)=仏、真理を悟った者
  • ◇ 入滅(にゅうめつ)=涅槃に入る、仏陀の死
  • ◇ 涅槃(ねはん)=煩悩(人の心身をわずらわし悩ませる迷いの心)を断じて絶対自由となる
  • ◇ 煩悩(ぼんのう)=人の心身をわずらわし悩ませる迷いの心
  • ◇ ガンダーラ=現在のパキスタンの一地方
  • ◇ バーミヤン=現在のアフガニスタンの一地方
  • ◇ 百済(くだら)=現在の朝鮮半島中西部

国分寺創建の詔 -なぜ東大寺を建てたか-

大仏のイラスト
東大寺周辺の地図

仏教伝来後、聖徳太子などが仏教を広めました。その後、藤原京から平城京に都が移ってからまもなく、政変や皇族同士の争い、疫病(えきびょう)、自然災害が多発しました。 天平十三年(741)に聖武天皇は国分寺創建の詔(みことのり)を発し、国ごとに仏像を造り、七重の塔を建て、仏法の力によって国を救おうと考えました。

◇ 国分寺創建の詔=国ごと(当時62の国にわけられていた)に鎮護国家のためのお寺を建てる、国分寺と共に国分尼寺も創建

ストゥーパから仏像 -なぜ大仏を造ったか-

ストゥーパのイラスト
仏像は釈尊の死後、約500年たってから始めてつくられたものです。当初、アショーカ王が釈尊の遺骨(舎利)を納めた塔、卒塔婆(ストゥーパ)などを礼拝の対象とし広めました。やがて、釈尊を人間像としてではなく、聖樹(菩提樹)・聖壇(台座)などで象徴し、礼拝するようになりました。 その後、アレクサンダー大王の東方遠征の際、ヘレニズム文化の影響により人間像の仏陀(仏像)が生まれたと言われます。
大仏のイラスト
紀元後1〜2世紀にガンダーラやマトゥラー(インド)ではじめて仏像が誕生し、シルクロードを経て日本に仏教と共に伝わりました。
大仏のイラスト全身
東大寺の大仏は、中国洛陽の龍門奉先寺の大毘盧舎那仏をモデルにしたといわれ、鎮護国家仏教の拠点である東大寺にふさわしい本尊として造立されました。
奉先寺の大仏(中国・洛陽の龍門石窟)
  • ◇ アレクサンダー大王=ギリシャの大王、西北インド遠征時にヘレニズム文化を伝える
  • ◇ ヘレニズム文化=ギリシャとオリエントの文化が影響しあいうまれた文化
  • ◇ マトゥラー=現在のインド中部
  • ◇ 龍門(りゅうもん)=北魏時代の494年頃から唐代まで石窟が開かれ、 約9万体の仏像があると言われる
  • ◇ 奉先寺(ほうせんじ)=唐の則天武后の時代(675年頃)に造立された大仏が有名

大仏開眼供養会から現在-その後の大仏-

天平勝宝4年(752年)、大仏さまの目に筆で瞳を描いて魂を迎え入れる儀式-「大仏開眼供養会」-が行われました。 開眼の導師を勤めたのはインドの僧侶、波羅門僧正・菩提僊那(ぼだいせんな)です。 また、中国や朝鮮をはじめ諸外国の珍しい音楽や舞踊などが披露され、当時の東アジアの中では最大級の国際イベントとなりました。東大寺は鎮護国家の役目とともに、仏教の教理を広く研究することが求められていました。華厳、法相、三論などの6宗(南都六宗)を研究する組織が整えられ、六宗兼学の寺として、今で言うところの国立総合大学の機能を持っていました。 その中で最も重んじられたのが華厳宗で、本尊として華厳の盧舎那仏がまつられました。 しかし、斉衡2年(855年)に大地震により仏頭が落下。また、源氏と平氏の戦いのなか、治承4年(1180年)には平重衡の南都焼き討ちにより、大仏殿などが焼失しました。まもなく大仏は修復、大仏殿も再建されましたが、戦国時代の永録10年(1567年)、再び戦火により大仏殿は焼失、大仏も被災してしまいます。雨ざらしとなっていた大仏は修理され、元禄5年(1692年)に開眼供養会が、続いて宝永6年(1709年)には、大仏殿の落成を祝う「落慶供養」が行われました。 その後、明治元年(1868年)に出された神仏分離令(神道を国の宗教とし、仏教と分離する政策)により、南都の諸寺がいずれも衰えたため、大仏殿も世間から顧みられない状況となりますが、困難をおして解体修理が行われました。さらに「昭和の大修理」を経て現在に至っています。

今日の大仏さまは、奈良、鎌倉、室町、江戸の各時代の合作とも言えます。世界が平和で全てのものが栄えることを願って造立された大仏さまは、多くの人々の手で護り伝えられているのです。

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