日本人にとって天皇や皇室とはどのような存在なのだろうか。『ミカドの肖像』など、天皇に関する著作の多い作家の猪瀬直樹氏に聞いた。
東京オリンピック招致成功は
皇室の力が大きかった
猪瀬直樹(いのせ・なおき)/作家。1987年『ミカドの肖像』で第18回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。『日本国の研究』で96年度文藝春秋読者賞受賞。2012年12月、東京都知事に就任。13年12月、辞任。15年9月に、財団法人日本文明研究所所長に就任。
──猪瀬さんは『ミカドの肖像』や『天皇の影法師』など天皇に関する著作も多いです。日本人にとって、天皇や皇室はどのような存在だとみていますか。
その話をする前に、まず、海外の人から皇室がどのように思われているか、話しましょう。日本人が思っている以上に、海外の人たちは、日本の皇室に神秘性を感じています。これほどの歴史を持つ王室はほかにありませんから。
実は、2020年の東京オリンピックの招致成功の裏には、皇室の存在があったのです。また、私自身の『ミカドの肖像』を執筆したという経験も、大いに生きたのです。
──え、そうなんですか。
はい。国際オリンピック委員会(IOC)の委員には、海外の貴族が多いんですね。
名前に「サー」と付くような方や、王族と親戚だったりする方もいる。だから、日本の皇室にどれほど価値があるのかを、理解しているのです。
そこで、13年1月7日に立候補ファイルを申請してPRが解禁になると、すぐにロンドンへ行き、日本招致をアピールしたのですが、その際に配布した資料には、『ミカドの肖像』から引用した一文を英訳して記載しました。
次のステップとして、13年3月にIOCの評価委員が、東京に来ることになりました。そこで、ぜひ、皇室の方々に協力をお願いしようと考えたのです。
ところが、実を言うと、宮内庁との交渉はマイナスからのスタートでした。
「木っ端役人」発言で
五輪招致が窮地に
──それはなぜでしょうか。
東京は16年のオリンピック招致にも名乗りを上げていました。当時の石原慎太郎・東京都知事も皇室の協力を仰ぐべく、宮内庁と交渉を始めていました。
ところが、皇室がオリンピック招致に関わることに宮内庁が慎重な姿勢を見せると、しびれを切らした石原さんが宮内庁の職員に対して、「木っ端役人が、こんな大事な問題、宮内庁の見解で決めるもんじゃない」と言ってしまったんですよね。もちろん、熱意の裏返しではあるのですが、その状態を私は引き継いだのです。
──なるほど......。それは確かに、ハードルが高そうですね。
ですが、タイムリミットがあるわけです。13年3月には、IOCの評価委員が実際に訪日して、東京がふさわしいかどうかを評価しに来てしまうわけですから。
そこで、皇室の方に対応いただければ、日本の本気度が示せるはず、と考えたのです。できれば天皇陛下にお会いいただきたかったのですが、IOCの委員長ならまだしも、評価委員と天皇陛下では釣り合わないというのが、宮内庁の見解でした。
当時の宮内庁の幹部は国土交通省出身で、私が以前、道路公団民営化で激しいやりとりをした間柄でもあったので、おそらく、「猪瀬ならおかしなことは言わない」というような、暗黙の信頼もあったかもしれません。交渉の結果、皇太子さまにお時間を頂くことができました。
せっかく、お時間を頂けるのなら、より、効果的なものにしたいと考えました。
通常、東宮御所内で皇太子さまに会う場合、御所の門に入ってから皇太子さまのいらっしゃる建物までは最短ルートで向かいます。
しかし、そこをあえて御所内を建物まで遠回りしてもらうために、青山通り側の門から庭園に入ってもらうことにしました。東京の都心にこれほど緑豊かで神秘的な場所があるんだと、評価委員に感じてもらいたかったからです。
そのかいあってか、評価委員は感動して、面会後には「皇太子さまのお時間を頂くことができ、日本国民がオリンピックを切望していることが感じられた」とコメントしてくれたのです。
──そんな、裏話があったのですね......。
話はここで終わりません。候補都市のマドリードを抱えるスペイン側も盛り返してきたのです。
13年7月に、招致を目指す3都市がスイスのローザンヌでIOCに対してプレゼンテーションを行いましたが、その際、スペインからはフェリペ皇太子が登場し、スピーチをしたのです。身長2メートルで存在感があり、バルセロナオリンピックでは、セーリングの代表選手だった人物です。
フェリペ皇太子の登場で流れが一気に変わってしまった。このプレゼンの後、IOC委員たちは「情感溢れるプレゼンだった」「フェリペ皇太子がスターだった」「マドリードがベストだった」と、そろってべた褒め状態。
正式決定まで、残り2カ月で何とかしないとまずい状況になりました。
──最終的に東京に決まった9月のプレゼンでは、滝川クリステルさんの「おもてなし」発言や、安倍晋三首相などのプレゼンが印象的でした。何が有効だったのでしょうか。
報道では確かに、お二人のプレゼンが目立ちましたね。しかし、実際には最後の場面でも、皇室の力が影響しています。
招致を目指す各都市のプレゼンの際、国民の代表として高円宮妃久子さまが、IOCによる東日本大震災の支援に対する謝辞を述べられたのです。
実は、宮内庁としては、仮にマドリードに決まったとしたら、負けが決まったその場に皇室の方がいるというのは問題があると考え、難色を示していました。しかし、逆転するには、やはり皇室の力が必要。高円宮妃とは個人的な縁もあり依頼したところ、ご快諾してくださいました。
高円宮妃の流ちょうで、しかも、堂々としたフランス語と英語によるスピーチは、会場を大きく沸かせました。何しろ、IOCの総会で日本の皇室の方がスピーチをしたのは初めてのことですから。高円宮妃のスピーチで流れが完全に変わり、東京に決定したのです。
本質的な問いかけを
していない
──猪瀬さんが『ミカドの肖像』を執筆してから30年近くたった時点で、都知事という立ち位置とオリンピックを介して、皇室との新たな接点が生まれたわけですね。ここからは、日本人にとって、天皇や皇室とはどのような存在であるのかを伺いたいと思います。
ええ。単行本の『ミカドの肖像』の元となる連載が始まったのは、80年代中ごろでした。
当時、天皇や皇室について触れると、すぐに「右なのか」「左なのか」といった議論になってうんざりしましたね。単行本を出す際、年配の編集者からは「君は右翼なのか」などとも言われました。
いや、そういうことじゃないでしょう、と。結局、天皇とは何か、日本人にとってどのような存在かを知ることは、日本人自身のアイデンティティーにもつながってくるわけですよ。
しかし、残念ながら今も、皇室の話題になると「右なのか」「左なのか」という狭い視点で判断するような風潮は残っていますね。
メディアも今回の、生前退位のような問題があれば報じるけれども、日本人にとって皇室がどういう意味を持つのか、というような本質的な問い掛けは今もほとんどしていないでしょう。
皇室について
もっと知ろう
『週刊ダイヤモンド』9月17日号の第1特集は「日本人なら知っておきたい 皇室」です。
2016年8月、天皇陛下は生前退位の「お気持ち」を表明されました。陛下自ら、そうしたお気持ちを表明されたことに、多くの国民が驚いたのではないでしょうか。
表明後の大手新聞社の世論調査では、ほとんどの国民が、陛下のご意向を支持する結果となっています。
多くの日本国民が、テレビのニュースなどで、陛下が被災者の元を訪れ、膝を突いて話をされるのを見たことがあるかと思います。皇后さまと共に、そうした訪問を続ける姿は、人々の胸を打ち、その印象の蓄積が、ご意向を「ほとんどが支持」という結果に結びついたのではないかと思います。
しかし、テレビでのそうした姿は知っていても、多くの人は、陛下がどのような激務をこなされているのか、そもそも皇室とはどのような存在なのかなどは、詳しく知らないのではないでしょうか。
あるいは、皇位継承や生前退位のニュースを目にすることはあっても、本質的にどのような問題を抱えているのかや、歴史的背景、基本的な事実を知らないという方も多いのではないかと思います。
そこで、今回の特集では68ページにわたり、皇室を紹介しています。
皇室はどのような方々で構成されているのか、陛下が年間にされる激務の内容、近代の天皇が抱えた悩み、祭祀との関係など、陛下をはじめ皇室に関わること。さらには、皇室財産や、旧皇族・華族の方々の悲喜こもごも、などについても紹介。源流である神話の世界についてもわかりやすい文体で誌面を割いています。
データも多く紹介していますが、そこにとどまらず、宮中で57年も祭祀に携わった方や、昭和天皇の料理番だった方、侍従だった方などのインタビューも掲載しています。
もちろん、生前退位の議論についても解説しています。さらに、実際に歩いて回れることができる天皇陵と旧御用邸についても写真入りで紹介しています。
紹介した猪瀬直樹さんのインタビューは中盤までで、後半では、日本人にとって天皇陛下とはどのような存在なのかを語ってくださっています。
今回の特集では、雑誌が刷り上がると、編集部や社内の他の部署の人たちから「全然知らなかった」「そうだったんだね」「こんな世界があったのか」と、かなり声をかけられました。このような社内の反響は初めてです。改めて、多くの人たちは皇室に興味があるのだと感じました。
皇室に少しでも興味があれば、ぜひ、一読いただければと思います。
(『週刊ダイヤモンド』副編集長 清水量介)