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もっと奈良を楽しむ

鎌足を追いつめる入鹿の首

 その時、入鹿は叫んだ。
 「臣罪を知らず」――私になんの罪がありましょうか、と。
 しかし、訴えは聞き入れられず皇極天皇は入鹿に背を向ける。
 周りには後に天智天皇となる中大兄皇子、中臣鎌足。剣を構えた彼らの仲間。
 皇子が告発する。「入鹿は天皇に取って代わろうとしているのです」

 蘇我入鹿が最期を迎えた日は大雨が降っていたと『日本書紀』は記す。
 乙巳(いっし)の変―― 飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡)で繰り広げられた大化の改新の端緒となった出来事である。

斉明朝にまとわりつく青き影

 この「乙巳の変」をもって時代は大きく前進することになる。事件の真相には諸説あるが、その真偽はともかく、庶民はどうやら「入鹿の罪」を信じていなかったと思われる。
 入鹿が彷徨い出ているからだ。

 皇極天皇は弟の孝徳天皇の死後、いわくつきの飛鳥宮(飛鳥板蓋宮)で斉明天皇として再び即位。『書紀』はこの時に、葛城山の方から"油を塗った青い絹の笠(雨具)をかぶった唐人風の者"が空を駆ける龍に乗って現れた、という奇妙な一文を記している。
 それが不吉な兆しとなったのか飛鳥宮は火災にあい、宮を転々と移すことになる。
 青き衣の異人は斉明天皇の葬儀にも現れ、じっと視線を注いだという。
 葛城地方は蘇我氏の本貫地とされており、唐人風という特徴も大陸と結びつきの強かった蘇我氏を彷彿させる。平安末期に著された『扶桑略記』は先の一文を引用し、その正体を蘇我豊浦大臣、つまり入鹿が討たれた際に自害した父親・蝦夷の霊だと言及している。
 皇極(斉明)天皇との関わりから考えれば、異人の正体は入鹿とするのがふさわしいだろう。雨でもないのに雨具を着ているという表現も思わせぶりだ。
 入鹿の名を口にするのは憚られたが、蘇我氏の霊が斉明朝に禍をもたらした――人々がそう噂し合っていたことが想像できる。

怨念を語り継ぐ"落ち首伝承"

 平安時代を迎えるまで、「怨霊」という言葉はまだ生まれていなかった。ただ、恨みを呑んで死んだ者が霊となって現れ、憎む相手に障りをなすという考え方は広まりつつあった。
 悪しき霊となるには条件がある。故なき罪に陥れられること、すなわち冤罪による死者にのみその資格が与えられた。陥れた者の心に、汚れた手で上り詰めた権力者を見る人々の目に、禍いを成す霊が立ち現れるのだろう。
 やがて青き衣の異人は実態を伴うことになる。

 藤原鎌足を祭神とする談山神社所蔵の『多武峯縁起絵巻』には、中大兄皇子が刎ねた入鹿の首が、天皇と彼らを隔てる御簾に飛びつく様が描かれている。『日本書紀』にはそのようなダイナミックな記述はなく、まして入鹿にとどめを刺した人物は皇子ではない。
 絵巻は16世紀頃の成立と推定されているが、この頃にはすでに「宙を飛ぶ入鹿の首」は世に認知されていたと思われる。あちこちで首の出没譚が語られているのだ。

宗我坐宗我都比古神社

 蘇我一族の居館があったとされる橿原市曽我町には、入鹿の祖父・馬子が創建したと社伝にいう宗我坐宗我都比古(そがにいますそがつひこ)神社が鎮座する。入鹿の首は、この曽我町東端にある「首落橋」近くの三差路角にある家のあたりに落ちたと伝わる。それ故に家の屋号は「オッタヤ」あるいは「オッテヤ」と呼ばれたとか。
 首はさらに大和と伊勢の国境の高見山まで飛んだとの話も残す。
 曽我町の東南に面した小綱(しょうこ)町には入鹿を祭神とする 入鹿神社がある。あたりには入鹿が幼少期を過ごした家があったとか、入鹿の母が身を寄せた家があったなどと伝わる、蘇我氏とはゆかりの深い一帯だ。

談山神社

 飛鳥からは相当の距離があるが、氏子たちが入鹿の無念をそうして語り継いだのだろう。
 曽我と小綱生まれの者は多武峰 (談山神社)には決して参拝せず、縁組みもしないとされた。筋金入りの鎌足嫌いだったのだ。

入鹿の首、鎌足に牙をむく

 皇子と鎌足が入鹿討伐をたくらむ密談をしたという故事により、別名・談山(かたらいやま)と呼ばれる多武峰。落ち合った場所は談山神社の上手とされるが、ここにも入鹿の首が飛んできたと語られる。ふたりを恨む入鹿の執念の深さを表すように、首が落ちた夜は天地が大いに荒れたという。

飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡)

飛鳥寺

 やがて"飛んでいただけ"の入鹿の首は、鎌足に反撃を開始する。
飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡)の北に、馬子が建立した日本最古の寺院・飛鳥寺(安居院)が立つ。その西方、田んぼの中にぽつんとたたずむ五輪塔が「蘇我入鹿首塚」。この場所に飛んできた入鹿の首が執拗に鎌足を追い回そうとするので、供養のために建てたという。
 鎌足は首から逃れるため多武峰方面へ逃げた。細川の上流へと向かい、氣都倭既(きつわき・けつわき)神社へ至り、「茂古(もうこ)の森」へ隠れる。「ここまでくれば"もう来ぬ"だろう」。鎌足の呟きが不思議な名の由来となっている。力尽きたか、ホッと胸をなで下ろしたのか、鎌足が腰掛けたという石が境内の手水舎横に残されている。

蘇我入鹿首塚

氣都倭既(きつわき・けつわき)神社(境内の手水舎)

 どういうわけか入鹿の恨みは鎌足にのみ集中しているが、それは事件を機に後世まで繁栄を続けた藤原氏へのやっかみゆえか、さすがに天智天皇をそのような話の主役に置くのは憚られたせいなのか......。
 いずれにせよ、"語り"とは供養の機能を果たすものだ。語り、騙ることで人々は記憶を共有し、伝えていく。その行いこそが、力をもたない人々のささやかな抵抗となる。
 正史に描かれずとも、入鹿の無念が忘れ去られることはない。

文:宮家美樹
本文中の情報は平成28年6月30日時点のものです

蘇我入鹿首塚

高市郡 明日香村飛鳥

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入鹿神社

奈良県橿原市小綱町

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談山神社

桜井市多武峰319
0744-49-0001
受付時間
8:30〜16:30(最終受付)
最終拝観
17時まで

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飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡)

高市郡明日香村岡
0744-54-2001

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氣都倭既(きつわき・けつわき)神社

奈良県高市郡明日香村上172
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宗我坐宗我都比古神社

奈良県橿原市曽我町1191
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