連載:「寄るな危険☆大樹の陰は落雷注意――理科系な社会のバブル顛末記」

第3章 何はなくとも今のあなたが
――深刻な不景気編 '96〜


5.あの頃売れていたもの 今は誰が買う?

流行り廃りは、いつの世にもつきものである。十年前、電気店の店頭でイチオシされていたものが、いまは店の隅にも置かれていなかったりする。たとえば、ワードプロセッサー、自動車電話、そしてポケットベル。
1980年代なかば、携帯用液晶テレビというものが存在していたことを覚えていらっしゃるだろうか? MDだって、一般的になったのはここ数年のことである。それまではヘッドホンステレオはカセットテープ式のものが主流で、オートリバース機能がない頃は、手でカセットテープをひっくり返さなくてはならなかった。
各家庭に一台はあるビデオデッキは、近い将来、ハードディスク付きDVDデッキに取って代わられるかもしれないし、カメラといえばデジカメを指して当然になるかもしれない。
話は変わるが、1990年代後半から、芝通は生き残りをかけ、製品のいくつかを芝通から切り離した。
芝通の製品には、子会社でも開発しているものがある。極端に言ってしまえば、多数の製品が、親会社と子会社とのあいだで競合関係になっていた。成長が鈍り成熟した製品のうち、子会社と競合関係にあるものは、子会社に移管し、あるいは、新会社を設立して事業を移管するという措置を取った。
それに伴い、芝通の従業員のうち、多数の人が芝通を去り、子会社の従業員となったのである。

*

2000年 晩秋
磯子は、車の中で時計に目をやる。22:45、車を降りジャケットをはおる。タバコに火をつけ、夜空を見上げる。十一月の夜、吐く息が白い。タバコは大学四年のときにやめたのだが、先月、配属が変わってから吸い始めている。
<あと七時間我慢すれば帰れる>
磯子は足でタバコをもみ消し、工場の建て屋に向かった。

ナイロン製の防塵服に着替え、現場のドアを開けると、機械が騒音を上げて動いている。灰色と薄汚れた黄緑色。秋空のような透明なブルーは存在しない。
磯子は、コンベアの前に立ち、ニッパーを手にする。基板製造部。磯子の新しい部署である。基板に取り付けられた部品のリード線を短く切るのが彼の仕事。機械では、処理しきれない部分を手作業で行う単純立ち作業。腰痛をなだめるためのシップ薬は手放せない。三十分もすると、握力がなくなり手の感覚が消えていく。処理済の基板をコンベアにのせ、目視検査へ流す。
二時間が過ぎると休憩のベルが鳴る。作業員たちは小走りでサロンに入り、自動販売機で飲み物を買う。一気飲みしたあとはトイレ。作業中はトイレにも行けない。一番うしろから磯子はゆっくりとサロンに入り、タバコに火をつけた。

現場監督、製造技術職は芝通の正社員が担う。製造作業をするのはアルバイトの役割、磯子だけが正社員である。ここに来ている作業員の一人ひとりが、なぜこの楽ではない仕事に就いたのか、磯子は知らない。誰とも、口をきくこともなく五分間の休憩は終わり、持ち場へ戻る。

*

磯子はファクシミリ事業の撤退により子会社に出向していたが、芝通に戻り、1996年、携帯電話のソフトウェアの設計に携わっていた。周知のとおり、携帯電話は、ゲーム、着信メロディー、メール送受信、と機能が増え続けた。それに伴い、プログラムのステップ数も増え、ファクシミリのときとは比べ物にならないくらい膨大なソフトウェアを開発した。その業績が認められ、2000年4月、磯子はポケットベル設計課の課長として抜擢されたのだった。その四年前に子どもも生まれ、家庭も仕事もすべてがうまく行っていた。
ところが九月、ポケットベル事業をはじめるための新会社が設立され、いくつかの事業がその子会社に移管されることになり、磯子たちに転籍命令が下ったのである。

「今回は、出向じゃないんだ。芝通を退職して、子会社の従業員として、行かなくちゃいけないんだ」
その日、磯子は妻のりさ子に伝える。
「どうにもならないの? 高橋さんに頼んでみたら?」
高橋というのは、りさ子が芝通にいたときの上司で、今は技師長をしている。
「私から、高橋さんに頼んでみようかな」
「無理だよ」
「ちょっと、待って! だいたい、あなたは子どもの将来のこと、ちゃんと考えてあげてるの? うちの子、せっかく名門幼稚園に入れたのよ。名門大学の附属小学校にだって受かるって言われてるわ。親が一流企業に勤めてると、お受験に有利なんだって。噂で聞いたことがあるの。あなたが子会社の従業員になったせいで不利になったら、私、悔やみきれない」
「そんな噂に振り回されるなんてバカらしい。だいたい大学なんて、高校卒業のとき受ければいいじゃないか。今、名門附属に受かるくらいなら、将来は、より難関な国立大学にだって受かるかもしれないよ」
「それと、家のローンは大丈夫なの? お給料が下がったらどうするの? 子どもができて仕事をやめたのは失敗だったわ。こんな不景気な時代に、私みたいな主婦を雇ってくれる所なんてないもの」
「給料は今まで通りだし、何一つ条件は悪くならないよ」
りさ子は黙り、それから泣いた。

翌日、磯子は上司である中村部長に、芝通に残ることを強く希望した。
「お話しはわかりました。でも、誰だってみんな、芝通に残れるものなら残りたいんですよ。磯子さんだけを例外として扱うわけにはいきません。私も芝通を退職することになった一人だし......」
「でも、部長。今回のは従業員という地位を確保したままの『出向』ではありません。ほかの会社に移る『転籍』です。労働基準法によると、転籍は本人の同意がなければ会社は強行できないことになっています。僕、調べました」
きのうの夜、磯子はインターネットで調べ上げたのだ。
「磯子さん、あなたの言っていることには、間違いがあります。労働基準法ではなくて民法です。それはともかく――」
中村は、見下ろすような視線を投げかけ話しを続ける。
「新しい会社に移ったあとの我々は、会社名は変わるとしても、それ以外のことは仕事もなにも芝通にいたときと条件は同じです。むしろ、我々の会社が急成長すれば、芝通に残っている人よりも、年収が高くなる可能性だってないわけではありません。子会社のほうが親会社よりも大きくなったケース、磯子さんも知っているでしょう?」
「しかし、部長。そこを何とか。どうしても、僕は芝通を退職するわけにはいかないのです」
中村は、腕を組んだまま大きく息をつく。
「わかりました。とりあえず、上に話をあげてはみます。ただ、ほかの人との兼ね合いもありますから、職場は選べませんよ。昇給にも影響するかもしれません。それでもいいですか? ゴネた者が得をするといった前例は、会社としても作りたくないはずですから」
「どんな忙しい部署に配属となっても、文句は言いません」
その後、磯子の希望はかなった――基板製造部への異動という形で。

磯子は、ニッパーを手にしながら、新会社へ転籍していたら......と考えた。会社の辞令に従っていたらどうだったのだろう? 今頃は部下もそのまま、課長として新しい製品開発の指揮をとっているのだろう。芝通というブランドを失ったことをりさ子に責められながら......。磯子には、どちらが良かったのか、わからなかった。
あと十五分で、二回めの休憩時間になる。

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