連載:「寄るな危険☆大樹の陰は落雷注意――理科系な社会のバブル顛末記」

第3章 何はなくとも今のあなたが
――深刻な不景気編 '96〜

2.なんとなく、自営業

あなたにとって、特別な土地というものはおありだろうか? 生まれてからずっと、同じところにお住まいの方は、そこが特別な場所なのかも知れない。
人によっては、それぞれ、いきさつは異なるものの、引き寄せられ、たどりついてしまう場所を持っていることがある。小説を例にあげるなら、『冷静と情熱のあいだ』のフィレンツェ。『ダンス・ダンス・ダンス』の札幌。
今回は、そんな「特別な場所」についてのお話し。

*

沼田の事務所の一本向こうにある表通りの坂は、お昼休みの一時間、歩行者天国になる。
「いつも悪いね」
沼田は、ルミ子が表通りの店で買った弁当をふたつ机の上に並べる。ルミ子の出向先が、たまたま沼田の事務所の近くなのだ。
「独りで食べるより、沼田君と食べたほうが楽しいのよ」
沼田は小柄な身体で、お茶を入れる。
社長と喧嘩して武蔵テックを辞めたが、不景気で再就職先は見つからない。<まあ、何とかなるだろう>と貯金をはたいて独立したが、事務所に座っていても仕事は降っても涌いても来ない。事務所といっても、知り合い所有のワンルームマンションで、築35年はゆうに超えている。「借り手がいないから」と都心にしては破格の家賃で貸してくれたのだ。
ホームページも作ってみたが、問い合わせだけで、お金に繋がる仕事は一件も来なかった。
「だいたい、独立するヤツってさあ、会社にいるときから、人との繋がりを持っててさあ、準備を整えてから辞めるじゃん。僕みたいに、会社登記のやり方も知らないで、成り行きで独立してもうまくいくはずないよな」
沼田はルミ子が買ってきた弁当を食べながら言った。
沼田は、1989年に武蔵テックに入社して以来、芝通から来る詳細設計を仕事としていた。受注は、社長の長田が発注元の電機メーカーと交渉していたので、沼田には人脈などない。
「僕さぁ、社長を責めただろ。ボーナスが少ないのなんのって。今から思うと、社長も仕事がなくて辛かったんだろうな」
沼田は自分の会社が倒産するところが頭に浮かび首を振る。
「私、沼田君が独立して思ったんだけど、芝通なら、例えば――。ノートパソコンを開発するでしょ。そしたら、TVや新聞、雑誌......、お決まりの広告宣伝をして、キャンペーンやって......。特別なことをしなくても、お客さんが買ってくれるでしょ、『ブランド』でね。もちろん、マネージャークラスの人や、営業関係の人は、どうやって多く売るか必死かもしれないけど、私みたいに末端のエンジニアは、そんなことは考えもしない。考えることを要求されもしないし。だから、仕事が来ないなんて、芝通にいたときは想像もしなかったわ。......自営業って厳しいのね」
ルミ子は1989年、芝通に入社して以来、エンジニアとして働いていたが、二年前から子会社へ出向している。
「今になって思うと、私はね、出向することなって、よかったと思ってるの」

*

二年前のその日、沼田はルミ子に誘われ、アパートを訪ねた。まだ、沼田が武蔵テックにいたときのことである。
「私ね、子会社に出向することになったのよ」
飲み始めてから、ずいぶん時間が経った頃、ルミ子が沼田に言った。いつ戻れるかわからない、どちらかというと、解雇に近い出向なのに、あっけらかんとしている。
「出向先に挨拶に行ったんだけど、みんないい人でさ。若い人も多いし」
ルミ子は高めのテンションで話す。
「関口さんが出向すること、噂で聞いて知ってたよ。そっとしておいたほうがいいような気がして黙ってたんだけど。元気で安心したよ。関口さんって、入社して一年めから、結構むずかしい仕事を任されてたでしょ? 結果も出してきたし、努力もしてたよね。だから、『こんなにがんばったのに、なんで認めてもらえないの〜?』な〜んてブーたれてんじゃないかって、心配してたんだ」
「あたしが落ち込むわけないじゃん」
ルミ子は、高笑いをしてワインをひとくち飲んだ。
「だよな。じゃあ、そろそろ引き上げるよ。終電に乗りたいし」
沼田は、時計を見ながら言った。
「これから通う会社はね、私の卒業した大学の近くにあるの。昔、慣れ親しんだ場所に戻れるから、うれし〜い」
ルミ子は話の続きを始める。沼田は終電を諦め、二本めのワインをあけた。
「関口さんの大学って、飯田橋にあるんだっけ?」
「そう、線路に沿って桜並木があるの。春になるときれいでね、市ヶ谷まで花を見ながら歩くのが好きだったわ」
「関口さんに桜かぁ。ミスマッチのような気もするけど......」
沼田は、ルミ子のグラスにワインを注ぐ。ルミ子の反応がないので、沼田は顔をあげると、ルミ子の目から涙が伝い落ちるのが見える。最初の涙がこぼれると、あとはとめどがない。
「今まで、私はね、『芝通の関口』として多くの人と関わってきたの。沼田君もそのひとり。でも、もう沼田君とは、一緒に仕事することもなくなっちゃった。今まで、沼田君が私と会ってくれたのは、武蔵テックの仕事をスムーズにするためだったんでしょ?」
沼田は、話題を変えようと、会社の先輩である萩原のことを口にするが、うまくいかない。
「私は、なんの利用価値もない女になっちゃった」
「利用価値はなくなっても、僕にとって関口さんは変らないよ。人の存在価値ってなんだと思う? 『できる、使える』、それだけだとしたら悲しいよ。僕は、何もできなくなってしまう自分に怯えて生きるのはイヤだ。人間は、doing――することに価値があるんじゃなくて、being――いることに価値があるんだ。だから、関口さんは今のまま、ここにいてもいいんだ、僕はいて欲しいと思ってる」
「私って、沼田君にもずいぶんひどいことしたよね。それなのに、ありがと。私のほうが、立場が強いことをいいことに、わざと意地悪してさ。ずいぶん傷つけたよね。私って、ちょっと仕事ができるからって、いい気になってた嫌なヤツだよね。そんな私だけど、これからも会ってくれるの?」
沼田は、ルミ子の肩に手を回す。肩は小刻みに震えている。沼田はそのままルミ子が泣きやむのを待った。

*

それから、二年間、ふたりは今まで通り、気が向けば会って食事して......、恋人というより、友達に近い気楽な関係を続けた。
「私みたいな女が増えたら、結婚なんて制度は、なくなるかもね。私は人に縛られるのがイヤなのよ。結婚して自由を失うくらいなら、独りのほうがいいの。結婚しなくても、生活は困らないし」
ルミ子は気儘な沼田との関係を愉しんだ。

独立してから、仕事が来ないまま、一ヶ月が過ぎた。
沼田は、事務所でパソコンの画面を見ながらルミ子に話しかける。
「芝通に根岸さんっているでしょ?」
「私の後輩の根岸君のこと?」
「そう、オタクの根岸さん」
ずいぶん前に、沼田は芝通の飲み会に出席したことがある。根岸とは、そこで知り合い意気投合し、その後もメールで連絡を取り合っていた。
「最近、インターネットが普及してきただろ? で、ある企業で、自社の商品情報を発信するサイトを作る計画があるらしいんだ。サイト制作の会社は決まったらしいんだけど、そこが詳細部分の設計をする会社を探しているらしい。根岸さんが知り合いに頼まれて、僕のことを紹介してくれてさ。午後から、打ち合わせに行くことになったんだよ」
「うまくいくといいね」
その後数回、沼田は取引先に足を運んだ。

いつもの時間どおり、事務所にルミ子が来る。沼田はルミ子にVサインを見せる。ルミ子はガッツポーズを返す。
「でも、一つだけ問題があるんだ」
「いったい、なに?」
「人が足りない。納期に間に合わせるためには、あと一人くらい必要なんだけど、誰にでもできる仕事じゃないしね。誰かできそうな人知らない?」
沼田は、ルミ子が入れたお茶をすすりながら言った。
「それで、つまり......?」
ルミ子は沼田の顔を見る。
「関口さんってさあ、入社した頃はアッセンブラ使ってたよね? そのあとはCでしょ。今はUNIXなんかもバンバン使ってるし......」
「でも、私の仕事って、インターネットとは直接関係ないでしょ。だから、HTMLがどんなもんだかすら知らないのよ。Yahoo!のこと『ヤッホー』って読んで、爆笑されたくらいだもん」
「大丈夫だよ。始まるまで間があるから、今のうちに覚えればいいんだよ。関口さんは、芝通で電話機のソフトウエア設計もやってたし、企業向けのシステム開発も手がけたことあるくらいだもん。それと比べたら楽勝でしょ」
<僕と仕事しないか>
そう言う代わりに、沼田は目でルミ子に訴える。
「突然のことで、私、混乱してる。二年前、出向先が飯田橋だって知ったとき、何かが起こるとは思っていたんだけど」
ルミ子が就職先を芝通に決めたのも大学の学食だったし、初めてエッチしたのも、飯田橋にある先輩のアパートだった。昔、ルミ子の祖父の実家が、飯田橋にあったので、ルミ子の本籍は飯田橋にある。
「たぶん、私が年取って死ぬとき、私は、飯田橋に引き寄せられるように近づくような気がするの」
新宿や渋谷のように、遊べる場所があるわけでもない。飯田橋という場所があることすら知らない人もいっぱいいる。でも、ルミ子にとって、飯田橋は特別な場所なのである。
「私が会社を辞めるのも、ここ飯田橋で決まりそうね。私は、沼田君と一緒に仕事することにする。友達のまま気楽に沼田君のことを助けていきたいの」
今、ルミ子は飯田橋にいる。心は決まっていた。

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