連載:「寄るな危険☆大樹の陰は落雷注意――理科系な社会のバブル顛末記」

第2章 なにぶん景気が悪いもので
――バブル崩壊直後編 '90〜'95

8.彼女たちの計算結果

若い女性が結婚相手を選ぶとき、その基準は何だろうか?
「基準なんてないわ。なんとなくよ」
「私は、なりゆき。たまたま付き合っていた相手も自分も結婚する時期にあったから結婚することにしたのよ」
これといった計算もなく、交際が進展して自然に結婚へ。それも、一つのパターンとしてある。
一方、「恋愛と結婚は別」とばかり、男を「体力」、「財力」、「外観」、etc. といった評価基準で採点し、合格点に達しているかどうかで結婚を決める人もいる。そもそも女性は優良な遺伝子を残したいという願望のもと行動を起こしている、と考えるならば、ある意味で正しいことなのかもしれないが、いかがであろうか?

小林みどりの友人、大里キヨミは女医である。しかも美人。
「親がね、『金井君じゃぁ、どうしてダメなんだ?』って訊くのよ」
キヨミは、大学時代の同級生である金井と付き合っていた。その後、医局の先輩である土田とも付き合い(是非はともかく、ふたまたというヤツ)、迷った挙げ句、土田と結婚することを決めた。学閥や医者としてのセンスは土田より金井のほうが上である。親にしてみれば、娘が土田を選んだのが不思議でならない。
「私、答えられなかった。だって、土田さんのほうが、セックスがいいのよ、なんて、親に言えないでしょ」
「女性が男性を選ぶ理由なんて理屈じゃないの」
とキヨミは説明し、親はキヨミの結婚を祝福したのであった。端からみていると不可解でも、彼女は優良な?遺伝子を残す行動を取っていたのである。

磯子の妻、りさ子の場合――。
「本当のことを言うと、大学時代から付き合ってた彼氏がいたの。卒業した大学も就職先も磯子のほうが上。迷わず、磯子を選んだのよ」
りさ子は入社してすぐに磯子と付き合い、寿退社をしたのである。
「私は母親みたいになりたくなかったの」
りさ子の父親は、中学を卒業してすぐ、小さな会社に就職する。母親は、出世に無縁な父親を「情けない」となじり、「こんなはずじゃなかった」と自分の人生を嘆いた。
「うまくいかない原因をべっとり父親になすりつけちゃってさ。私は、そういうのがイヤなのよ。だから、結婚相手は言い訳できないくらい条件のいい男。そう決めてたのよ」
りさ子の思い描く結婚生活は――。夫は一流大学を卒業して、大企業に勤め、いち早く役職者になり、いずれは重役。広い家にはヨーロッパ調の家具。午後はお友達を家に招いて手作りケーキでティーパーティー......。
二人は都心のホテルで盛大に結婚披露宴を挙げたのであった。
ところで、りさ子の計算結果、合格点をもらった磯子はどのような毎日を送っているのだろうか? ここから先は、磯子のお話し。

*

結婚して一年が過ぎたある日。磯子は夢の中に便器が出てきて目が覚めた。トイレに行きたいのだが、口の中が渇ききっている。
きのうの夜、磯子はひとりで飲みにいき、店で知り合ったOLと意気投合する。ふらついた足取りで、彼女の住むマンションまで送ると、「お茶でもどう?」と言われ、<外泊はまずいな>などと酔った頭で考えているうちに、気がつくと上がっていた。
さっさと始めようと立ち上がり、ズボンのベルトに視線を落とす。飲み屋で食べた串揚げの油がこみあげる。磯子はトイレに駆け込んだ。
「私ね、カルティエの時計を店でなくしたらしいの。これから取りに行くから」
OLはろれつも回らず叫んでいる。磯子はさらに気分が悪くなって、もう一度胃の中のものを吐いた。便器の水にはスパゲティが色を抜かれたミミズみたいに泳いでいる。
磯子は、すっかりやる気が萎え、独りでタクシーを拾い自宅へ戻った。

「カルティエの時計って、なに?」
冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターを飲む磯子に、無表情でりさ子が訊く。
「おはよう」
「さっきね、女の人から電話があったのよ」
「僕ねぇ、トイレに行きたいのを我慢していたんだ」
磯子は、ウンチをしながら上手な嘘を考えるがまとまらない。
洗面所に逃げ込み、ひげを剃ろうと鏡を覗くと、背後からりさ子が近寄ってくるのが見える。
「時計を弁償してくれって、電話口で言ってたけど......。時計ってなんなのよッ!」
<僕はなにもしていないよ。それなのになんで責められなきゃいけないんだ?>
「芝通の人って、まじめで浮気なんかしない人ばかりだと思っていたのに。あなたみたいな人もいるのね!」
<僕は入れてないよッ!>
磯子はそう言おうとして言葉を飲む。
「私ね、前々から言おうと思ってたんだけど。残業規制であなたの手取りが減ったでしょ。ローンの返済キツイのよ。だから私、働くことにしたから。進学塾の講師が決まったわ。私はね、働くのがイヤだから結婚したのに。まったく!」
磯子は返す言葉がない。
「本当のことを言うと、大学の時にね、付き合ってた彼氏がいたの。私はね、その人と別れてあなたと結婚したのよ。こんなことになるなら、そっちと結婚すればよかった」
磯子はもう一度トイレに入る。
<手取りが減ったのだって、僕のせいじゃない。残業規制のせいだ。僕は悪くないんだ。なのに、なんで僕は責められているのだろう?>

『言い訳できないくらい条件のいい男』だった磯子は、りさ子に責められる日々を送る。
「一流大学卒で一流企業勤務じゃなけりゃ結婚しなかったわよ」
と言ってのけるりさ子。
「計算どーりに事が運ぶわけねーだろ」
と人は言うかもしれない。
それでも、りさ子は磯子に期待し続ける。
先行き危なそうな磯子とりさ子。その続きはまた後ほど。

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