連載:「寄るな危険☆大樹の陰は落雷注意――理科系な社会のバブル顛末記」

第2章 なにぶん景気が悪いもので
――バブル崩壊直後編 '90〜'95

5.人の心 惑はすもの

あなたは朝目覚めると、見知らぬ場所にいる。まわりを見渡し、自分がいる場所がどこなのか、なぜ自分がここにいるのかと考える。はっきりしないので、前日の眠りにつくまでの記憶を一つずつ呼び起こす。
フランツ・カフカの小説に、主人公が朝起きたら毒虫(あるいは毛虫)になっていた、という話がある(ご存知、『変身』である)。朝起きると前日の記憶が消えている。あなたは毒虫になるより?慌てるに違いない。

*

1991年10月上旬のこと。
コーヒーの香りが鼻をくすぐる。
「みどりさん、朝食できましたよ」
みどりは目を覚まし、あたりを見回す。頭がくらくらして、今にも吐きそうだ。みどりは自分がどこにいるのかわからない。
みどりはキューブリックに来て三ヶ月になる。あと一週間ほど様子を見て、システムに問題がないようならば芝通に戻れる予定である。
キューブリックのファクシミリシステム開発部で働く吉岡千春が、目玉焼きとトーストを運ぶ。
「なんで私がここに?」
みどりは、昨日のことを思い出そうとすると頭が痛む。
「きのうの夜は、新橋で飲んだんですけどね。みどりさんは一人で歩けないくらい酔っ払っちゃって。『家はどこですか』って訊いても、よくわからなかったんでうちに来てもらったんだけど......。勝手なことして、ごめんなさいね」
店を出て、千春とタクシーに乗り込む様子が、みどりの頭でフラッシュバックする。
「『大久保君に会いた〜い』って叫んでたけど、大久保君って小林さんの彼氏ですか?」
みどりは首を横にふる。なぜ芝通で同期の大久保の名前を口にしたのか思い出せない。
<取り返しのつかないことをして、二度とキューブリックの事務所に顔が出せなくなったら......>
「私、夕べのこと、よく覚えてないけど、なんか変なことした?」
「大丈夫ですよ。たいしたことしてませんよ。酔うと『13金』のジェイソンになっちゃう人が、キューブリックにいたんですよ。アパートの二階の窓から後輩を投げてクビになりましたけどね。それから比べたら、かわいいモンですよ。『大久保く〜ん』って連発してただけだもん」
「すごく恥ずかしいね」
キューブリックの千春は今年で三十歳、入社七年目、みどりと同学年――一浪しているからみどりより年は一つ上――である。
みどりは、夕べの記憶をたどっていった。
きのうの夜は、夜十時に仕事が片付いたあと、
「みんなでご飯を食べに行くので、小林さんも行きませんか」
と誘われた。キューブリックでは、ご飯を食べる=酒を飲む、である。みどりは<たまにはいいかも>と思い、ついていった。

キューブリックのシステム開発課の加藤は、アルマーニの背広を着こなしている。
「ここの店、食いものがうまいんですよ」
背が高く、仕事もできて話も面白い。銀座あたりで飲むことが多いのだが、美味しければ、値段は気にしないらしい。松本ひかるのバッグはエルメス。本物である。キューブリックでは、仕事ができる人の収入は多い。男女差別、年功序列は、とっくの昔に消えている。
「ここにいる八人は、みーんな独身で〜す。キューブリックは独身が多いでーす。独身生活にカンパーイ!」
キューブリックのファクシミリシステム部で既婚者は半分くらい。独身が多いのは芝通も同じである。今年で二十九歳になるみどりであるが、多摩工場に配属された同期の男性二十四名のうち、結婚しているのは八名だけ。女性六名も半分の三名しか結婚していない。芝通のエンジニアたちは三十歳を過ぎると、見合いや友達の紹介で知り合った相手と結婚する人もいるが、独身のままの人も珍しくない。

「私が機械設計をやってた頃の上司で、桐畑さんっていう人がいるんだけど、三十六歳で結婚してさ。奥さんになった女って、横浜育ちのお嬢様なんだよ。中学校から私立女子校。すっごい美人なの。どーして、トーダイ卒とか、キョーダイ卒と結婚する女って、美人が多いのかなッ! そーゆーのって、ムカつかない?」
みどりはビールを一気に飲み干す。
「もしかして、みどりさんって、ひがみっぽい?」
ひかるは笑う。
「ひがんでないけど。きれーな女が『おいしーとこ取り』すんのが許せないの。そう思わない?」
「やっぱ、ひがんでる。それとも、来年三十代に突入するから、焦ってる?」
「焦りより親のプレッシャーのほうがキツいわ。『結婚しろ』ってうるさいのよ。結婚しないで仕事をしていると、まるで悪い事をしているみたいに責められるの。でも、ここにいるみんなは独身でしょ。安心したわ。わたしたち仲間ね、な・か・まっ」
加藤は、「わかってないなぁ」と呟く。
「独身とはいっても、みんな一度は結婚しているんだよ。うちの会社は離婚率が高いんだ」
「ハラァ〜〜。結婚できない私はバツイチにもなれないのねぇ〜」
「そーゆーこと」
「でもさぁ、夫婦が別れるきっかけってどんなこと? 芝通って、結婚率も離婚率も低いからわかんないのよね」
みどりは身を乗り出して訊く。
「そんなー、面と向かって訊かなくても......。まあ、いいけどね。例えば、オレ――」
水野が自分の鼻を指す。
去年のことである。出張していた水野は、予定より一日早く帰宅した。寝室のドアを開けると、奥さんが裸になって水野の同僚と寝ていた。
「『一日早く帰るなら連絡してよ』って、オレ怒られたんだぜ。思わず手が出たね」
もめにもめた挙げ句離婚し、三人とも水に流して、今まで通りに仕事をしている。奥さんもその同僚も独身を続けている。
キューブリックでは社内結婚が多い。結婚しても仕事を続ける女性は、離婚しても仕事を続ける。
ひかるは、結婚して半年もしないうちに別れた。
「だって、暴力ふるうのよ。私が上司と仕事の話をしただけで、家に帰ってから、『この浮気ものッ!』って言って殴るの。残業して帰りが遅いとバシッ。洋服買うと、『男に媚びてる』とか言ってビシッ。うちの会社って、成績がいいと手当てがつくでしょ。私の給料が彼よりよかった月なんて、『こんなにいい給料取りやがってッ!』ってビシビシ。わるいけど別れましたぁ〜」
「なんか、コンプレックスが強そうな男ね」
「その点、僕の別れはオーソドックス」
羽元は社内結婚したが、新人の女の子と浮気したのがばれて離婚。「オーソドックスでしょ?」と、羽元はみどりに同意を求める。
「なんで男の人って、奥さんがいても他の女とやっちゃうの? すっごく不思議」
「僕の身体の奥深いところから、遺伝子のコピーを作れという声が......。僕は操られて、ついつい......」
「遺伝子に責任を転嫁しているよーな気がするんですけど」
「僕だって、頭じゃ悪いことってわかっているんだけど。例えばよ、取引先の応接室で、先方の女性が前屈みで資料を配ったとするじゃん。そんでもって、襟のとこから胸の谷間が見えちゃって、乳房が触れそうなくらいの距離に来ちゃったりするわけだ。もちろん、ブラジャーしてるから乳首は見えないよ。でもね、男ってそーいうものに、心がドキドキしちまうわけよ。取引先だっていうことを思い出して、自分を取り戻す奴がほとんどだけど、僕はその辺が弱くてね、おかげで慰謝料ガッポリ取られたけど」
「とーぜんでしょ! 奥さんがかわいそーじゃない!」
「女だって、いい男がいたら乗り換えるじゃん。男も女も、肉体はいつかは滅びるだろ? でも、遺伝子は残っていくのよ。子供に受け継がれて。誰だって、ひとつでも多く、自分がこの地球に生きた証しを残したいっつー願望を心の奥底に秘めているわけよ」
「あなたの遺伝子がその利己的な考えと共に絶滅しますように、って祈ってやるわ」
「まあ、そう冷たい目で見ないでさ。僕は自分に正直なの。生殖活動を通して、僕がここで生きていたという証しを残そうとしちゃうだけなんだ」
「ようするにスケベ」
「そーいう言いかたもあるけど。みどりちゃんの言うとおり、僕は利己的かもしれない。貪欲だし、ずるさや嫉妬や憎しみみたいな、どうしようもないものを抱えながら生きてるし。でも、みどりちゃんも、同じだよ。誰だってそうなんだ」
「......そうかもね」
「それでも、僕は人が好きだ」
羽元はみどりの肩を抱いてキスした。

「そしたら、みどりさんはギャーって叫んで、羽元さんのこと突き飛ばして大変だったんですよ。しばらくすると、『大久保君に会いた〜い、大久保君じゃないとイヤだ』って騒ぐ騒ぐ。......もう、大変ッ」
千春は笑いながら言った。みどりの頭を羽元の顔がよぎる。

「思い出した! 『私の遺伝子なんか残らなくてもいい。自分が開発した技術が残っていけばそれでいいの』って言った気がする。羽元君は、私のことを理解できないって言ったのよ」
「みどりさんって、結婚願望ないの?」
「なくはないけど、働くの好きだから、平日は仕事に集中していたいのよ。週末だけ、好きな人といっしょに過ごすの。それが私の理想。男女両方、精神的にも経済的にも自立していないとできないけどね。相手のことを信じていれば、会えなくても寂しくないし、籍が入ってなくても不安にはならないわ。平日にね、留守電にメッセージを残したのに折り返し電話がかかってこなくても心配にならないの。『彼も仕事で忙しいのね』って思えるくらい、相手のことを愛して信じられるようになりたいの。目に見えないものを信じられるのって素適だと思わない?」
「そういう男女の形もいいかもね。お互い相手の財布を当てにしないとこが気に入ったわ。だいたい、私が好きになるくらいの能力が高い男って、攻撃性も高いのよ。今までの経験で言うと、私って毎日ベッタリだと相手のことを束縛した挙げ句、傷つけてしまうの」
「私も距離が近すぎる付き合いって苦手かも......。大久保君と週末、一緒に過せたら、それだけで、すっごく幸せ」
みどりは、千春のマンションを出ると、大久保のいる寮に電話をかけた。

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